カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の記事

2016年12月13日 (火)

論理的思考を唾棄して感情を意思決定の主体とする人々の異常性について

陰湿な女性の集団リンチに遭遇!?

職場において集団の女性の陰湿さに叩かれた事があった。

私は現在ある全国チェーンを行っている大手会社の弁当を作る仕事をしている。その中の作業では例えばゴマやふりかけを手で振りかけたり、昆布を計量して盛り付けたりなどおよそ弁当工場を知らない人は高度に機会化された職場と思われているかもしれないが、毎日アイテム数によるが数千数万もの弁当の数々は実は人海戦術と手作業で行われているのだ。

その職場作業の一端で卵を入れる工程があったのだが私の具材の入れ方が悪いと言われる。なぜかと言えば「投げる様に入れている」風に見えるらしい。
むろん卵、特に生卵に近い状態なので一定の納得はできる。
だがしかし実際はそれで割れることはほぼなかったし、また私の責任で割れた黄身も自覚しているだけで数えるほどしかなかったわけで…
、言うほど問題のある入れ方をしていたわけではないのに批判するというのは、こうなると残った理由は好き嫌いということ以外にはないわけで…。
これからも仕事上の付き合いもあるのにこういう突き上げには困ったものです。(--)

たかが入れ方、されど入れ方


私はこの作業をやるなかで単純に入れればよいという作業ではないという事を十分に自覚していた。もちろん自信もあるが論理自体もずれているのが問題だ。コンベアの脇に立って卵を入れるわけだがこれが入れる向きによって全く出来栄えも何度も異なるのだ。見た目をよくするためには白身が飛び散らないのが適切なのだが不思議とコンベアに向いてやるのと後ろ向きでやるのとでは雲泥の差が出る。
また男女間の体格差も意外とある。工場の機械は比較的女性が作業しやすい高さになっているのが一般的で私はやや体格がいい方だが、高さが異なるので卵のリリース手法が異なるのだ。掌に卵をのせて置く様にという説明は受けた。理想としてはその通りだと思う。
しかし、背が高いと低い位置に置こうとすると高すぎるし、実践してもう一度考えてみると傾斜が付く。傾斜が付いたところから卵を落としたら狙い通りの位置に置くことができない。低い位置に合わせておくにはある程度は5本の指で包み込んで落とすしか方法がない。またそれ以外にもコンベアの奥側に卵を置くか後ろ側に流れてしまったものに置くかでも角度が付くので一定の置き方は実行できない状態にあるのだ。
だが、この論を主張してそれなりに認められたら仕事をする立場を追われることになるので、ここは避けねばならない事情が存在する。

論理的でない人々の支配的空気


私が「違う」と説明するには相手は論理的ではないし、一言(ひとこと)でも反論しようものなら、こちらが子供的な不真面目を振りかざしている風に扱われるか、「私語を慎め!」的な空気で封殺されて釈明する余地は与えられない。

こちらは一言であえて「やってない!」と論理的でないがかつ一言で語気を強調する方法を取らざるを得なかった。
「気を付けます」と言えば済むかといえば単純でもない。それは私自身が構築した仕事方法の否定となり、論理的でない。“およそ主観的にそう見える”類の言に従うのは言ってみれば私の矜持(きょうじ)、プライドとか自尊心的な物を損ねる結果となる。
仕事に対しての自負心にダメージを受けると、苦手意識を植え付けられるだけでなく、仕事そのもののモチベーションを大きく損ねる。その結果にあるのは離職の他はない。

環境の悪さをものともしない敵対的嗜虐者


極論ではなくこの仕事は立地条件の悪さや慢性的な人手不足、少ない人員であらゆる作業をある程度分業しながら人ごとに一定の得意なポジションがメインの役割として与えられている。例えば職場のFさんはご飯を計量すのがメインの作業でほかの作業を人員の空きがあれば適宜配置する。
私としては一つ一つの作業にモラルハラスメントでかつ嗜虐を目的とした人々にいちいち“ケチ”が付けられるのは避けたいことでもある。
おそらく狙っての事だろうと思うが公開処刑のような事も多々あった。
職場は温度管理されているどちらかといえば寒い。寒さには厚着対策でしのげているが良い環境とは言えない。
商品のでき自体は悪くないし指摘する論点も「黄身が割れる」よりは「白身が飛び散る」ほうが優先されるので違う。
そもそもわざわざ指摘されるほど私は卵を無駄にしていないのだが・・・、そうなると個人の好き嫌いの問題になるのだがそういった論理矛盾を指摘する余地は前述のとおりあまりない。

便乗する愉快犯的な大阪おばちゃん


一旦はそれで終わったがその後、
普段であれば明朗快活に話をしている作業現場にいた別の大阪出身のおばさんと少し語を話しながらやっていたが、先ほどの「投げ入れる」的な話題を強引に便乗させて今度は「貴方のそういう態度があかんのよ」と言ってくる状態に。また論点が卵の置き方が悪いから「黄身が割れる」から「白身も飛び散る」と置き方に起因する問題点を追加して攻めてきた。私はこう思った「何という卑怯な畜生―(ピー)が!OMG!」

先日私と趣味の話を話しているのを見咎められたせいか攻撃性が増している。ただこの大阪おばさんの性質として面白おかしく話ができる引き出しを持っていて人当たりの良さからそれなりの人気があるのだが敵対する相手に対して愉快犯的な嗜虐心を持っている。倫理観が欠如しているので自分の都合の良い事の話題を“盛る”習性を持っているので、私のように攻撃する対象となればちょっとした失敗を論い極悪人に仕立て上げられてしまうことだろう。
今回がまさにそれだ。全体としての出来は普通か中の上ぐらいで問題ないレベルだったのだががそこを無視して攻撃に転じた。

危険な大阪おばちゃん


この大阪おばさんは職場のおばさんの意識を束ねることが可能である種のアジテーター(扇動者)としての役割を持つ。人の噂話や話題でメシが3杯おかわりできるタイプの人なので休憩時間に他のおばさん連中にある事ない事を触れ回り、ディスカウント行為をしているようだ。
こちらが何に対して心配し怒っているのか、どう思考して窮屈な中で言葉を選んでいるのか忖度せずに「あの子は態度がでかいからあかん」「プライドが高いから受け入れられへん」とか、おおよそ自分たちの責任は抜きにしてこちらが「大人になりきれない餓鬼」のようなイメージを刷り込ませていく。

反論するとこども?、「それは違う」を言わせないのがおとな?


少し横道にそれるが自分で餓鬼という単語を出してなんだが自認もある。しかし、物事はすべからく正しい理論とか真理によって正しく処理されなければならないという強い想いがある。私の人生は中立客観視できない人間からの迫害の連続である。そういった境遇にいるのは私だけではないが、私自身のやり方として言論でもって抗する方法を選んだ。
一見、合点がいく理由を用意して貴方の方法は間違っているというおよそ教条主義的で融通の利かないモラルハラスメントはどこでも横行しているのではないかと懸念する。特に食品会社においては「衛生的である為に」という金科玉条として安易に従業員の休憩時間までも縛ろうということがある。
私の職場は休憩時間ですら帽子を脱ぐことは許されない。
「ルールを守るのが大人である」という刷り込みが世間では一般化しているのだと思うが、「ルール=全てにおいて正しい」という誤解があるために、このルールというものを疑う時期がいくつかの組織や世間では来ているのではないだろうか。
日本人は倫理的意識が基本的にある人々だ。だからルールを策定する側も倫理が高い人であり間違うはずがないと安心しきっていると思う。その点を論じることを面倒だと考えるきらいもあるように感じられる。なにかしら納得できる理由があればそれで十分という事も多いのではないか。
しかし、個人の行動を大きく制約し自由を奪うというルールというものには異議を唱えなければ、豊かさが組織に収奪され続けてしまうだろう。

気になる商品の出来は…

こういった出来事があって、特に白身に関しては出来栄えを重視し、白身の飛び散りについては置き方でなく手に付着することが原因なので白身を落としてから黄身を置くことにした。白身の見た目に関しては普通~中の上から、最低でも中の上以上の出来栄えになった。置き方は高さは同じように低い位置を維持しつつ基本は変えずに行ったが黄身が割れることは、黄身が指で傷つけたり自覚できることを除いてはほぼなかった。
見た目は悪くないので結果としては良い仕事をできた。

当然ならこの陰湿悪女どもはその結果を褒めることはなかったし、吟味して入れ方の問題ではないという事はしなかった。
彼女らは攻撃性においてはディスカウント的嗜虐心で主張するが利益にならない物をわざわざ褒めたりはしないのだ。
エモーショナル(感情的という意味)な理由で動く人間と理によって動く人間の差は結果に出る。
自分のやり方に自信があると思う人はそのやり方で結果を出すことにより批判を覆してほしい。
そして、結果として誤ったと思った時には間違っていたと認める勇気もあるといい。
(ただ多くは嗜虐的な理由なので論理形成と結果が伴えば誤ることはほぼない。その対象が流動的か固定的かの判断もある)

仕事の難易度や働く人間の品位やタイプは異なるが、こういった卑劣な集団への抵抗予防を怠らないようにしてほしい。
大阪おばちゃんのように仲良くできそうと思っても、付き合いにくい出来事が過去にあったなら注意しておこう。
批判される出来事があったら愉快犯的にフワフワと便乗して復讐を遂げようとしてくる。まず人間的にドライかウェットな人間か見定めて対処するのも良いだろう。

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2015年11月11日 (水)

怒り新党に疑問。シチューかけご飯について考える

「有吉マツコの怒り新党」にてシチューにご飯をかける事に対して、肯定的・否定的な意見がとりあげたサイトの各所で寄せられた。そのご11月中にドリアが出た会でまたシチューの話題がでる。まだちょっと思うところがあってまた焚き付けられた感じだが、一般人もまだモヤモヤ感が残っているのではないだろうか。
決着をつける必要はないし答えはないが、強硬に許せないという意見には目を丸くするばかりである。

ビーフシチューならスープっぽい仕上がりだしごはんと合わないというのはわかる気がするがクリームシチューやホワイトシチューを理解できないだけでなく許せないというのは分からない。

日本人はご飯と一緒に食べる食文化がたくさんある。

日本にはご飯に合う食べ物が沢山ある。それが許すか許さないといっていること自体が偏狭というほかないあ。食文化というのは豊かな下地や正当な系譜において確立するものばかりではない。
庶民向けにはおいしいご飯と何かと食べ合わせレベルのものも多いかもしれないが支持されている食べ方があったり、一部の職業(漁師や飲食店)に限られた漁師飯やまかない飯などにも独自のご飯が存在しているのではないだろうか。

豊かな食文化を許容する土壌にある日本人がそういったことを考えると許さないだけでなく人に非ずという感覚は異常極まりない。冗談や大げさで「許さん」と言っているとしても笑えない。
ある種のISISなどの宗教とか原理主義者と同じである。

汁物と食べる米食

シチューにご飯をかけないまでも、日本には汁物とご飯を食べる食文化がある。まず断っておくが料理として確立されていない正統派ではない、下品であるという言い分はおよそ個人的な感情が入っているものなので庶民の食文化という観点から排除しないこととする。

例えば「お粥」。味はあっさりした塩味で多少の菜っ葉か梅干しを具にするぐらいの淡白な食べ物である。

お鍋の汁が残った場合は「雑炊・おじや」(以後雑炊と表記)にする。これも鍋という観点からして淡泊な食べ物である。これにご飯を足すことで飯(めし)が水分を吸って粘度を増すので食感はシャバシャバていない。具とだし汁に卵を入れるとシメの食べ物にもかかわらずあっさりしているのに食べ応えがある食べ物に変化する。ご飯ものでガッツリ食べる系の人は雑炊こそがメインディッシュではなかろうか。
「お茶漬け」も汁物と食べる米食といえるが、これもあっさりしている方だろう。

品がないがご飯に味噌汁をかける「ねこまんま」(正式な名称は知らない)もある。ごはんに対して味噌汁のだしと具がよく合う。直接かけないまでも、ご飯を口に含ませて食べた後に汁で流し込む食べ方をする人も根本的にはねこまんま的な食べ方を表向きはマナーとして拒絶しても、潜在的には許容しているともいえる。違和感がないのはやはりごはんと味噌汁は食べ合わせがいい食べ物と言えるからだろう。
だしの味がおいしいもそうだがジャガイモ、玉ねぎ、ねぎ、油揚げ、豆腐、と豊富な具を口にほおばる多幸感は、具だくさんの雑炊やシチューかけごはんと通じるものがある。焼き肉とご飯を食べる多幸感もおなじようなものだろう。

そういった汁物による米食を考えてみると、お粥などは控えめすぎるが
味が淡泊で多少粘土のある洋風の雑炊・おじやという位置づけになるのではないだろうか。

ソースと食べる米食

ここでは、汁以上に粘度のあるソースにかけて食べる米食について考える。
代表的な食べ物として「カレー」がある。旨味と辛さのバランスがよく、粘りのあるルーがご飯によく絡みおいしさが引き出されている。どんな具を入れても外れることがなく、チーズを入れたり、カツカレーにしたり、自由。基本の味覚として甘さと辛さに頼りがちなので味の繊細さは豊かではない。具材のバリエーションは何にでも合うが、悪く言えば何もかもカレー味になるなので素材の旨味を活かすのは十分ではない。大味な食べ物ではあるが国民食として誰でも作りやすく食べやすく、具によって様々な多幸感を演出することができるのが強みだろう。
最近出てきたタイカレーなどは汁物の分類にしたかったが味はしっかり辛さのパンチも利いている。

これもよく似ているが「ハヤシライス」がある。一般的に甘味が強い感じだがドミグラスソースとかワインとか使ってきちんと作ると洋食っぽさが出てコクや深みも演出できる潜在力がある。
個人的に作ることはないがチーズとか乳製品を炒める「リゾット」という食べ物もある。

「ドリア」もご飯がよく合う食べ物である。表面のチーズがおいしい、良く熱を通したパリパリになった表面を食べるのはおいしさ以上の喜びがある。エビやミートソースを入れたりイタリアン風に仕立てるものもあれば、シチューのようなグラタンなどあるが、具だくさんの多幸感が素晴らしい。

今回、有吉マツコの番組では両社ともドリアに対しての愛着がない感じだった。考えてみるとドリアとシチューをご飯にかける行為は焼いたのと鍋で煮込んだものと違うが、内容はほとんど変わらない
あまったシチューを耐熱皿でご飯を入れて焼いたら「これドリアじゃね?」と思うことはよくある。

ドリアとシチュー(厳密にはクリームシチュー)の違いについては「シチュー グラタン 違い」で検索してみると、「調理法が違い」、「グラタンは焦げ目という意味なので焼けばグラタンです」というのもあれば、真面目に答えている方は「ベシャメルソースから作るときに白ワインを入れてアルコールを飛ばせばグラタンになります」という回答がみられた。
アルコールを飛ばすのはよくある手法だし、なるほど納得という気がする。お酒の旨味とかコクが添加されるのだろう。まぁでもホワイトシチュー自体はすぐにグラタンに早変わりできる点を見ると結局は味覚的にはほぼ大差がないのが実態のようだ。市販のグラタンもシチューもホワイトソースを謳っていることが多いのでソースの差もないだろう。

つまりクリームシチューをご飯にかける行為を否定することはドリアを否定する事とほぼ同義なのだ。

その他の米食

どんぶり物としての米食はもちろんのこと、おかずとして食べる米食など沢山あるが、炭水化物レベルで考えると、味の濃淡は問わないし形態の違いだけだと気づくはずだ。
炭水化物あっての食べ物。世界の食は炭水化物で回っているのではないか。
主食を炭水化物とするとそこにあらゆる食べ方や味付け、料理ができるのは当然の結果といえる。

そういえば社会科の時間にならったキャッサバ、タロイモとか芋で炭水化物だし。アラン島などは土壌が悪い中で石垣を築いて作っていたのがジャガイモである。

「日本のお米」は「西欧のパン」?

日本人であればご飯があるが、海外ではご飯の代わりにパンを食べていてそういった文化があるのではと漠然と思うことがあった。パンをシチューにつけて食べるような古いイメージが浮かび上がった。
マナーでもフランス式、イギリス式、など色々あるようで、パンくず落としてもいいとか、スープにつけるのはダメとか、ソースをつけるのは料理人に敬意を払う意味でOKとかいろいろ細かい。

日本のお米料理はどんぶり飯とかがつがつ食べるようなものも多いが、海外だとがっつかない引いた食べ方をしているのかもしれない。お米がない地域は日本の米食のようにパンを使った料理が豊富にあったりするのかもしれない。この辺の比較は想像の域を出ない。

結論:ごはん(もとい炭水化物)は何にでも合う。

基本的においしいと思うものをおいしく食べればいいのだ。伝統を汚されない限りは海外の人がラーメンの汁に麺以外のものをつけて食べてもいいし、醤油を何にかけてもいい。
誰かが言っていたが「食べるということは救われてないといけない。」

ことシチューをかけるかけない程度のことで正当性を主張することは何もない。
正統な系譜に従って築き上げられた日本料理などを汚しているインチキ日本料理を出しているとかなら許してはならないが、普段の有吉マツコなら広い間口でいろんな話題も無難にこなしているが、正直今回の有吉とマツコはコメントはレベルが低かった。

今回のシチューご飯については少しがっかりした出来事だった。

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2015年1月17日 (土)

カエルは大海を知らないのか? ことわざ『井の中の蛙―』を考える

いわずもがな現在でも見識が狭い人に対してつかわれることわざである。
しかしなが「『井の中の蛙』は本当に見識が狭いのだろうか?」という疑問がかねてよりあったのでその部分に対して個人的な解釈を考えてみようと思う。

『井の中の蛙』は本当に見識が狭いのか?

広い世界を知っていた方がいろんな知識や世界が広がっている。アクティブな活動もしやすいだろうその考え方が悪いという疑問は一見ないように見える。
しかし、それが絶対的な『善』であると論じるのは間違っていると思う。
間違ってはいないがこのことわざはどちらかと言えば物事を論理的に考えない人ほど使いたがる側面から一部で意図的な詭弁(論理を捻じ曲げて正当化する論)が行われているのが問題である。
執筆しながら「『井の中の蛙』というのは専門性を追求した人との敬意とか過程が含まれていないばかりか、ひいては井の中の蛙で成功した人をも切り捨てる暴論ではないか。」という思いに至った。

後に続く『されど―』

ざっとGoogleで検索するだけでもいくつものパターンが散見され造語として考えたようで、日本側でされど―の文章が後付けされたという事らしい。
・されど空の青さを知る
・されど空の高さを知る
・されど空の深さを知る
何が主な造語の由来になっているかは調べることができないが説得力を持つ内容である。ある人によっては「負け惜しみ」という言葉で否定的に言われている場合があったが違うと思う。(そもそも何に対しての勝ち負けというきもするが)
大海に出ても大きな物を得る人は得るし、井戸の中の蛙でも大きな物を得る人は得ると思うからだ。それを分けるのは結局は人間力だ。

大海を知る事は良いことなのか?

確かにいろいろな目新しい情報や異なる慣習や文化、考え方に触れられるし比較検討する物が多いので大海に出た方がいろいろな選択肢が増えて大きな世界が広がっているように思える。しかし個人が生きる上で把握できる世界というのは限られる。豊かさのなかにあっても個人の中で認知されるはんいでしか世界は広がらないのだ。人間の質によっては文化的業績を高めることもあるだろうが愚か者であれば大海の良さを理解できずに果てるだけだ。

視覚的には異なるものに触れて大きな何かを知ったような気分になるが本質的な精髄をも理解まではもっと突っ込んで考えないと理解することはできない。
大海に出たからとて広く浅く知ることなどはほとんど意味をなさない。では逆に広く深くとなると人間の処理能力の問題でかえって情報過多で埋没してしまう。

実際のところはすでに情報過多の時代で情報に追いつけない人がでて情報格差が生まれているし、ある年代で常識とされていた知識や事柄、倫理、事象等々が若い世代から欠落し始めている気がしている。別にひがみ的にいう気はないが、これを若い世代の台頭というには怠惰さと単なる惰性に溢れすぎている。またこの怠惰と惰性を変に美化しようとする世代が出始めたことに危惧を覚えている。
一部若者の動きに関しては現象的には大海に出たはいいが溺れてしまった上に突然変異で有毒物質に変化してしまったといっていい。^^;
ネットがない時代であれば常識や流行、知識もある程度は収束して一元化されていた。いい意味でも悪い意味でも非常識とされる行為は自重するような空気が存在していた。だが今は情報過多の時代で共通知が失われてしまった。

例えば『恥』、『謙虚』、『努力』などそういった感覚が一部でかけている事が見られることが多くなったのだが、誰かが作った文化的な土台や文物に対して敬意を払うことなく、良い部分をおよそエッセンス的に上澄みを掠め取り(学習と言えなくもないが少し違う)まるで自身の手柄のようにふるまっている行為が散見される。
若者が主導しているインターネットサービスの多くは馴れ合いによって成り立っている。楽しい感情を共有したり褒め合ったり仲間外れにならないように振る舞っている。「楽しけりゃいいじゃん」的な軽さもさることながら、その為なら「ルールとかやり方が間違っていても関係ねぇ」的ないい加減さも伝わってくる。
目立つ事をすれば大胆で破天荒でカッコいい的なノリはツイッターのバイトテロでもよく見られている。

執筆中に思った事だが成人してしまえば我々はすでに大海に出ている。その中で社会的に好ましい人物が形成されているわけではない事を鑑みると大海に出る事はいい事ばかりではないという事だ。
大海で新しい情報が生まれそれを適切に取捨選択できないだけでなく人格形成にまで影響を及ぼしているとしたらネットが発達した情報社会というのは罪深いものではないだろうか。

現代においての『井の中の蛙』から見ることわざの存在意義

先に述べたように無知な人ほどこのことわざは使いたがる傾向がある。というのもこの手の定型句に飛びつく人が必ず存在していておよそファッション感覚で使いたいだけで中身は深く考えようとはしない。多少なりとも論理的に物事の本質を考えたいと思った人であれば、『井の中の蛙―』という言い回しはもったいぶり過ぎて言うのも恥ずかしい。
定型句は非常に使いやすく一定の説得力を持っている事がほとんどだ。とはいえ耳触りがいいだけで中立的とか良い視点が欠けている事もある。
この言葉を使いたがる人は人間関係で上から物を言って上下を作りたがる人で、人を傷つけるにはそれなりに影響のある言葉で使った時点で対人関係で無配慮な人格が見て取れ、当然ながら相手が本当に『井の中の蛙』なのか判断する気などさらさらないのが分かる。ありきたりな『井の中の蛙』という意味以上に解釈を発展させる気もない。上記のことからも他人に言われるのではなく自嘲気味に言うのが適切な言葉である。

またことわざというのが昔以上に形骸化していて、四字熟語的なものはともかく長文ほど使えるシーンは少ない。
初歩的であることわざ、大袈裟で無配慮、なことから使う機会は少ないと思われる。
年齢的な部分でことわざを有り難がっていた年代の人で中高年以上が条件的にも使いたがる年代だろう。
こういう事を書いておいてなんだが『思考の整理学』というロングセラー書籍を出した外山滋比古さんの著書の『わが子に伝える「絶対語感」練習帳』でことわざの良さについても書かれているので興味があれば読んでみてもいいかもしれない。

井の中にありながら宇宙を見る人々

では井の中にあり続けた人は大海を知らないのだろうか?いやそうではない。
けして広くはないが一つの物事を続けることで狭いながらもその中において大海どころか宇宙の高みにすら達した人がたくさんいるではないだろうか?
言い換えればそれは専門を極めるという事であり成功した人はプロフェッショナルとして社会的な敬意が与えられる。
それこそ愚直なまでにやり抜いたからこその成果であり、ことわざでいえば『雨だれ石を穿つ』と言えるのではないか。

日本には現在でも職人として何十年も井戸ほど狭いとは言わないがある種の職人的世界を維持形成し続けている人々がいる。
以前テレビで見た安芸太田町の鍛冶屋宮島のしゃもじ職人などもそうだし、ほかにも和菓子職人や豆腐職人など沢山職人がいるが
言ってみればその世界において“宇宙”を見出したから職人と呼ばれるようになったのだろう。

ちょっと前に漫画『ヒカルの碁』などで囲碁ブームが起こった。この漫画の中で囲碁を宇宙と比喩する場面があった。囲碁を宇宙と形容する慣習というか囲碁人(?)の共通認識としてあるのかはわからないが、検索で出てくる囲碁サロンさいたま新都心様なども宇宙としている。碁盤の目に白黒の碁石を乗せる単純な構造ではあるが囲碁をやっている人の頭の中ではおそらく何通りもの戦術を試行錯誤が行われているのだろうから宇宙と言って過言ではないのだろう。

格闘ゲームにも似た部分が感じられる。私にはストリートファイター4を仕事から帰ったらずっと続けている知人がいるのだが上に上がる為に毎日練習を繰り返している。skypeで会話をしているときなどはいつもジョイスティックの音が聞こえているが努力するのが当たり前。その上で更なる上積みを重ねる必要があるらしい。東京に行ったときには一度だけウメハラを倒せたらしい。

どこそこの大学教授なんていう人々もある意味で井の中にあり続けたからこそだろう。私の在学中の恩師は山口県の歴史に関する書籍など出されているがこれも山口県の歴史を続けてきたからと言えるのだろう。

またこれもテレビからの浅い記憶からだが熊谷守一という画家も言わば井の中で宇宙を持ち続けたといった人らしい。参考文章を見ると30年間も庭の草木や昆虫などの生き物を観察して絵に描き続けたという事だ。

区別されるべき『井の中の蛙』

いわれてもしかたがない『井の中の蛙』というのもある。
10代とかでまだかわいいのであればあれば許せる場合もあるだろうが、多くは目立たなければ問題ないが余りに自分の考えや行為が見えずに排他的で傲慢すぎる場合は仕方ない部分はある。
でも実際のところは相手の考えている部分を理解しないとわからないだろう。言いたい人も言われる人も物事を理解しようとする努力は欠かせない。

子供のころは無知だから問題はない。大人の蛙の中でも物作りや研究的な人でも害にならないし問題はない。
おそらく問題は他人に侮られないよう虚勢とか強がりを拗らせている可能性が高い人々だろう。
自身の無力感とか他者に対して弱みを見せないようにしたりとか、あるいは本当に愚かなケースが想定される。

虚勢・強がりであれば心に余裕を持つように促すことだろう。直接言うのはカドが立つので避けた方がいい。
自分が大人になってそれなりに話を合わせてやんわりと理解してもらうのが近道だろう。
こちらに余裕があればしっかりと受け止めてみるのもいいかもしれない。

私は意図的に井の中の蛙になるのも悪くないと思っている。
普段は気にしない事でも生活の細部の変化に喜びを見出したりすることで小さな事かもしれないが日々の生活がちょっとだけ明るくなるかもしれない。

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2014年6月14日 (土)

『アナと雪の女王』レリゴー現象 MAY J.と松たか子の違いを考える

Yahoo!ニュースにて『『アナ雪』メガヒットのMay J. 手帳に「仮・紅白」と記入済み!(シネマトゥデイ)』の記事でイナゴの動向を見ていると
MAY J.が「紅白に出たい」という旨にかこつけて松たか子推しとMAY J.叩きが起こっていた。

6月14日の正午時点で「松たか子のほうが紅白にふさわしい」というコメントではいいね17500、悪いね860が付けられている。
そもそも松とMAYの優劣を決めるわけでもないので論点がずれているうえに、紅白に出たい発言に対してレリゴー松たか子信者が敵視して噛みついている異常事態。一方を立てたいが為に一方を貶める愚かな合戦の惨状となっている。いかにもヤフコメらしい日常風景である。

この場では論理性よりは感情論が優先されて、Yahoo!がポータルサイトというのが論理性の低い一般人が多数が感情的なコメントを寄せ、それを煽る挑発する連中が加わって荒廃を極めている。アクセス数は流石だが一般論よりはかけ離れていると考える事が前提にある。
それにしてもこの状況は異常である。

しかし、どちらも魅力的ながら松たか子とMAY J.の人気の差がある点については認められるが、公平中立性がかなり欠けている。
音楽性が評価されているわけではなく好き嫌いが優先されている点、そして双方歌うスタンスの違いに目を向けていないからではないだろうか?
それらについて少し掘り下げてみようと思う。

『Let It Go』 松たか子とMAY J.の良さ


松たか子の場合は声優としてキャラクターを意識した歌い方で感情移入がしやすい。松たか子らしい儚い声色ながらもありのままの姿で力強く歩みだす解放感、たどたどしい歌い方は危なげながら勇気ある一歩を踏み出したといった印象だ。松の声の個人的な印象は10代の少年のようなちょっとだけ男の子っぽいあどけなさとかたどたどしさという思いがあるのだが、『たどたどしさ』という点においていい仕事をしているのではないだろうか。
歌唱力という点を論じるのはナンセンスだが上手くは聞こえない。松たか子ならもっとうまく歌えた筈だ。
でもこれは劇中のエルサとして歌っているからこれはこれでいいのだ。

MAY Jの場合はエンディングを締めくくるのにふさわしい熱唱が素晴らしい。力強い歌声は作中のエルサのレリゴーからの不安定感がなくなり心身ともに女王としての成長を遂げたエルサや明るい未来を感じさせる。引いては物語の連続性を感じさせ、観る側に気持ちには思い思いのエルサの元に発展していく王国の姿を見ることができたのだろう。

スタンスによる違い

そもそも比較すること自体が間違っていてレリゴーでも『役者』と『歌手』として歌うかが異なっているのだ。声優として松たか子、エンディングを締めくくる歌手としての歌っているという違いがある。どちらにも求められる部分も違っていて単純な良し悪しでは測れない所があるのだ。
松たか子のほうが人気が出るのは当然で、松たか子本来の人気と女性や子供たちの感情を重ね合わせるには申し分ない曲と役柄を与えられている。MAY J.の方は作中に感情移入できる部分はなく、歌手としての役割のみで存在している。同じ曲を歌っている以上比較したがるのが人情というものだが決まって両者の好き嫌いレベルに終始しているのは、テレビ露出の多いMAYが一部女性を中心とした視聴者層に悪感情を与えてしまたからだろう。

というのもディズニーの女性子供の人気の高さ、エルサが女性の気持ちを代弁するキャラという事もありメイン客層は女性という事、好き嫌い論争には女性特有の感情的な部分、歌の質を重視しない点、好き嫌い=優劣かのような低いレベルで終始している点、などから女性が多いと考えている。

好き嫌い論争については最低でも好き嫌いは許容されるが一方を叩いて貶めるのは観る側の未熟なエゴであり、ディズニーという夢の世界の話では憎しみ合戦は相応しくない。 私もディズニーランドに行った事があるが夢の住人になりきっている人々が男女問わず沢山いた。何時間もの行列にもかかわらずみな楽しそうでディズニーとは日本人の心のオアシスという想いを強くした事があった。
本質とは程遠い感情的な対立は映画を観てなお一方を叩こうとする観客は一体映画から何を学び取ったというのだろうか? 好き嫌いの感情的な二極論には全く意味がない。

イメージの違いにより一方が悪くみられる点があるようだが、例えばMAY J.はバラエティー番組でカラオケのイメージがあるが多くの人々を魅了する歌唱力があるのは聞いて感じ取れると思う。「カラオケ」と聞くと低俗だが対決する場面は実力を尽くす真剣勝負を演じている。「歌は優劣とか点数ではない」というならば松とMAYに優劣をつけること自体がナンセンスという事も気付く筈だ。

カバー曲が多いという点についてだが、確かに私がGW中に広島のフラワーフェスティバルに来た観客の中にも実際に女性から「自分の歌がない」という声を耳にしている。私ももう一つ実績が物足りないとは思っているので自分のカラーが出せる楽曲を出したら良いとは思っている。
Youtubeなどでは彼女の過去の楽曲を聞いてみると実力は十分に窺い知ることができる。歌詞を書いたりするのが難しければ良い作詩作曲家などから楽曲提供をしてもらうのも珍しくはないので良い人と組む事ができたら良い。
流行やアニメ向けに手堅くいくなら前山田健一や菅野よう子、梶浦由紀、泣ける歌詞なら瀬尾一三(中島みゆきの人とか最近のももクロ)、サイバーな楽曲であれば小室哲哉や浅倉大介とか。

音楽の世界は上手ければ活躍できるというものでもない。昔は時間を問わずあらゆるアーティストを紹介するテレビ番組が無数にあって色々な音楽に触れる機会はたくさんあり、ミリオンセラーがランキング番組を賑わせていた。今はそういった音楽番組も少なくなり、その上インターネットやスマホなど趣味が細分化し音楽ばかりもてはやされる時代ではなくなった。自分の持ち歌というものを一般に認知してもらう機会は極端に少なくなっている。

しかしながら趣味やメディアの多様化の中でも例えば音楽業界の大御所でもNHKの音楽でも広く知られている冨田勲が初音ミクを使った演奏会を行ったり、ニコニコ動画を利用してGACKT、西川貴教、小林幸子、ロンブーの田村淳(一応JealKBがあるので)、その他のアーティストなどがニコ生を利用したプロモーション活動が盛んに行ったり活動の場を開拓し始めている。

『アナと雪の女王』ではとても良い仕事をしたと思っている。彼女の歌唱力は素晴らしいものがある。
歌手としては『カラオケのMAY J.』とか『カバーのMAY J.』と呼ばれるのは歌手としては十分とは言えないし、所詮バラエティー番組では努力を重ねても質が悪い評価癖のある視聴者ばかりでは正当に評価されることはない。

MAY J.は歌手以外でも音楽番組のJ-MELOにて日本の音楽を英語で海外に伝えるなど、彼女なりのアプローチの仕方ができる可能性がある。
今後の活躍は未知数ではあるが、潜在能力の高さを感じさせる歌手ではないだろうか。

■2014年5月4日 フラワーフェスティバルにて
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2014年5月 3日 (土)

異色の不味さ!?『ガリガリ君リッチ ナポリタン味』を検証してみる

近くのスーパーでアイスを購入しようと中でも異常な安さで売り出されているアイスを発見した。発見した時期は5月2日の昼時である。
なんと一本30円という安さだ。気になるアイスは『ガリガリ君リッチ ナポリタン味』。
正常な警戒心が働けばこのフレーバーがアイスに合う筈がなく、期待を裏切るのは明白であった。

私も見た瞬間「まずそう」という警戒感を抱かせた。

しかし、値段の安さに驚愕し正常な判断を狂わせネタ話込みで2本だけ購入してしまった。また割高なスーパーが30円という低価格で出している点にも気が付けば良かったのだが・・・。

コーンポタージュ味で一時期物珍しさとそこそこおいしいという事で人気を博し、その流れからクリームシチュー味などを経て満を持して2014年3月25日に発売。しかし、どうやら味付けが不味いという評判がネット上界隈でも広まり、購入後分かったことだがセブンイレブンの会長が食べて撤去させたという逸話を生み出すほどに至った。
本当に不味いのか?、そして不味いとしたら何が問題があるのかという点を検証してみたい。

味付けについての検証

まず匂いだがほのかにケチャップの匂いが漂ってくる。
表面だけ一口だけ食べて異常な甘さが舌先に走った。中の氷まであわせて食べるといよいよ真に迫るナポリタン味が口の中を占拠した。確かにナポリタンだ。何やら不思議な味付けでこれまでにない味覚で捉え所がなく不思議な味覚には違いないが、ネガティブな鮮烈さが圧倒的で『不味い』といった感想に落ち着く。それでも「ナポリタン味の先入観が強すぎるから美味しくないのだろう」と思い直し、もう一度食べなおしてみるがやはり美味しくない。
食後は舌の奥の方にナポリタン独特のケチャップ的な後口が残り、アイスならではの清涼感やデザート感といったものが台無しである。

部分的な味はどうだろうか?このガリガリ君は2層構造になっている。表面はクリーミーな口どけのいいアイス。内側にかき氷の中にトマトゼリーが散りばめられている。表面のアイスはこれ自体がケチャップ風味が強い味付けがしてあり、これが一番の失敗の元のような気がする。内側のトマトゼリーは味が濃くこれ自体は単体で食べると非常においしい。かき氷にもナポリタンの味付けがされているらしいが単体ではどことなく薄味の柑橘系シャーベットアイスのように感じられた気がする。ゼリーの食感とガリガリとした食感の組み合わせはそれほど悪くなかった。
(甘口が強烈過ぎて舌が駄目になってる可能性あり、水を飲んで口内を清浄にしながら検証)

これら内側の比較的いいバランスのトマト風味を外側のケチャップ風クリーミーアイスが混ざり合うことで独特の味覚が発生している。

なぜまずいと感じるのか?

ナポリタン味の再現度が高すぎるためスパゲッティをアイスで食べている気持ち悪さを演出してしまっている。返って先入観を持たないように別の変わった氷菓として食べたほうがダメージは抑えられる気がする。ただでさえナポリタン味のアイスという最悪の組み合わせである以上いい意味での裏切りを期待したかったところだったが再現性が高かったために今回は悪い意味でナポリタン味が足を引っ張ってしまった。
本来ならもう一度再検証して断言したほうがいいがかなり甘みが強かったのでナポリタン味というよりはむしろケチャップ味と言ったほうがよかったのかもしれない。
表面を覆っているアイスの選択もクリーミーなタイプを選んでしまったのは失敗だったと思う。これまでのフレーバーならともかくケチャップにクリーミーさは不必要なものだ。どうせなら表面のアイスをパルメザンチーズを意識したクリーミーなチーズ風味とかにしたり、かき氷アイスにしたほうがクリーミーさをうまく処理できる可能性があったのではないかと考えたりする。

これまで出た変わったフレーバーの数々はリピーターではなく物珍しさで買う層を対象にしているとはいえ、ナポリタン味は冒険的過ぎた。コーンポタージュ味もクリームシチュー味もこれらはどれもクリーミーさが活きる種類でそれなりに親しまれてきたようだが、ナポリタン味は過去のフレーバーの経験があまりに役に立たなかったようだ。

そもそもナポリタン味はおいしいのか?

ナポリタンの良さはケチャップで味付けした大味な料理の癖に空腹時ほど無性に食べたくなるB級料理で、昔風の洋食屋で大正明治ハイカラな庶民感覚とか雰囲気が伝わってくる食べ物だから魅力があるのだと感じている。

先日『マツコの知らない世界』で『ナポリタンの世界』がテーマになっていた。ナポリタンは結局どのお店のものも基本的な部分は変わらず、ラーメンなどのように味をどうこう言えるほどの熱量のある世界ではない。ブームも一過性のもので長続きすることがない。味に関心のないサラリーマン向けの店やパチンコに併設されている店のほうがおいしい。麺の太さによって味が異なる。といったことが語られていた。

味についてはどの店も味が同じ、麺の太さについてもゆですぎた麺のほうがおいしいとか、海老が具に乗るのはやりすぎだとか、残った具材で作れるとか救いようない内容で、2000食食べてきたナポリタン通ですら50食~100食で「続かないな」と漏らすほどの料理なのだとか。
ともかく一貫して"不味くはないが大した味ではない"、という事が伝わってくる内容だった。

高級料理ではないスタンダードなナポリタンの王道を考えるならケチャップは外すことはできない。ナポリタンの話を聞いて、ナポリタンの味覚の象徴ケチャップ味付け="不味くはないが大した味ではない"とすると、結局はケチャップ味のアイスクリームを作ったと言い替えても違和感がないとも思えてしまう。

まとめ

意欲的な試みは好感が持てるがフレーバーの研究をもう少し考えて作ってほしい。ナポリタン味はコーンポタージュ味の評判と話題性に気を良くして研究を怠った代物といえる。赤城乳業にはBLACKのCMでも笑わせてもらっているし、変わったフレーバーを出すのも面白くて良いが、堅実で食べられるものも安定して出していってもらいたいものだ。

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2014年4月10日 (木)

ネット用語を考える 「www」などの笑いの表現について

日テレの『PON!』で高校生ワードとして取り扱われたそうで、ネット上では番組上で『高校生ワード』と呼ばれている点に少しばかり疑問が生じているようだ。
いつものように「テレビ局の偏向だろう」という見方で片付けるのも良いしすぐに読み飛ばされるトピックではあるが独特の語感が気持ち悪いので思った事を書いておく。

表現上のニュアンスの違い

「www」とか「草不可避」、または組み合わせたり強調して「草不可避www」や「大草原不可避」などに変形させて利用される。他にも「ワロス」、「ワロタ」、「腹筋崩壊」、「飲んでた~を返せ」などもネット関連の笑いの表現がある。しかし程度としてはやはり「www」を使用した場合は無機質で挑発的な印象を受ける。従来の笑いの表現であれば「(笑い)」やネットよりな側面もあるが顔文字でいう「(^_^)」などを表現するのだがここでは印象の違いを考えてみたい。

私自身の個人的な笑いの見え方を人物像などまで含めて掘り下げて見た。笑いの表現でも印象や受け取め方が随分違ってくる。

率直に「www」の場合は非常に軽薄で頭の悪く、笑いの表現に理性的機微がなくオーバーに過ぎる表現だ。想像する人間性では真面目な話でもしようものならすぐに笑い飛ばされてしまうような粗雑で乱暴さ非情さを意識させる。表現としては笑いの表現でありながら無機質で強く直接的な笑い。まるで精神異常者が笑いながら刃物を振り回して襲い掛かってくるような恐ろしさのイメージとダブって見える。単純ながらダメージを与える破壊力を持ち合わせている。
繊細さを尊ぶ人間関係を望む人々からは議論することすら避けられ早々にサジを投げられ、議論にすらならない引き出しの少ない単純思考の持ち主とみなされる。 相手にする必要がないならまだ良い。議論の中にあっては議論の最中に唐突に例えば「何言ってんだwww」など割って入るとなると非論理的な反論によって冷静さを奪われる恐れがありトラブルメーカーとなりうる。人間像としては基本的に不真面目なくせに楽観的に口を挟み、非論理的で暴力的な押しの強さで議論を停滞させる厄介者になるであろうと想像できる。口頭での日常会話では見方を変えるとサービス精神が旺盛に見えなくもないが常に笑いで片付けている印象があるので中身がない相づちという事であれば軽薄な人間に見られている恐れがある。
馬鹿話をして大いに笑い合える関係なら問題はないかもしれないが結局は人間的な引き出しの少なさが露呈すると近い内に人間関係が破たんすると思われる。真性の「www」と言っているのか、挑発や演技で「www」と言っているのかで注意しないと接する人間は痛い目をみるだろう。

「草不可避www」など単語付きで変形したものについては”草”とか”不可避”という単語に置き換えることで幼稚さが強調されている。
というのも”不可避”という単語は日常ではほぼ使う機会はなく、作られた物語や作品であえて緊張感を出すためにあるような単語だ。
例えば漫画、アニメ、小説などで「アメリカの軍事介入によるロシアとの軍事衝突は不可避だ…」などと政治家や軍人に言わせるような性質のものだ。この”不可避”は文語としてしか使用することができないのだが、文章で入力するにしても使いどころが少ない上にさらにオーバーな表現である点が幼稚さを指摘する理由だ。

話が変わるが私は高校時代には辞書を持ち歩くような単語フェチで気になる単語はすぐに調べていた。カタカナ言葉や気の利いた表現がしたい時分には堅苦しいけどカッコいい単語を日常で使う事に憧れを抱いていた。私が当時の高校生であればこの”不可避”というのは非常に合致した単語として間違いなく多用していた。難しい事を言っている雰囲気を醸し出す単語としては「可能性」という単語も非常に使い易かった。とにかく勿体ぶって回りくどい言い回しがしたかった。関係ないが西尾維新の物語シリーズもそういう物言いにあふれていて難しい事が言いたい中高生の子供たちの心を掴んでいるのだと思う。

従来からある「(笑い)」を使う人の印象だと、それほど軽い表現をしないが一方である程度の論理性と謙虚さ、慎重さを持ち合わせており。文章が無機質になり過ぎないよう大袈裟ではないにせよ若干の心配りができる人に見える。文章的な規律としてやや堅実な表現を重視しているので大崩れしない安定感がある文章や反応が期待できる。表現としては「www」ほどより大袈裟ではない標準的な笑いで会話する相手にも少し余裕を残してくれる表現だ。

「(^_^)」などの顔文字の場合であると、やや軽さは残るものの必要に応じてその時の心情を的確に表現するので人間味あふれるやりとりが期待できる。コミュニケーションにおいては感情に対しての比重が高く、感情を表現し感じ取る点が優れている。私のように相手がどのように考えているか気になる人間にとっては一服の清涼剤となる場合がある。ただ使う顔文字の種類や特定の嗜好に偏り過ぎてしまう恐れがあるので考えて使うわないといけない。女性に対する場合に使うと効果的な手法でもある。

まとめ

・「www」→軽薄で乱暴、挑発的。繊細さがない
・「草不可避www」(単語化)→難しい事を言いたい幼稚さを強調
・「(笑い)」(カッコ笑い)→堅いがある程度のバランス感覚と機微がある
・「(^_^)」(顔文字)→感情重視、特定の嗜好変化や効果的な対応も可能だが使用法に注意

独自のコミュニティーや単語を生み出すほどネット文化が発展したのは少しは誇っても良い。ネット文化も現実の活動に反映させて行くことで広まるものも沢山出てくるだろう。
しかし、ネットは欲望の捌け口として発展した部分もあり倫理観が欠けている場合や特定のコミュニティー内に置いては非常に閉鎖的で殺伐としていたり、人間関係の距離感や言語の距離感などが喪失している点が多々見受けられる。今回の「笑い」の表現の受け止め方についても私個人の受ける印象を掘り下げてみたが特に「www」等の表現に関して嫌悪感情が非常にあったことが理解できた。

私にとって「www」を使う人間=いい加減な人間として定義されたが他の人もまた違った印象を受けるかもしれない。
周りの人間からどう見られるかを気にし過ぎるのはバカバカしいことだが、ネット上だけは別のように思いこんで気にしなさすぎるのも大いに問題がある。ネット上でも誰かの犯行声明や殺人予告でもしようものなら逮捕されるのに現実とネットは全く別という事はないのだ。
自由で本音が言えるからこそのネットだが情報の取捨選択や倫理観にはまだ改善の余地がありそうだ。

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2014年3月14日 (金)

ヤフオクのジレンマ ストレスない取引を考える。


ヤフオクの変遷

私自身ヤフオクに不用品売却を理由に出品し始めて200件近い取引を重ねてきた。

これまで色々な機能の追加変更がヤフオクでは行われてきたが最近特に気にかかるのはヤフオク側が出品者に甘い状況を作り出してきた経緯だ。
以前は出品者の評価欄は『非常に悪い』の評価がないのが当たり前で少しでも悪評が立つ方が少なかったが、大手であれば必ず一件から数十件有るのは珍しくなくなった。評価を互いに返すことも少なくなり、短文でのみの返答(「発送はまだですか?」だけなど)や機械的な催促請求もあった、ヤフオクをフリマの感覚で値引きする人も増えている。

落札の敷居を下げることや出品物を売る機会の拡大は悪いことばかりではないが明らかに質の悪いユーザーが流れ込んできている状態にヤフオクは具体的な対策を打ち出しておら出品者に厳しく落札者に甘い状態となっている。

出品者にとってはプレミアム会費の値上げにより出品がしにくくなった事がある。代わりに出品が無料になったから多く出品したり出品内容の変更はしやすくなったから悪くはないが、不要なサービスを削減して会費そのものを安くしてほしいというのが本音だと思う。

落札者に対しては5,000円以上の入札は無料化され、入札者評価制限というものが以前からあるが20%以上でなければ機能しない。値下げ交渉という機能が追加されたが出品者の足元をみる落札者が商品を安く買い叩く理由を与えてしまった。出品者の取り分を犠牲にいわゆる乞食的な人々の値下げ合戦に巻き込まれ、質問欄からの値下げを行ってくる人も出ている。態度も悪く評価やまともな応対すらできない人も少なくなく、対応に困る事もある。

買い手は『客』という意識が若干強く、これまで出品者側は入金後即日発送、実費は落札額+送料が主であり、出品の梱包に対しては手数料はとらないのが当然な空気が醸成されている。そのために個人が時間を割いて発送をしている点についてはあまり考慮されない状況が悪い具合にマッチしてしまっている。
たしかに出品者も買ってもらえるのは有難いと自覚している。とはいえ自分の生活を切り詰めやや奴隷的に発送に走り回る事はけして本意ではない。

私自身も発送の手間賃まではとらないまでも『当方の都合』という事で発送には若干のゆとりを持たせるようにして気持ちを休めながら出品している。

困った落札者について

最近感じた落札に難がある出品は基本的に低額出品、特に安価な衣類に多いと感じられる。というのも衣類の出品を増やしてから主婦層というか多分ヤンママ層が増えてしまった。
値下げ自体を言わば主婦の知恵、財テク的な感覚で行う人がいるというのと安物目当てにチェックする人々なので基本的に金払いが悪く、送料を必要経費として受容できていないので「送料まで払って落札する」感覚の入札が多い。
現実的な衣類の発送方法はかさばる事もあり安くても定形外郵便で390円程度かかってしまうのだが、それを見越して低額で出品しているがやや不満が残る感じがやりとりの中で感じられる。
質問欄からの値下げ交渉や評価を返してもらう機会が少なくなったのはやはり特に安価な衣類を狙う主婦・ママ層だたのは確かだ。

低額出品もやはりそういう落札者に当たる事が多い。低価格ハンターが多いというのと出品価格がなまじ安いものだから出品物がほとんど金銭価値がないような錯覚に陥ったり、送料が落札額より高かったりするとやや不満が残る人も居る可能性は捨てきれない。些細な金額の多寡で不満が残る可能性も残されている。

よくあるのが送料を安く済ませようと「メール便で送れますか?」だ。意外と「定形外郵便で送れますか?」という人は最近ではあまりない。送料はあらかじめ明記しているからかそれとも定形外郵便も意外と安くないと分かったからだろうか。

メール便で送れる事は送れるのだが2㎝の厚さ制限があるためにコンビニ店員の対応が異なるので持ち込む際にヒヤヒヤする。先に80円分の送料をもらったのに160円という事もあり得るし、逆に安くなって落札者からの不満を買うことにもなりかねない。住んでいる地域によっては持ち込みにくい事もあるし伝票に筆記するのも手間がかかる、態度の悪い冷ややかなおばさん店員に引っかかる事もある。そういう余計な手間により出品者にとっては使い方によってはあまりお得ではない。

出品者より先に連絡を入れてくる落札者も有難いのだが、取引経験豊富な出品者は定型文も用意しているのでかえって手間がかかる。評価も常識とまではいわないがなるべくなら入れてほしい物だが、寂しいことだが仕方のない事だろう。敬意や感謝を感じられない人は少なくない。
あと落札後にキャンセルを申し入れる人も困る。いまタイムリーに出品キャンセルの処理を行っているが非常に悪い評価を相手方が付けられたくない為に非常に手間や対応に苦慮している。本当なら感情的に落札者都合で削除して非常に悪いをつけた方が楽なのになまじ温情をかけると余計な手間がかかってしまう。
キャンセルは相手の希望を聞かずスパッと削除が気分的にも楽でいいと実感した。

細則の明記

出品者はこの手の不満に対処するために出品者独自の細則を設ける場合がある。しかし、細かく対処するようにすると長文化は避けられず、企業の誰も読まない長文の規約のような事態になってしまう。簡潔に必要な事を明記する様に配慮しないといけない。
しかし、困った事に落札者は細則を明記し過ぎるほど逆の行動をとったり遠慮がちになってしまう。スムースに進めるためのガイドラインに文章に気を遣っているのに苦労のし甲斐もなく本末転倒も良い所だ。
逆に内容をシンプルに個別の困った方々に対処するのが最適と考えると明記不足の指摘や質問、落札意欲をそぐ結果にもつながりかねない。くどすぎない読んでもらえる文章と文量、出品者の人となりが見える工夫もあると効果的だ。

まとめ

落札者も出品者も基本的には対等な立場にある。しかしお互いの立場を理解して出品落札を行う必要はある。
多くの経験がある出品者側と安い物を買えれば良いという落札者には思い入れや温度差が生じている。
買う事をメインにしている人間は価格が気になっても売る側の事は大抵考えていないものだ。私自身売る側として言わせてもらえば売る方は何倍も手間がかかっている。今では慣れたものでそれほどではないが出品の文章作成や持ち込み、梱包、入金確認、いろいろやっている。

取引の対応も機械的に対処すると楽にはなるがやりとりに温かみもなくなるし、甘すぎるとルーズな落札者が幅を利かせてしまう。性善的に考えて単純にするか、性悪的に考えて細則を明記をふやすか、それともヤフオク如きと考えてヤフオクで売り続けてきたプライドを捨て去るのも良いだろうか。

なにはともあれ私にとっては落札者への対応は多少考え所である。

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2013年12月 8日 (日)

『震え声』、『ファッ!?』などの意外なゲイカルチャー由来の用語


最近目障りなくらい掲示板などのコメント欄に『震え声』、『ファッ!?』などの決まった単語を使っている輩が増えている。

最初こそなかなか気の利いた言い回しと感心していたが、その使い易さから冗談を考える想像力のないネット上の流行に便乗したい連中に安易に使いまわされすぎてしまった。
私が何より不愉快なのはこの手の連中はネット上で話し合われている話題の内容が真面目、馬鹿話問わず何もかも冗談話に落としこむ軽薄さがにじみ出ている。
多分語尾に『www』(語尾の笑のようなもの)などの文字を使っているだろうことが想像できてしまう。

手垢にまみれ、想像力の欠けた定型句たちには同じネット上の連帯感(もとい慣れ合い)を増幅するばかりでさすがに辟易している。

私自身の当初の認識は
『震え声』→虚勢を張りつつも内心動揺している様子を表す単語、
『ファッ!?』→外国人が理解できない状況で「What!?」と言っている様子
を冗談めかしく一般化したものだと考え、使いやすく小洒落た単語と感心していた。

しかし、安易な便乗をきっかけに由来を調べてみるとこれがゲイ向けのアダルトビデオから端を発したものだと判明し、肯定的な感覚は失われてしまった。ゲイを否定するつもりはないが何やら具合が悪い。

その映像作品はCOATという会社から出ている『真夏の夜の淫夢』と『誘惑のラビリンス』という作品から来ているようだ。また『はっきりわかんだね』という単語も上記の作品が元になっていると判明した。
そういえば『アッー!』というのもゲイだし、『やらないか』もゲイ漫画が元になっている。

いやはやネット文化でこれほどまでゲイカルチャーが花開くとはなんとも…^^;(ゲイ的に花開くという意味ではない)

ニコ動の功罪

この手の奇妙なゲイカルチャーを持ち上げる流れにはニコニコ動画のビリー・ヘリントンなどでも既視感を覚える。上記の作品も映像作品である以上は動画サイトなくしてあり得ないのだが、この手のある種の異常とも言える流行を作ってきたのはニコニコ動画をおいて他にない。

ニコニコ動画にゲイが多いという話は聞いたことがないがネット上の一定の層に衝撃を与えたのは相違ない。
とはいえはっきり言えば笑いの質は非常に低いものだ。独特の言い回しは独特ではあるがゲイでなければ笑える部分はまるでない。おそらくは箸が転んでもおかしい年頃の子供達もたくさんいるからだろう。

ニコ動の流行というのはそういった幼稚さやどこか狂気じみていたりするのだが、突破力・発信力にはすさまじい物がある。良く言えば「愛すべき幼稚さ」と言えないこともない。

まとめとしては流行の単語を使うのは気軽で連帯感の中に溶け込める面白さもある。
しかし、便乗するだけでなく自分自身で考え高いレベルの流行と笑いを切り開いていくのもまた違った楽しみではないかと思う。

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2013年9月19日 (木)

アニメ 『ベン・トー』 視聴後の感想

去年アキバに行った折、特に好きでもないのにキャラ萌えで買ったフィギュアを購入した。
一度はアニメぐらい目を通しておこうと思いレンタルで見てみる。

その時購入したのが以下のフィギュア。 キャラクターが好みであったのと、ポーズが艶めかしくスカートの曲線なども色っぽい。普段は活発そうなキャラなのに顔を紅潮させているのも妄想を掻き立てる。
購入後知ったことだがセーラー服を脱がせられ一つで2度おいしい仕様。はがす際に接着剤が強すぎて塗装が少し剥がれてしまう仕様だがプライズ品なので価格的にも1000円以内で購入可能で良いものだと思う。


作品名は『ベン・トー』 という半額弁当を求め死闘を繰り広げる狼たちの物語。

まず良い点として作品のつかみは面白かった。
半額品を求めるという極めて生活感あふれる部分から共感を得て、スーパーの内装の再現度がいちいち高く日常的なスーパーの雰囲気がよく出ている。
私の近くスーパーでも総菜コーナー周辺で半額シールを張るのを見るや多くの人だかりができ、半額弁当に群がる人々を目にする。滑稽とまでは思わないが半額品を狙うハンターは現実にも間違いなく存在しているが、これを武力闘争にまで発展させたのがこの作品だ。
半額品を狙う狼たちにも二つ名を持つものが多数存在し、(「氷結の魔女」、「ウィザード」など)狼たちに一目置かれている。

ストーリー

ストーリー的には半額弁当の魅力に強く共感を得た。きちんと料理としてパッケージ化された弁当。価格もさることながら素晴らしく美味しい。この作品では高級なスーパーに置かれているものが多かったが高級スーパーの上質な弁当は一層おいしく感じられる。それぐらい半額弁当は素晴らしい。
すべては半額弁当の為であり非常識な展開が繰り返され突き抜けた面白さがあるといえるかもしれない。

しかしながらたかが半額弁当ごときで店内でバトルを繰り広げ、勢力争いや方方のスーパーを捜し歩くというのは作品の目標が低すぎてどんなシリアスな戦闘やシーンを重ねても「でも結局は半額弁当の為」という事で深みがなくなってしまう。動機が『半額弁当』にすべて集約されているのでどうもシリアスシーンでも何もかも薄っぺらく感じてしまう。キザなセリフも締まらない。
半額弁当がなければ作品は多くを占めるバトルシーンとサービス的に入れらた萌え以外はほぼ見るべき点がない。
半額弁当を至高の存在に仕立てたはいいが半額弁当の素晴らしさや異常に執着するについての説得力に欠ける。
アニメ的に美味しそうな質感は表現できてもグルメ漫画程に掘り下げる事は難しかったのではないだろうか。
ギャグ的にも萌え的にもパンチがもう少し欲しい気はした。

作画

全体的に破綻もなくアクションシーンは躍動感があって素晴らしい。OPもなかなかカッコいい。サービスの萌えシーンでもいい仕事をしていると思う。弁当を食べるシーンにも作画は素朴においしそうには見える。
特に筋肉BL小説書きの白粉(おしろい)と白梅(しらうめ)との百合シーンはこの作品でもっとも見所があるシーンだ。他にも白粉が弄られるシーンも悪くない。

キャラクター描写

掘り下げができているキャラとそうでないキャラの差がある。
見せ場的には白粉が一番面白かった。主人公と何かと行動する機会が一番多くにBL展開を妄想したり、白梅(しらうめ)との絡みも用意されている。立場的にはメインヒロインっぽい槍水(やりみず)は主人公とは先輩後輩の関係で会話に距離が感じられる。クールなキャラを崩す萌える展開も少なくあまり面白くない。
全体的に露骨すぎない程度には他の女の子たちとの密着シーンや恋愛に発展しそうなシーンを盛り込んでほしかった。

主人公はホモ受けがいい(ショタ?)描写が多く、なにかと裸にされたり、警備員に乾電池を尻に入れられそうになったり、女装など個人的には少し萌えたが、すぐ下ネタにはしる売れない芸人のようにも見えた。

狼たちが店内で集団で殴り合う場面はシュール。棚に乗ったり割りばしやカゴまで利用して非常識極まりない。
(ツイッターでバイト店員の不衛生画像投稿を思い出す。)
無難に半額弁当を獲得するだけでは満足せず勝ち取ることに意義を見出している。 半額弁当はいいものだが彼らの行動には全く理解ができない。

まとめ

なぜ半額弁当にこれほどの情熱を注げるのかは全く理解できないし、突き抜けてる割には面白さに直結していない気がする。その点を無視すればアクションシーンや萌えシーンなども作画は良いし、店内の様子など凝ってるので見どころはそこそこある。 音楽もアクションシーンに合って悪くないです。

あと半額弁当に対しての低価格ながら素朴な美味しさというのは伝わってくる。今川泰宏監督の『ミスター味っ子』のような派手な表現はないが地味ながら弁当を食べ進める様子はさながら貧しいながらも半額弁当に喜びを見出す人々のリアルな感覚を覚える。 (私自身も半額弁当をよく買う)
『孤独のグルメ』の名台詞の「モノを食べるときはね―独りで静かで豊かで」(横棒は省略)にもどこか通じるのではないだろうか。

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2013年3月12日 (火)

F1(元ドライバー)小林可夢偉WEC フェラーリAFコルセ加入\(゜▽゜)/

しばらく小林可夢偉の話題らしい話題というものがなかったがWECでフェラーリのAFコルセに加入が決定した。
F1情報サイトのF1-GATEによれば「スクーデリア・フェラーリは伝統ある“跳馬”史上初めてのアジア人ドライバーとして小林可夢偉の加入を発表した。」という事らしい。フェラーリ初のアジア人ドライバーとは大変名誉なことだ。

去年から主に芸人ダウンタウン関連の番組などにたびたび出演するもののスポンサーおよびシート探しは遅きに失した感はしていた。ロータスやフォースインディアのドライバー発表が決まらない中で何度もF1復帰待望説が浮上。フェラーリのマッサのレース大会に呼ばれたりAFコルセのテストを受けるなどフェラーリ関連の話題が上がっていたが、今回やっとF1以外であるがフェラーリのシートを獲得したようだ。

3.11大震災の当日に発表というタイミングも粋な計らいと言える。数年前に長年フェラーリ移籍を望んでいたジャンカルロ・フィジケラが移籍したケースもあるし、フェラーリは割と人情味を解してくれるチームなのかもしれない。

その他個人的に2013年の今年面白そうな話題としてはとりあえず以下のような事が面白そう。

・バルテリ・ボッタスがマルドナード以上の活躍の期待
・バトンとセルジオ・ペレスの成績
・ハミルトン加入のメルセデスの成績
・ザウバーに移籍したニコとグティエレス
・グロージャンとマルドナードや他ドライバーの去就
・扱いやすくなったタイヤによる順位変動

こうやって書き出して見ると気になるは新規ドライバーの実力と新規加入による新体制でどれだけライバルと差をつけるかという事が気になっているようだ。今年ドライバーになったボッタスはテストでもマルドナードに肉薄するタイムを出しており、川井一仁も下位チームなどの新人と比べても堂々としていていい雰囲気を持っていると褒めている。マルドナードはチャベス大統領の死去によりシートにも変動がありそう。

今季マクラーレンはタイヤの使い方がうまくはまれば早く自分に有利なチーム体制づくりなども評判がある(褒める意味で)バトンと川井氏によればタイヤの扱いが難しかったためにイタリアで2位に上がってしまったペレスが同チームに。経験の豊かさをバトンが示せるのか、また実力を疑問視されているぺレスが結果を示せるかが見ものだ。可夢偉はカルロス・スリムの支援するドライバーと比較されシート争いを強いられる立場に置かれていたし、(エンジニアなどの待遇の差もそのせいか?)バトンがペレスを下してくれたらなんとなく気分はいい。
メルセデスはマシンの調子も良くなったようだし、これにハミルトンの別次元の速さが加わったら面白いことになりそう。力のあるものの情緒不安定な所や終盤のリタイアが多いこともあって応援したくなるドライバーだ。
ザウバーのニコはフォースインディアを飛び出した事を後悔しないように活躍してほしい。グティエレスはF1参戦が早かったかどうか見ることができるだろう。
今年はペイドライバーや実力が疑問視されているドライバーが多いだけに結果によっては適正なドライバーの参入を望む声が強まっていくに違いない。そうなれば可夢偉が2014年にF1に復帰する可能性は高まるだろう。今年のドライバーラインナップをざっと見て来年のシートが場合によっては危ういドライバーは5人以上はいるように見える。邪な考え方かもしれないが少しばかり新規ペイドライバーの成績低迷を期待してしまう。

今年はピレリタイヤはグリップ力が上がってコンマ6~8秒ぐらいのタイム上昇が見込めるという。(ある関係者によると0.5秒と発言)タイヤを作動領域も広くなって扱いやすくなったとの事だ。タイヤの信頼性向上は不確定要素が排除され戦略も立てやすくドライバーの実力もはっきりしてくることだろう。

可夢偉にF1の可能性がまだ閉ざされていないという事がわかりファンは一応の安堵を得たことだろう。

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