カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の記事

2009年9月22日 (火)

臼井儀人氏死亡、事故死への疑い

失踪をしたと言うの記事を読んで知っていたが想像したくないことが現実になってしまった。
しかし死亡するには疑問が残る事がある。
他の方のネット上のコメントなどを見て気付いたのだが「荒船山に行く」と告げて失踪して死亡するまでの過程を聞くと事故死したかのような印象を受けてしまった。確かに状況を考えると自殺か事故と考えるのが妥当ではあるがテレビやマスコミに偏向に警戒心があることや、ただの一般人が死亡した事とは訳が違うのではという理由もある。他殺により殺されたと仮定して少し考えて見たいと思う。(※以下はあくまで仮定の話です。)

遺体発見現場の地形

ネット上の新聞社などの記事によれば荒船山(1423M)の崖下120Mで遺体が発見されたと言う。私自身ニュースを聞いた同時期に偶々山に登る機会があったのだが、山にもよるが人の手によって人一人担いで登るのは現実的ではないだろう。ヘリ等を借りるなどして現場上空から落下させる方が状況を作るには現実的だと思うが大掛かり過ぎる。登山者の眼なども考えると別の場所で殺害されると言うのは考えにくいだろう。
現場で殺害されたとなれば家族や本人から山に行く情報を伝え聞いて待ち伏せか追跡により殺害する事は可能かもしれない。遭難の可能性を冒してまで登山道を外れて行く事は無いだろうし、登山客を装って背後から突き落とす事は出来るだろう。

警察の対応

警察の調べをすべて肯定すれば遺体は臼井氏であり、他殺を考える余地はないかもしれないが、高知白バイ衝突事件のように有力な証言や状況が提示されながら有罪になってしまった事例などでは警察の調査の捏造疑惑が話題になった。根拠と言える程ではないが、ただ警察の言い分を疑う余地が場合によってあるのではないだろうか。
状況が事故死と考えられる要素が多いとは言え、警察による他殺の可能性を早い段階で否定されてしまっているのには少々違和感がある。有名な方が不幸な死を遂げる事はよくあることだが、ただ今回の死亡をそれと同列に扱ってよい事なのだろうか?

誰が得をするのか?

『クレヨンしんちゃん』は海外でも人気の高い作品だ。中国側で商標権で争っていた。時期的にBALLADが好調でもあり金銭的に中国側で利益を得ようとする人々は面白くなかったかもしれない。人気作品であるので日本以外でも相当な収入が見込めるのは間違いないことだ。
訴訟を争っているのは双葉社なので臼井氏本人を殺害して直接中国側の販売がどうこうなるとは思えないのだが、単純な怨恨で殺害をされるか、中国側の何者かからこのまま『クレヨンしんちゃん』で利益を得るようならただでは済まさないと言う脅迫か警告の意味が込められているのかもしれない。
『クレヨンしんちゃん』もそうなのだが著作権や商標争いで中国・韓国と日本は争う事が多くなっている。もし今回の件が他殺ということであれば著作権・商標権などに関する全般への脅迫・警告と考える事もできる。
直接の動機に結びつくほどではないかもしれないが作品の性質上子供に見せるのに相応しくないと思っていた人たちも得をしたと見ていいだろう。
また他の記事などにコメントをしている方では酒井法子の出来事など含めて別に注意をそらす目的があるのではないかと考える方がいた。

著作権・商標権争いは日中韓の外交においては避けて通れない事柄でもある。外交上の障壁と考えているなら政治的な意図が入る余地も若干は出てくるだろう。

横道にそれてしまうが民主党政権は中国・韓国寄りの政権だ。韓国民潭は民主党に対して外国人参政権を得る要請を行っていたし、小沢氏は中国と関係を強化している。鳩山氏は「友愛」と言う言葉を用いて外国人が流入しやすい状況を作ろうとするだろう。ここ最近で9月20日の新聞記事では民主党は戸籍制度廃止をめざす議連が発足を予定しているらしい。

日本は地理的にも中国や韓国からの犯罪の数は上位に上り、日本と関係を深めると言うことは中国の肥大する人口や北朝鮮難民の受け皿、韓国経済の救済、中国資本による日本の企業の買収と技術移転、移民や参政権付与、日本国籍取得による日本経済の実質的乗っ取りなど不安要素が多すぎる。中国や韓国は一筋縄で付き合えない国なのは日本人なら誰でも理解できる事だ。
移民については無条件に大量に入ってくると賃金の低下、文化的な衝突や対応に国民が苦労することだろう。恐らくはウィグルのような状況になると見て良い。

ウィグルの問題は人権問題だが、民主党の今後の方針次第では日本は権力による人権侵害が行使される恐れがある。そして多くの人が犯罪者として逮捕される恐れがある。
以下の記事では民主党は人権侵害救済法案を提出しており、人権擁護法案より危険な法案であると述べられている。その他にも民主党政権の危険性などにも触れられている。
日教組の「悪法支配」を許すな(1)/八木秀次(高崎経済大学教授)、三橋貴明(評論家・作家)
外交政策について個人的な考えを言えば日本にとって油断できない中国や韓国とは一定の距離を保ちつつも、台湾やフィリピンなど中国の周辺諸国と関係を強化するのが良いだろう。
個人レベルの付き合いは構わないが外交レベルでは中国と韓国は日本にとって害ばかりしかない。健全なアジア経済圏を構築その他のアジア諸国と協力して均衡を保つ意味で包囲網を形成するのが望ましい。

今回の死亡は大変残念なことだ。もう原作者本人による新しい作品を永久に見られなくなった事に寂しさを覚える。本当にただの死亡事故で済ませてもいいのか少し気掛かりだ。
ここまで成長した作品なら作者の手を離れても放送を続ける事は出来るだろう。今後の作品の継続を期待したいと思う。

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2009年9月 7日 (月)

友人と距離をとるという事

先日、月に1・2度程度連絡を取り合っていた友人と距離を置く事を決めた。彼とは以前から大学を卒業してからも何度も連絡を取り合っていた。
私自身は彼とのやり取りの中で感じ始めた事では次第に半端な付き合いや互いに感謝する姿勢が欠けていっている事、彼自身が安定的思考(無難な保守的思考と思っている)に私自身の方向性が噛み合わなくなってきたという事、彼自身の性格や態度のずるいと思う部分が露呈し、正直に話をやり取りを交わす可能性が開けない事などが理由としてあった。

関係を改善したいという気はあったが、違う考え方を許容していける可能性がない訳ではないが、どうしても個人の考え方には踏み越えられない壁が存在する気がしている。“個人の自由”とか“思想信条の自由”と言ったものだ。

彼との付き合いの中で個人を尊重する意識が欠如しているとは思ってはいないが、とやかく言えば上記のような“個人の自由”を持ち出される面倒くささもあったし、彼自身の気になる点としては責任転嫁する癖や知ったかぶりをする癖など正直さ(誠実さとは書かない)に欠ける点が散見されるようになってきた。このようなおよそ感情的な部分で不快感が残る事がある。

彼自身は仕事の中でバランス感覚(協調性)を高めてきているようだが、仕事に意義を見出した事により、これまで受動的な協調性が能動的な協調性として高める事ができるようになったようだ。その為に自由な発想も抑える結果になったのではとも思う。
私自身は逆に安定や協調を良しとしない意識を持っているのだが、いまだに無意識に相手の考え方に同調しようとする癖が抜けない。親しい間柄であればそれだけ相手の傾向に傾いてしまう。

これまでやりたいと思っている事でも周りの目を気にしては、納得のできる結果を残せなかったり、
自虐的なことを考えては自分から無難な方向へ進む事が多かった。だから少しでも自分が信じる道に精力を傾けなければ何をやっても身にならない。

友人には不満や言いたいことがあれば言ってくれと何度かお願いしていたが、何かあろうと本当のことを口に出す事はない。会話をする際はいつも相当な時間を費やすことが多く、時計が午前を回る事がよくあった。互いに話のまとめ方や流れを掴むのが上手でない事も長くなる理由にあるだろう。それでも友人が仕事の話をしてくれる度に付き合いが負担になってはいないだろうかと心配する事が多くなった。

時間的な制約や楽しみを共有できる機会があまり取れなかったのも理由にある。漫画やアニメ、政治などの話などをよくするが、結局は情報が共有されていないので、深い内容に発展しにくく表面的で無難な一般論程度に落ち着いてしまう事が多い。せっかく互いに話題を提供しても話題を汲み取る努力も欠けている事もあっただろう。

友人関係にどのような点に重点を置いて付き合うかは人次第だが、距離が近すぎると有り難さを忘れてしまいがちになる。
関係を改善する可能性は残されていると思うが、時間を置いたり、場合によっては決別する事も考える事があるかもしれない。親しい人が自分自身にとって先に進むのに障害になってしまうと考えてしまうのは悲しい事だが無い話ではない。
進むべき道が違うなら今まで通りでは駄目な事もあるのかもしれない。
互いに先に進んで行ける良い関係でありたいものだ。

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2009年6月10日 (水)

別の概念を受け入れる必要性

人が生きる意味は始めから存在しない。生物学的な種の繁栄と存続や宗教的に考えれば意味はあるのだろうが、これも後付けで人間が作り出した概念に過ぎない。生きている中で様々な事に努力して、没頭する事で価値のあることを見出しながら生きていく事になる。

人生を生きる上で必要な物は一言で言えばほとんど“快楽”に集約されると思う。その先に楽しい事が待っているから人は生きていける。無くても別に生きていけるが快楽を得られる希望を失った人は長い人生の中で途方も無い絶望感をいだきながらすごす事になる。

私自身が実践できているかは自信が無いが実は快楽を得られる事は見つけることが出来る。いつも通る道端に花が咲いて綺麗に思う、晴れた日に気分が良い、いつも使っている物を別の物に変えてみる、普段と違う事をやってみる、自分にとって色々な引き出しを作って楽しい気持ちを絶やさないようにすれば人生は豊かな物になるだろう。

人生が幸せそうな人と不幸に思っている人の違いはこの引き出しの数と、許容量、物の入れやすさ(吸収力)などの違いではないだろうか。何でもない事を楽しいと思う人もいるのに、人間関係や貧困で思いつめて自殺してしまう人もいる。
好きな物があるなら追求していけばよいが、思ったほど気持ちが満たされないことがある。満たすためには色々な物を入れる必要がある。

生きていく基本は勉強にある。違う考え方や知識を入れたりしながら、新しい発想やアイデアを産み出したりして生きていく。喩えれば欠陥の有るパソコンと言った所だ。パソコンは使っていく中で色々なプログラムをインストールして利用する。利用していくと欠陥が頻発するので整備が必要だが、新しい物を作り出せる可能性は常に持っている。
でもまずはパソコンに何か入れることが出来なければ始まらない。無から何かを創造することはできない。既存の物を活かして創造を繰り返すのが普通だ。

別の考え方を拒絶する人はよくいる。正当な理由があり考え方を退けるならまだ分かる。しかし、ただ押し付けのように感じ不快だから、自説を曲げたくないから、嫌悪感があるから、と何でもかんでも感情論で退けることしかしない人に対しては機能不全を起こしているとしか言いようが無い。ハードディスクに不良セクタが発生しているようなものだ。

拒絶する事ばかりでは何もはじまらない。新しい概念を受け入れるだけの下地を作っておくのは誰にとっても損な事ではない。許容できるように物事を吟味する事も覚えなければならないだろう。

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2009年6月 3日 (水)

確かな信頼を備えた情報とは

先日、Youtubeで少し面白い動画を見たので関連して情報の正確性について触れてみたい。

QVCというショッピングチャンネルで平賀さんがイタリア製の保証書(証明書?)がないことに対して怒っている。
確かに安っぽいし、映像では光沢などは嘘臭い演出でゴールドカードなんて何の証明にもならない。

しかし、実際にイタリアの証明書と言う物が付いていたらそれが本物であると言う証明は誰ができるのだろう。
訳分からんイタリア語でいかにも権威がありそうな認証マークでもついていたら騙される事もあるだろう。
写真を添付したところで画像編集や関係のない画像を使うことも出来る。結局証明するには製造工程をわざわざ調べ上げるしか方法はないわけだ。

信頼性を演出している商品などは農業生産者で実名や写真を乗せたり、リフォーム業者のチラシでは担当者の似顔絵を乗せるなどして信頼とそれを補う親近感のようなものを演出したりしている。その他にも色々なマークが付けて分かりやすく良いイメージを持ってもらおうとしている。かといって商品の品質の証明になるかと言えばそうはならない。
偽造する余地は生産・流通や宣伝などにもいくらでも存在させられる。

商品を購入するのはその時のイメージを優先して購入する場合が圧倒的に多いだろう。それはサービスや食品などでいちいち十分な確認をしながら購入する事など現実問題難しいからだ。
いい加減な物を売っていいとは思わないが確かな証明が出来ない以上は不確かな面で信頼性を補うのはしかたがないところがある。

 

その他情報媒体などについて

情報には当事者達が直接的に関わる一次的な情報とそこから人づてにあらゆる手段で入ってくる二次的な情報がある。私達の周りには色々な情報が溢れているが情報の確かさは実はあるようでない。
誰もが一次情報に触れる機会があればよいのだが世の中で見聞きするあらゆる情報、新聞・インターネット・書籍などほとんどは他者の仕入れた情報を色々なフィルターを通して得ることしか出来ない。その情報をより確かなものにするのは受け手の知識と判断能力、情報がどこから入手されどのような団体や機関、著者から出されているかなどの信頼性に掛かっている。

インターネットがない時代、主要な情報源としてテレビや新聞が機能していた。しかし、現在は信頼を損なう姿勢しか見られなくなり、かつての信頼は失墜した。これはネットの台頭のみが問題ではないと思う。それは得られる情報が限られていた為に無条件の信頼に胡坐をかいていた企業側の見通し不足もあるだろう。

実感として説明できないながらもテレビや新聞は主要な情報源としての価値があると漠然と思っていることがあった。そんな目に見えないあやふやな信頼にこれまで支えられてきのだとしたら、現状の信頼不足は致命的だ。
どの番組を見てもバラエティー色が強くなり、確かな情報を期待を持てるのは辛うじてNHKぐらい。政治に関してはとっつきやすさは増したものの、まるで見世物のように軽くなってしまった。一般の関心も観客のように軽薄な意識を蔓延させてしまっている。

情報は確かな情報と培われた信頼こそを味方にするべきなのは言うまでもないだろう。不確かな情報など価値があるはずがないからだ。たった何度かの偽装や捏造により築かれてきた信頼を放棄するのは意味がない。

私たち自身も数ある情報を振り分ける能力が求められている。不確かな物に価値を見出すのは良い事もあるので一概には言えないが、印象だけで物の良し悪しを決めずに、実質的で確かな部分にも目を向けて見ても良いことも多いのではないだろうか。

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2009年5月 8日 (金)

友人とのメールのやり取りについて

友人に対してメールでやり取りをすると色々不便な事が多かったりする、こと友人関係においてはメールは欠点が多いようだ。

メールと言うのはなかなか便利であるのは間違いが無い。人に対して想いを伝える方法には口頭で直接相手に伝える方法と文章で伝える方法がある。メールは後者になるだろう。
伝えられる情報量や即時性、文字の入力の手間が劣るものの、話す内容を整理しやすく、話の密度を高めやすいと言う利点があるのでメールを利用する事が多かった。

しかし、利用していく度に別の欠点が出てきた。メールに返信されないと虚しさを感じてしまうのだ。それはメールの内容について密度を高めた時ほど虚しい物は無い。ただ相手に一定の反応を期待して連絡をすると、相手が無反応だった時の無視されたような落ち着かなさ、話をしたい内容をそらされた時の脱力感というのは相当な物だ。
もちろん相手は制約された時間の中、文章入力に熟練していないかもしれないのに、連絡を返してくれるだけでも十分礼を尽くしているはずだ。付き合ってくれるだけで有り難い。
相手に一定の反応を期待して話題を振るのも一つの“甘え”の発想からくる行動だろう。

もっとも私は相手に何かを期待して行う行為全般は須らく“甘え”と言えるのという思いを持っている。この点は土居健郎氏の著書『甘えの構造』に詳しい説明がされていると思われる。最もまだ読んではいないが人づてで“甘え”について考えさせられたのでこの事について少し触れてみたい。

甘えの重要性、行き過ぎた自由(甘え)の行き着くところ

甘えられる状況にあるということはある大きな枠組みの中で許容されているから成立するのだと思う。
甘えにも一定の対応と秩序が必要で、一方的に甘える形だと我々が不利益を被ることもある。

例えばゴミのポイ捨てや不法投棄は見ていて腹が立つが、一定の秩序やルールを守る人々、その行為を許容する(黙認する)人々、法律の罰則規定の緩さに甘えている。あと個人の自由という考え方にも甘えているのではないだろうか。もし多くの人がゴミを投棄すれば街の景観は乱れ、莫大な税金が投入され、罰則規定も強化される。

ゴミに関連すると私は先日マツダスタジアムに行ってきた。球場内には沢山の飲食店が出店しているが、弁当の持ち込みは可能、ペットボトル・ビン・缶は持ち込み禁止になっている。もしゴミを散らかす人々ばかりなら、一切の飲食物の持ち込みは出来なくなっているだろう。(最もカープには風船を飛ばす慣習があるみたいなのである程度許容されているかも知れないが・・・)しかし極端な状況になれば持ち込み禁止もありうる話だ。

「人に迷惑を掛けなければいいじゃないか」と言う人がいるが、これは違う。関係の無い人々に意味の無い規則や罰則を課する行為で、日常生活の利便性を大きく阻害する物だ。一定の規律やルールは必要だが余計なルールは生活する人々の窮屈さや複雑さを増すばかりで良い事はない。
公共サービスでも救急車の目的外利用による代金徴収議論、生活保護の不正受給による制度的機能不全(改良の余地はあるかも知れないが)、など何かしら制限されていることはないだろうか。(サービス提供側が費用や手間を惜しんだ口実作りとも取れる場合があるかも)

良い仕組みがあっても利用者のモラルが欠けていれば周りに迷惑を掛ける結果を起こす場合があるのだ。せめて人に言われなくても守れる事ぐらいは守ってほしい物だ。 一言で表すなら勝谷誠彦氏が以前テレビで言っていた“馬鹿基準”と言ったところだ。

話を戻すと私のメールも友人との関係性という枠組みの中に甘えを求めていたからだと言える。
この点で互いの歩み寄りが出来ずに甘えについて良い関係が保てなくなっていたのだろう。

ただ“甘え”は悪い事ではなく甘える余地を残す事で人々に心理的余裕と安定を生むのも確かだと思う。
甘えを許されず他者を頼れず個人に対しての結果と責任を求められる時代になった今、甘えられる環境も必要なのだ。
そして、幸運にも甘えられる人々はその事に感謝しなければいけない。甘やかす側も甘える側に少なくとも何かを期待して甘えさせてくれている。お互いに甘え、甘やかされながら許し、感謝しあえる関係を作る事が好ましいと言えるだろう。両者の関係のどちらかが欠けても良い甘えは成立しない。

私には社会に寛容の精神が欠けていれば、世の中はとても息苦しくまるで地獄のように思える。
欠点ばかり指摘され、それをお前の自助努力が足りないのだ甘えるなと言われる事もある。それが個人の価値観を土足で入って否定した上に悪とされ、あまつさえ個人の存在価値をも喪失されることすらある。(あまりセンチメンタル過ぎても困ってしまうが)
挫けた気持ちを立ち直し前進していくためには膿を出さなければならない。気持ちを回復する方法として甘える行為は一つの方法としてあってよい事と思う。

心を痛めることばかり習熟しても得をする人はほとんどいない。小さい視点で言えば罵倒した側に心理的優越感を与えるだけにしかならない。ひとりひとりが学校や会社という集団の中で他者を傷つける行為が繰り返されれば、社会は暗い物になってしまうだろう。それは私は社会はひとりひとりによって作られていくと思っているからだ。

大げさに考える必要は無いが自分自身がすこしでも社会を構成している一員と思って生きたいものだ。
よりよい未来は自分が少しでも動かないと得がたいのもまた事実なのだから。

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2009年3月25日 (水)

WBCの対戦方式で思ったこと

Wikipedia:WBC

WBCの日本2連覇して、野球にはほとんど関心は無いのですが、今回偶然試合を目にしてとても気分が晴れる試合になりました。
国際試合で日本の実力を示せただけでなく、日本に勝つと毎度のこと悪乗りする韓国を下す事が出来たのも要因としてあります。その辺は煽ってくれた韓国にも感謝しなければなりませんね。

嬉しいとは思いつつも敗退しては敗者復活戦のように何度も試合をしたと言う事がありました。良い野球が出来たから何度も勝ち上がることができことでもあります。私の父が言うには総当たり戦が良いとの事を聞きました。
確かに実力をはっきりさせるにはその方法が一番だと思いますが色々な問題もまたあるんじゃないかと野球のルールもロクに知らない素人考えですがそのような方法も仕方がないかと考えたりしています。

国際的な大会でトップを決めるには短い期間で決して、観覧者を飽きさせない方法をとらなければなりません。
長期の試合であれば観客を興奮させる事はできません。その為には短期間で決着がつき、常に衆目を集められるようにしなければなりません。

総当たり式となると全てのチームがプレイでき、かつ短期的に決着がつく環境が必要です。16チームが全ての試合をすることは長い期間を通さないと出来ないでしょう。プレイできる球場を用意するのも大変でしょうし、それにどのチームも通常の試合を差し置いて来ているのであまり長く拘束は出来ません。

何度も日本が敗退しても決勝に進むことが出来る違和感を覚えたのはダブルエリミネート方式(2敗した時点で排除される)というもののようです。この方法をとることによってそれぞれの母国のファンの熱気を維持させる事が出来、興奮が長続きします。経済効果的にも有利ですね。

野球と言うのはチームで行い、勝ったり負けたりの連続なので絶対的な強者を決めるには長いシーズンを通してこそチームの実力が測れる所もあるとは思います。また短い期間で行われる試合も少ないチャンスでどれだけ能力を引き出せるかを見極めるいい機会となります。

韓国戦については韓国が普段から日本に対して敵対心を燃やしていることや、なかなか飛ばしそうなバッターなどがいる感じでした。日本に勝っているという勢いに乗ると精神面と勢いでは韓国は油断できないところがあります。窮地に陥ると動揺につけこんでくる恐さがありました。韓国の日本に対する気持ちや試合に対する強い思い入れなどからか精神的にはどちらも脆い所がある気がします。
ヒットについては日本が多かったようですが、得点に繋げる決定力に差があるようです。これは冷静な日本チームらしく持続的な安定感であり、気分的には決定力不足と言う部分があるのかもしれません。韓国の日本に勝っただけであの優勝したかのような浮かれようを見ると良い気分に乗らせると相手チームにとってはとても危険な気がします。
彼らには良くも悪くも強烈な民族性があります。

普段はそれほど野球を見ないのですが、今回はとても戦略性の高いゲームを見ることが出来たと思っています。
とりあえず優勝おめでとうです!

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2009年2月28日 (土)

クレヨンしんちゃん 『またまた しんこちゃんだゾ』 考察 (2009年2月27日放送)

前回のしんこちゃんの記事はこちらになります。
通常のクレヨンしんちゃんは一話完結ですが去年から3度も回が続くのは珍しいですね。製作スタッフのテロップが最後に流れますが、どの作品でも脚本を中弘子さんが担当されています。Googleで調べたところ『ガタピシ』・『陽あたり良好!』・『D・N・ANGEL』・『きんぎょ注意報』・『魔人英雄伝ワタル』などその他色々な作品で脚本をされているようです。

今回見て個人的に気になった所は以下になります。括弧はそのように考えた簡単な理由となります。

・不特定多数の人間としんこが接触している(未来から来たと仮定すれば軽率で気にする様子もありません)
・未来を知っているかのような発言をするしんこ(同上)
・しんこが登場する場所の近くにはトイレがある(公園や人が集まる所なら大抵はありますが一応)
・トイレと思われる場所から画面がズームアウトする(下記画像①参考 位置関係など分かりませんが恐らくトイレでしょう)
・排泄する場面が多い(この作品では日常的ですが、幼稚園に遅れた主な理由の一つです)
・おもちゃの露出が少ない(前・前々回の作品と比べてあまり重要には見えませんでした)
・「過去の女は忘れて」発言をするしんのすけ(彼らしい自然な発言ですが、一応はしんこの話題に関連していそうです)
・しんのすけの絵を注視するしんこ(意味ありげな場面が気になります。)
・前・前々回と同様しんのすけと似た発言が目立つ(今回は園児達との会話でしんのすけらしさがかなり出ています)
・前・前々回と異なり言い間違えがない(園児らとの会話でも言葉を選ぶ様子がないので)

※・みさえの「あたしだよぉ~」発言(関係ないと思いますが芸人のにしおかすみこのパロディーのようです)
画像①(左は映画『クレヨンしんちゃんヘンダーランドの大冒険』:右は今回の作品)
snapshot20090228005911

まとめると以下のようなことがあります。(以下文中でしんこを彼女と記述します。)

今回のしんこの目的

少なくとも前回ではひろしを助ける為と言う説明ができました。しかし今回に至っては大きな意味が感じられる分かりやすい出来事は殆どありませんでした。

彼女が今回やってきてやった事と言えばいきなりしんのすけの幼稚園にやってきて遊んで、そして園児達に疑念を残して去っていただけです。大したことはしていませんが、特にしんのすけの絵に興味を持っていた場面は気になりました。見ただけで多分持ち帰ってもいないでしょうし、ただの絵にすぎません。無理やり無茶な設定を考えれば絵に特別な価値を持たせられますが、自分の作品でなければ行き過ぎは邪道でしょうね。いえ、返って邪道的の方がいい場合もあるのかもしれませんね。

絵を見ることのみで良ければ絵を描いたしんのすけに特別の感情を持っていたために注視したのだと思います。しんのすけと会う機会は当然なかった彼女は一体何を思いながら見たのかと思います。

立派な目標があるのではと考えてしまうと簡単な理由で来た可能性が考えられなくなります。意外としんのすけの作品を見るついでに幼稚園を楽しみたいと言う気持ちでやってきたなんてこともあるのかもしれません。

トイレの関係

いつものようにしんのすけはバスに遅れます、ひまわりも便意をもよおすのも珍しい事では有りません。しかし、今回はただの生理的現象だけではなかった気がします。偶然が重なった事も考えられますが、そういえば1話目ではトイレの水が流れるとで姿を消していました。おかしな場面なのに結論づける機会を逸していました。2話目でもトイレの音がして現れましたし、3話目だとトイレの音がしてから出てくることはないものの彼女自身がトイレに行ったり、排泄に関する表現も多かったです。
トイレに関連する表現を3話も続けてきたのは偶然ではなく必然であり有力な共通点となるでしょう。最後にトイレと思しき場所からズームアウトしたのは重要性を示す効果がありました。

タイムパラドックスについて

Wikipedia:タイムパラドックス→時間旅行による過去の改変により現代の事象も影響を受けること。

時間移動するには過去に戻ると過去を変えてしまう危険性を考えて、過去の人間に会わないように未来人が気遣うのをどこかの漫画で読んだ覚えがあります。彼女は幼稚園に来てわざわざそのような危険ともとれる行動をとったのは何故でしょうか。
作品を作る事を考えると未来人が過去に影響を与えると未来が壊れると考えると作品としては物語の広げようはなくなり、逆に運命を切り開いてくれる物と考えたほうが考えも広がりやすいのではないでしょうか。
相変わらずしんのすけと会うことがありませんがそれほどに影響を神経質に捉えない方向で作品が進んでるのではないかと思います。

しんのすけの孫や子供などは可能性は別に考えていた所がありますが、自由度が高いとなると可能性は高まります。以前読んだ『パタリロ!』と言う作品ではパタリロの孫や先祖は髪型や服装の違いだけで姿かたちはそっくりでした。性格も小銭集めまでは似てるかは分かりませんが、そこそこ似てたかもしれません。もっと単純で良いなら『おそまつくん』みたいに大量生産してもいいでしょう。
今回彼女はしんのすけ的な傾向を強めた事もありそこまで行かないのではとも思ってもいます。少し話はずれますがしんのすけらしいと断定できる部分では風間君に息を吹きかけたり、耳をあま噛みすればよりしんのすけである決定的な理由となったでしょう。

詳しくはないのですが『ドラえもん』でも未来から来たネコ型ロボットやのび太の子供や孫達が出てきます。無数に有る漫画やアニメの中で過去に関わる出来事はあったはずです。と言いいますかドラえもんは積極的に過去を変える目的でやって来ている訳ですが。作品によって影響を考えすぎない物もあったりするようです。

作品を作る側は少なくとも見る側を考えて作品を作ると考えています。クレヨンしんちゃんが広く親しまれている作品である以上は極めて一部にしか分からないヒントや表現は避ける場合があるかもしれません。ですので極端に一般とかけ離れすぎることはないのではないでしょうか。この辺は作り手のバランス感覚によるんでしょうけど。
クレヨンしんちゃんはその点で親しみやすく色々考えるには良い作品だと思います。

演出上の観点

  押井守監督はラジオで演出は“引き算”(いくつかの例えの一つ)と言っていました。演出家は色々な演出を作品に盛り込みたがると尺が足りなくなり作業量が増えるので必要の無い演出はどんどんカットしていくとの事です。銃を抜いて決闘するシーンや容疑者が取調室で尋問を受ける場面などを例に用いて説明していました。 確かに銃で決闘する場面を考えてみると動きをスローにしたり、アクション一つを細かく描いたり、視点を変えたりと1秒間を10秒にする事だって出来ますね。 そう考えるとしんこの動作の数々は演出に分類されるのではないかと思います。

昔は無駄が多く情報量をあまり詰め込めなかったと言う事を言われていましたが。あらゆる作品の演出や定番の設定などにより演出量が軽減されたと言う事は実際あると思います。
例えば何かの作品で両手の人差し指を舌につけて頭の上でクルクル回すと『一休さん』のパロディだと分かりますし、格闘家が「あたた」と言えば『北斗の拳』とかブルース・リーのパロディだと分かります。剣士が対決して同時に一閃した後どちらかが倒れるか体や衣服に切れ目が出来て時間を置いて血しぶきを発生させたり、遺言を語らせたりと想像できたりします。
断崖絶壁で男女が話し合いの場面を見ればそれがサスペンス番組で、被疑者が犯罪を自白してそろそろ警察がやってきて逮捕されるか、自殺しようとするかもと考える事が出来ます。そこで安っぽい命の尊さを説くのもいいでしょう。
視聴者側もいつのまにか色々な演出の蓄積が出来ているおかげで演出の手間が省けるわけですね。

単純に考えて演出が意図する意味に導けなければでは演出とは言えないのでしょう。逆に関係の無い演出を連続する事で結末に到達させない演出もあるのではないでしょうか。話が変わりますが、過去実際にあった『三億円事件』では多くの意味の無い遺留品を残す事で決定的な証拠を見誤らせたと言う事があります。作品ではありませんがこれも演出という点で成功をおさめた例ですね。

今作でももちろんそのような演出的な意味を持たせるために意味ありげな映像表現をしていると考えてよいでしょう。しんこちゃんの話はしんこちゃんの正体を明かさない事で視聴者を引き付ける目的があるのだと思われます。作品中に意味のありげな表現を多く含ませる事で作品を盛り上げているのかもしれません。

正体を“謎”にして魅力としている作品と言えば、特撮物で窮地を助けてくれる謎の戦士だとか、『機動戦士ガンダム』のシャア、また少し種類が違いますが『水戸黄門』の水戸光圀、『美少女戦士セーラームーン』でもタキシード仮面、キャッツアイの怪盗姉妹などがあります。
前者であれば正体を判断すると生き別れの兄弟、クローン人間、サイボーグ、いつも喧嘩している知人等が思いつくのではないでしょうか。後者については見る側にとっての説明の必要はありませんが作中で正体が判明した時に何かしらの波乱を期待させます。
このように“謎”と言う部分を魅力的に見せるにもそれが“見る側に対して謎”なのか“作品の人物に対して謎”であるかで盛り上げ方は違ってくるようです。直ぐに思いつけばそれほど定着している演出方法や設定ということが言えると思います。

しんこちゃんに対しての多くの人が抱く最もな関心事は彼女の正体ですから、彼女の素性を判断する演出が行われている筈です。その点に限れば不可解な言葉やいかにも既知のように未来の発言を連発したり、野原家との接し方で彼女がどのような立場にあるか判断できます。目的を判断するにはしんのすけの絵を見る場面や作品の結果・場面の見せ方など、手段を考えるとひろしを喫茶に誘導したり、雲の出現やトイレの描写に分けることが出来ます。

分類方法として5W1Hで分類すると正体・出自(誰が)・目的(何を・どうして)・手段(どのように)・時間帯(いつ)・場所(どこで)のように相当すると思うのですが、場面のひとつひとつをどのように分類するかで整理する事ができるのではないでしょうか。分類できる項目も多いのでこの際一々細かく分類はしませんが演出方法を考えてみるのも作品の伝える意義を見出す方法ではないでしょうか。

次回予告に見る予想(3月20日更新)

3月13日の放送の予告にて4月3日の放送のシーンをいくつか見る事が出来ました。以下の次回放送の予告などを参考にしながら次回の予測を立てて見ようと思います。

クレヨンしんちゃん3月13日放送予告


またテレビ朝日のクレヨンしんちゃんの公式ページではこのように書かれています。

さいごの?しんこちゃんだゾ

突然しんのすけの前に現れた、謎の少女しんこちゃん!
しんこちゃんは、ひまわりが野原家の子供ではないのではと言い出し、
しんのすけと一緒にその真相をつかもうとする……!?

いくつか注目する点は以下になります。括弧は個人的な気付きなどです。
3月13日の予告(下記画像②参照)
・しんのすけとしんこが会っている(しんのすけと会う事自体に問題は無いと思われる。)
・雲が発生している場面が映る(トイレのある場所の近くであればトイレから出てきていると考えられる。)
・しんこが悲しそうに話をしている(シリアスな展開を予想させる。)
・おもちゃの場面が映る(おもちゃの重要性に含みを残している。)
公式ページ
・「ひまわりが野原家の子供ではないのでは」説明文(ひまわりに対して何かを知っているが確信的ではない。)
・「しんのすけと一緒にその真相を~(中略)~」説明文(しんこも真相については詳しくない部分がある。)
・“さいごの?”タイトルの付け方(終わるようでいてまだしんこちゃんの話が続くような含みが若干残っている。)

画像②
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3月13日の予告では重要な場面が出てきますが、悲しそうなしんこの様子は何か重大な出来事を知っていると予想できます。真面目なフリをして実はボケを狙う事もクレヨンしんちゃんには有りますが、今回は長く回が進んでいる事も有り多分シリアスな場面だと考えてもよさそうな気がします。おもちゃの重要性の余地もまだ残させているようです。

公式ページの説明では物語に重要な文言が並びます。ひまわりに関連する出来事で、しんこは或る真相について何かを知っているが完全に知っている訳ではない。しんことしんのすけの協力が予想されます。
ひまわりが野原家の子供ではないと言うのはどこから来るのでしょうか。みさえがひまわりを生んだ記憶が間違っているのか、改ざんされているのか、分娩で取り違えられたのか、誰かに赤ん坊を取り替えられたのか、それとももう少しスピリチュアルな意味で中身が違ってしまっているのかなど、いくつかの種類が考えられます。

しんこが時間を移動できる能力があると仮定すると過去に戻って自分で見に行く事ができます。真相を知るだけなら野原家と関わる必要はありません。それでも野原家に関わろうとするのは野原家の協力がなければ不可能な出来事があるか、しんこの心情的に野原家の人々に会いたいという想いも少なからず有るのではないかと思います。

細部にこだわらず個人的に少し大胆な予想をしていくとしんこは本当は生まれるはずだったひまわりであり、今のひまわりと本来のひまわりが入れ替わって育てられてしまう事態が発生したのではと考えます。(病院側の失敗や意図して取り替えたなどの人為的な事例か霊的・精神的な理由で間違って生まれてしまったかのどちらかではないかと考えています。)
未来から来たひまわりというのが定説化していますが、ただ個人的に違う点として現在とは別のひまわりではと考えているので、別の未来から来て、家族構成も違うかも知れないひまわりではないだろうかと考えたりもしています。
「おつむ入れ替える」と言う場面を指摘されていた方がいたと思うのですが、しんのすけが別の回で同じ事を言うのを見たような覚えがあり、演出上のヒントとうがった見方もできますが、普通に考えられる線としてはしんのすけのギャグの延長として捉える事柄ではないかと思います。

しんこが来た目的は回に分けて便宜的に仮定して考えると
“おもちゃ・事故・しんのすけの絵を見る事と様子見・ひまわりが野原家の子供ではない真相を探る”
と言った目的が考えられます。これらの回での出来事は個別の事柄であるものの多くは最終的な結末に繋がっていると考えられます。それぞれの理由を少し考えて見ます。

個人的におもちゃの役割はそれが特別な機能を持っているか、重要な出来事のきっかけを作る道具になるのではと考えています。ひまわりのおもちゃと事故に遭う時に買おうとしたおもちゃが同じ物と考えると話がまとまりやすくなります。 
おもちゃとガチャポンのサイズ的な誤差は最近のガチャポンの種類の多さやクレヨンしんちゃんの作品の性質が分かっていれば説明は不要になります。確かクレヨンしんちゃんの別の回でしんのすけがかなり大きなジャンボチョコビを食べていたり、みさえの頭ほどの大きさのあるスーパーカップを食べていた事があると記憶しています。

しんこがしんのすけの幼稚園に来た理由は不明ですが、ただしんのすけの友達に会いに来ただけだと作品全体の繋がりが希薄になってしまうので、しんのすけの絵や友達と接する事で何らかの事実確認を行ったのではないかと考えられます。この時しんこはネネちゃんに対して変な様子を見せていたので、4月3日の放送との繋がりを考えるとネネちゃんの桜田家と野原家と間違って生まれてきたという予想も成り立つ気がします。前回のしんこちゃん考察でも触れていますが、しんのすけ達が別の家族に生まれたらと仮定した話が実際にありました。

4月3日の放送でしんこが現れる目的についてはしんこの話がこれで結末を迎えるとするならば、もう答えが出てしまうので、これまでの放送の中で与えられた情報を取捨選択して考えてみる他は方法がないでしょう。

『さいごの? しんこちゃんだゾ』のについて(4月3日更新)

前回の予告ではひまわりが野原家で無いのではという衝撃の内容だったのですが、どうやら彼女の思い違いでそのように思ってしまったようです。とかく母親の叱り方は過激になりがちなものです。小さい時なら愛情を疑う事もあるんでしょう。彼女の目的は愛情を確かめる事にあったようです。今度は成長したひまわりが赤ん坊のひまわりに会いに行く事でしょう。

別の展開を予想していたのですが子供ならではの素朴な理由と言う事には気が回りませんでした。それはもう未来の危機に関連する事やしんのすけと共に未来や過去を行き来するちょっとした冒険物語だったりとおよそ希望的観測を盛り込んだ事など考えていたりしました。気になる所など何箇所も有り、長じれば別の話はいくつか作れる気がしました。今回はいくつか解消できない疑問点が残りましたが、なかなか良い終わり方が出来たのだと思います。

ひまわりが帰るしんこに人形を投げ返してしまいますが、ひろしが人形を買ってきてくれたことで未来のしんこ(もうひまわりと断定して良いでしょう)に繋がっていきます。トイレから出る場面については水場から出てくる事も一応考えていましたが、これも今回でトイレから出てくる物と断定して良いでしょう。

クレヨンしんちゃんも放映が17年と長いですね。放送当初の不安をよそにいつのまにやら国民的な作品になったものです。ここは是非ともサザエさん並に話が続いていって欲しいものですね。

今回は話のまとまりも良く謎を残した状態で終わったかと思っていたのですがまたしんこちゃんが出てきたようです。考察と言うほどではありませんが少しばかり気付いた点などについて考えてみました。拙い文章ですがよろしければご覧ください。

 クレヨンしんちゃん 『しんこちゃんたびたび登場だゾ』考察(2009年10月30日放送) 

 

 

 

 

 

 

 

※せっかくなのでその場の勢いで展開を予想した下手な絵を描いてみました。自分が考えたイメージとちょっと違います。ゴミ取りもなにもなしです。微妙な表情はちょっと難しいですね。適当に気が向けば適当にご笑覧ください。世の中はそこそこ適当が良いのです。実際そうだと思っています。はい。
miraikikizikuikikau

 

 

 

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2009年2月11日 (水)

空気の影響について考えてみる

私達が物事を判断して処理する為に重要な要素としているのは何であろうか。それが本人にとってのみの問題で明確な目的や動機があれば良い。しかし、集団の中で何か決定をしなければならない時、物事を判断する重要な部分は度々2次的、3次的な理由として片付けられる事がある。

それは個人個人の気分や形作られる空気に他ならない。気持ちの上では別のことを考えていてもその時の空気が大勢を占めていれば理由も無く意見を述べる機会を損ねてしまう。また少数意見を大勢(おおぜい)で誤っていると断じて排除しようとしたり、その場の空気だけで押し切られることがある。

不真面目な集団と議論して(その機会も無いかもしれないが)何かを決定させるのは骨が折れるのではないだろうか。柔軟性を失い意味無くカタブツに徹している人ばかりではなお辛い。

個人個人の意識が低ければ大抵は大勢に意識は傾く。議論の意識が高い人を標準とは考えないが一言で言えば怠慢が原因だろう。この場合はその場の人々にわざわざ意識を喚起した上で論調を変える必要がある。

状況によっては何かの考え方に固執している人や自己陶酔に陥っている人もいる。理想主義者に現実主義を説く場合や自身の思想や美学遂行を目的にしている人、行為そのものに満足する人などが考えた範囲では含まれるだろう。そのほかにも個人的な感情や印象が優先したり、議論の自由性が低い場合、特定の人物が幅を利かせている場合など、物事を決定する本来の理由をよそに追い出してしまう事が沢山ある。

物事を処理するために重要な部分と行うべき事が明白でありながら決定する事ができない場合にはその集団の中に何かしらの空気が議論を左右している。

しかし実は空気はなんでもない行動一つ一つでも影響を与えるものである。
山本七平の著書「空気の研究」では空気の性質をこのように述べている。以下は例示と本文の引用部分

        
  • 三菱重工爆破事件では人々は重傷者を傍観し、介抱していた人々の全ては会社の同僚を介抱しており、知人・非知人の差別をしている。
  • 戦艦大和の出撃
  • 若い母親が赤ん坊を気遣って保育器に懐炉を入れて殺してしまう。感情が絶対化し、障害を悪として排除した結果による臨在感。
  • 文芸春秋「自動車ははたして有罪か・米国よりも厳しい日本版マスキー法の真意は」に見る徴税を意図した人工空気醸成、物神論。
  • イタイイタイ病とカドミウムの関係について取材した記者が無害のカドミウムを目の前でみせると逃げ出した様。臨在感。

“「空気」とはまことに大きな絶対権をもった妖怪である。一種の「超能力」かも知れない。~~中略(戦艦大和の出撃を例に挙げて)~~こうなると、統計も資料も分析も、またそれに類する科学的手段や論理的論証も、一切は無駄であってそういうものをいかに精緻に組み立てておいても、いざというときは、それらが一切消し飛んで、すべてが「空気」に決定される事になるかも知れぬ。”

“一体、以上に記した「空気」とは何であろうか。それは非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ「判断の基準」であり、それに抵抗する者を異端として、「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力をもつ超能力であることは明らかである。以上の諸例は、われわれが「空気」に順応して判断しているのではないことを示している。だが通常この基準は口にされない。それは当然であり、論理の積み重ねで説明することができないから「空気」と呼ばれているのだから。”

“従ってわれわれは一種の二重基準(ダブルスタンダード)のもとに生きているわけである。そしてわれわれが通常口にするのは論理的判断の基準だが、本当の決断の基準となっているのは、「空気が許さない」という空気的判断の基準である。”

“現実にはこの二つの基準は、そう截然(せつぜん)と分かれていない。ある種の論理的判断の積み重ねが空気的判断の基準を醸成していくという形で、両者は、一体となっているからである。”

空気について考えた私観など

築地市場の出来事について

このあいだ築地市場の外国人(日本人もでしょうが)立ち入り禁止の話がありました。これを例に考えてみると市場の空気、観光客の空気、この出来事を知った人々の空気がある。以下にそれぞれの人々が占めている空気について仮定してみる。

市場からすれば築地市場を知ってもらいたいが、仕事の邪魔になる事はしてもらいたくない。好意的に見る反面、仕事という空気を優先させている。仕事の邪魔であれば外国人を問わず観光客に対しては強い態度で怒ることもあるだろう。築地市場は基本的に見学者を排除はしていないが、見学を可能にしている以上むやみに邪魔者扱いする矛盾が生じる恐れがある。
マナーが悪い外国人観光客という空気も出来ており、特に“外国人”観光客を注視して好ましくないという空気が形成されている。感情的には外国人は日本人観光客に比べると若干厳しい目が向けられる事になる不公平が生じる場合があるだろう。しかしながら原則的には外国人は日本に詳しくないと考えるべきで、観光客として日本人観光客と相対的に扱う姿勢が足りなくなってくる。
“仕事が重要という空気”と“マナーの悪い外国人観光客という空気”が形成されていると思われる。また“外国人”と報じられているので“日本人”とは基本的に別物扱いしている所があるのではないだろうか。

観光客としては日本の文化や築地市場の様子に興味がある一方であまり邪魔をしてはいけないという気持ちは多かれ少なかれあると考えられる。中には度を越えたことをする者もいる。
観光する以上は気持ちが高揚している観光客も相当いると思われる。市場で注意を受ける事に対しては申し訳ないと思う人、元々意に介さない人、市場のやり方に反感を抱く人等色々。また集団になれば個人個人の道徳意識(と言うより個人なりの規範意識)は希薄になると思われる。この点は日本人でも同じ所がある。実際に身の処し方が分からなかった為に非常識とされる行為をした場合があるのではないだろうか。怒られる自覚が無かった為ににかえって迷惑になる事をしたという事もあるかもしれない。
大きな空気としては“観光客としての空気”、“迷惑を自重する空気”、“興味本位の空気”、“反発の空気”といったところだろうか。

出来事を知ったその他の空気はテレビ、ニュースの記事や個人のブログなどで色々なところでその情報を見聞きし、“一つの問題”としての意識が喚起される。問題に対してはネット上の記事やコメントを残す事である程度気持ちを消化する人、他の人に話す話題程度に捉える人、問題意識を持続させて継続的に意見をのべたり活動する人など意識の差により様々に分かれる。
先の2者のように問題意識が薄い人々が多くを占めていれば流されている表面的な情報を気軽に信じてしまうことがあるだろう。それでも“外国人観光客はマナーが悪い”という空気自体は広まるので、問題を解決するのに安易な姿勢をとれば良いと考える。今回の出来事では“外国人”と呼ばれているために、表面的な情報を受け入れた日本人にとっては外国人=マナーが悪い→外国人自体が問題である→安易に治安など含めた外国人排除、客観性の低下を促進するという流れも出来るかもしれない。築地の出来事などを一つの既成事実として認識した為に外国人を“悪”として厳しい態度で臨むことが“正義”であるという論調が持ちあがる一助となりうる場合がある。問題意識が高い人は積極的に自分の意見を広める事によりある種の空気を形成しようとする。テレビなどは何かを意図して問題意識を喚起し、空気を広めようとするだろう。
安易に形成された空気に集まる人々は怒りの感情ばかりで攻撃的側面においては異常な鋭さがあるが、違いを許容することはできなくなるだろう。不特定多数ではあるが占めている空気は基本的に大別して“怒りに依存する空気”、“許容に依存する空気”でしょうか。その中に、“外国人の認識に対する空気”、“築地の認識に対する空気”“責任の所在を問う空気”などがネット上の人々が集まる記事などを媒介して空気として広がっていくのではないか。

このように考えてみると空気というものは常に存在しており、目に見えない空気同士の勢力争いが知らないうちに行われているように見える。

また最近では京都の舞妓に対しての“外国人観光客のマナー”が悪いという印象の放送をしている。確かに迷惑の掛け方が日本人と比べるとひどい場合があるようだが、違いを受け入れた上で受け入れ態勢を作る必要があるだろう。大挙してカメラを向けている様子は異様な雰囲気はあるが、日本人も同じ事はよく行っている。

 

テレビの政治報道や麻生、官僚批判について

麻生さんが郵政民営化に反対だったといった事を批難するのもこれも空気だ。でも別に以前から小泉政権と距離を置いている様でもあり、言った事に問題があるとは思えない。テレビでは「民主党と選挙で戦う前に結束力(空気)を低下させてけしからん」と言うわけだ。以前民主党で小沢氏が代表に選ばれたのも結束力を優先した空気の影響だ。意見が分かれるのが当たり前でそれをいまさら本音を言ったからと蒸し返してわめくほどの事もない。
歯に衣着せぬ所も麻生太郎の一つの欠点でもあり、また魅力でもある。

安倍晋三が総理になっている時にも“KY”という言葉がよく目にするようになった。この言葉の意味はその場の空気が読めない人に対して注意、批難したりする際に使われる。中立的な言葉ではなくKY=悪い事という意味合いで和を乱す者をマイノリティーとして議論無く排除しようとする。

しかし、小泉さんにいたっては変人と言われるほどの人で今までにないパフォーマンスを連続して行っているのにKYと言われないは何故だろう。小泉氏の事を内心ではやりすぎと思っていても好ましくないとは考えずそれもまたご愛嬌程度にしか受け取らなかった。国民にとってはハッキリ物を言う姿勢は変革者であるかのように演出して小泉氏の支持を支えた。郵政解散が行われた当時はテレビの行っていた調査では郵政民営化の優先順位はもう少し低い位置に占められていたと思うが、その目的の為にどちらかと言えば常識はずれな解散をしたのはKYと呼ぶ人はいない。

このように歴代の総理の行為についても相対化が図られていない。

また自民党の批判ばかり報道するのに何故か民主党や公明党の批判はされる事はない。小沢さんが無投票再選したのももちろんだが、公明党は代表選を行っていないし、それに定額給付金を要請したのは公明党だ。自民党は公明党のおかげで与党を維持できているという側面もあるだろう。
自民党が国民の信を問わずして何度も首相が変わったことを批判するなら無投票再選をした党派は民主的と言えるだろうか。

公明党についてはニュースでは太田昭宏代表が何度か顔を見せる程度だ。テレビが一丸となって麻生氏の単純な批判を繰り替えしながら、民主党その他の野党を立てるようなコメンテーターや批評家には非常な違和感を覚える。批判する中身は表面的、形式的な部分ばかりなのに“反麻生の空気”を作ろうとする意図は露骨に示されている。

先日の公務員の労働権を肩代わりする人事院の話にしても官僚批判という空気によって、人事院が解体させられるかもしれなかったのだ。谷公士氏のインタビューを見たが本人の弁では人事院は独立性が高く、内閣や国会にも意見を出来る立場にある。人事院に対しての議論も無いまま解体して人事局を作るのは違うのではないか。という旨を語った。独立性という部分は今の官僚批判の中では“渡り”の斡旋をしていると簡単に結びつける事も出来るが、人事局になれば何がよくなるのかはよく分からない。それに独立性が高いという事は逆に利権などの癒着とも縁が薄く、公徳心を持って自立的に動いているならけして悪いとは言えない。官僚が本当に“悪”であるのかという部分でも疑問を持たなければならないような気がしている。
なぜ普段はマスゴミと言われる事があるテレビが揃って官僚批判をするのも疑問が残る。テレビというのは言ってみれば空気の発生装置と捉えてもいいものだ。

空気を主導している意識とは

山本氏は空気の作られる過程にはある種の論理的判断の積み重ねが有り、論理的判断基準と分かれている訳ではないとしている。
空気自体が発生する背景にはそれなりに納得の出来る一定の認識が形成されている。麻生批判は麻生総理の資質不足という認識、外国人のマナー批判は築地などの事実認識、官僚批判は渡りや居酒屋タクシー、作文などの認識、貧困問題は派遣切りに代表されるリストラや難民、企業の横暴、貧困ビジネスの認識が形成されている。

空気を基準とする際には積極的な意識の高さにより空気が形成されるのが好ましいと考えるが、空気が生じた時に高い意欲を持っている人は大抵少数派だろう。問題意識が高いという事は問題解決に対する能力もまた優れており、その時々の空気などで簡単に意識を変える事も無い。またその意識を持続させていくのもそれなりに大変な事だ。だから自然と意識の低い人々の空気の力が強くなる。

山本氏の著書に参考にしたりなどして考えていた事でもあるが空気を動かしている大半は不純な動機が多い事に気付く。他罰的、差別的、感情の性善的認識、相対性の欠如、主体性の欠如など個人の意識の低さに起因する事などいろいろである。

当たり前に人と話し物を買い生活を営むだけでも空気は生まれる。一見意味の無い事でも空気を発生させているのだ。

例えばある消費者が物を買う過程を例に考えてみる。
まず購入するお店をどこにするか考える。不便でも個人商店で購入するか便利な大型スーパーで買うか検討する。消費者にとっては当然商品が安く品質の高いものを望む。車でスーパーに到着してちょうどバナナダイエットの放送をしていたのでバナナを購入して帰宅する。

以上の例で発生した空気は気付くだけでも4点ある。
・1.便利さを優先する空気
・2.良い物を買おうとする空気
・3.流行に便乗する空気
・4.一定の手段を常態化する空気

それではこのような空気を発生させた為に起こる結果や影響を考えてみる。

事例1ではお店を選択する段階で大型スーパーで購入する流れが作られる。個人商店は地元の人間の購入が頼りで値下げ攻勢も難しく、品揃えも少ないと考えられる。大型スーパーを利用が増えれば小規模店舗は客を奪われ倒産してしまう。

事例2では消費者が物を選ぶ基準はまずか品質と価格になる。品質を取れば国産、価格を取れば外国産を選ぶ。国産を選べば日本の産業を支援する事にも繋がる、地元の物は地場企業の促進に繋がる。外国産の食品などは安く量的な満足度も高い。安い食品に慣れた人は国産食品に価格や量的にも旨みを感じず、品質を多少は排除しても良いと考えるようになる。食品偽装や中国食品で神経質になっている事があり、日本の企業は価格的にも量的にも品質的にも要望が高まり、企業体力を疲弊させるだろう。

事例3ではお店などで急激に品薄になる為に通常の消費者の購入を妨げる。安易に流行に飛びつく空気が醸成される。健康グッズは気軽に使って健康になれる物の消費が促進される。儲かる企業がある一方で悪徳商法も頻発させる。基本的に楽をしたい気持ちがあるので継続して続けられない為意味が無い事も多く、実質的な健康にも結びつかない。健康に対しての危機感をテレビで煽られている事もあり、安易に病院に駆け込む人が増え医療現場を圧迫させる。

事例4ではスーパーの消費や車が必要な物として常態化する。必要という意識が強まれば自動車業界や石油業界を下支えする事になる。消費の固定化が進むと産業の流動性や消費の分配が損なわれる場合がある。ある種の空気が常態化すると無意識に秩序としての役割を担う、知らない内に空気に従う人が増える事で結果的にその空気を支持する事になる。

最終的には各個人の目的と意識を強める事が良い結果に繋がり、不純な動機ではなく正当な理由によって考えて行動する事は、少なくとも我々が生きやすい空気を形成していくものだと考えている。しかし、正論ばかりでは世の中は生き難い。だから感情の通う温かみも必要ではないかと思っている。

私からすると大抵の空気とは妥協(怠慢や堕落とも)した精神の総体であると考えている。また特に何かをしなくても日常のちょっとした内的な判断でも空気を作る事に繋がっている。

精神的に独立した個人を気取る事は簡単に出来るが、個人的な感情で他者を排除する詭弁に用いられる事が多い。誰かから何かしらの要請をされた際にプライバシーや個人の思想の問題などと言って突っぱねる事などがそうだ。自らの望む空気(社会)を作るためには客観的な中立を保ちながら考え、行動していく事が求められているのではないだろうか。

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2009年1月24日 (土)

クレヨンしんちゃん 『また! しんこちゃんだゾ』 考察 (2009年1月23日放送)

昨年の12月5日に放送されたクレヨンしんちゃん「謎のしんこちゃんだゾ」の回はYoutubeなどのおかげでネットで結構な反響があったようです。しんこちゃんの考察については当ブログでも以前にクレヨンしんちゃん 謎のしんこちゃん考察クレヨンしんちゃん 謎のしんこちゃん考察 追加補足などで紹介しました。

そのような事を知ってか知らずか、1月23日に「また!しんこちゃんだゾ」を放送されました。恐らくは「謎のしんこちゃんだゾ」だけではもとより視聴者に対しての説明や理解が不足しているので話題になる前から続編を作るという話はあったと思います。

今回のしんこちゃんで気になった点を以下に簡単な理由を付け加えて挙げてみます。

  • おもちゃの人形がひまわりのお気に入りになっている
  • しんのすけもおもちゃに興味を持っている(ムキになっているだけにも見える)
  • シロがひろしを起こした(しんこが来るのを察知して吠えたように見える)
  • 「ひまちゃんのパパですね」と尋ねる(当然と言われれば当然の気はしますが)
  • ひろしとしんこの会話中に画面が細かく切り替わる(何かあるとは考えにくいですが一応)
  • 「何年経っても同じ・・・」とひろしの人生を予見したような発言(リアリティーを出す為の偶然の発言とも考えられる)
  • しんこが推薦する店「ラベンダー」に案内する。(何か誘導する理由が考えられる)
  • 「ラベンダー」と分かりやすい看板が有りながら、ひろしは店名を覚えていない。
  • ラベンダー店主はイヤリングをしている(男性がしてもいいが少し不自然)
  • 「ひまちゃんはパパが大好きよ。」と先に告げる(確信的に言っている節があるため)
  • 「みさえさんだっておに・・・」という発言(呼び方でしんのすけとの間柄が異なるため)
  • 「おじさんだって3人の事好きでしょ」と発言(気持ちを確認するような発言)
  • ひろしが車に接触するのを防ぐ
  • 今回もしんのすけがいない間にうんち雲を発生後にしんこが出現し、シロと仲がいい

今回の回を見て気になる点をいくつかまとめると以下のようになります。(以下しんこを彼女と記述します)

ひまわり的な話題を中心に話を進める。

彼女の発言の主な内容には共通してひまわりが主としての内容となっています。ひろしと会話した時に「ひまちゃんのパパですね。」と言いましたが、「しんのすけくんのパパ」とは言っていません。ひまわりと多く接しているので当然といえば当然という気もします。

「ラベンダー」での会話についても「ひまちゃんはパパが大好きよ。」という発言をまず最初にしています。ひまわり本人であればこそ気持ちが分かるのであり、何度かひまわりと接した程度なのに彼女はこの事をどこか確信的に言っているような節があります。ちょっとした違いですが「好き」ではなく、「大好き」であると言っているのです。

ひろしは彼女とは初対面なのでひろしがひまわりと接する場面を彼女に見せた事はありませんし、ひまわりは言葉が喋れないので好きか嫌いかは態度やしぐさでしか判断できません。実はみさえが彼女に既に2度も会っていて、ひろしの使用している物を握って離さないなどの理由があれば別ですが、或いは野原家の生活を偶然目撃する事も考えられますが、基本的にひまわりがひろしを大好きと思わせる理由は彼女にはあまりありません。

また「お兄ちゃん」と言いかけた部分を「ひまわりのお兄ちゃん」と会話をつなげましたが、「お兄ちゃん」と言うのは家族か別の家族間で兄弟のような付き合いをしている間柄だからこそ言える言葉であり、面識も無く親しくも無いのにしんのすけをいきなり「お兄ちゃん」とは呼ばないでしょう。

「しんこ」は「ひまわり」か

やはり野原家の事情に詳しいのですが、先に説明した彼女がひまわりを中心に話を進める点や「おじさんだって3人の事好きでしょ」と発言したのは、野原一家の絆を確かめたような気がしました。その後「良かった。」と安心したのは彼女が家族の一員であるひまわりだからと考えると納得できます。数日間みさえやひろしと会話を重ねたからといって他人様の家庭を心配をできる人などそうそういないでしょう。

当初はなんの関係の無い冗談のように考えていましたがひろしがプレゼントを申し出た時に「ステキなお家一件。」と言った部分にも話がつなげることができるかもしれません。ステキな家=円満な家庭と考えるのは考えすぎかもしれませんが。

類似点としてはひまわり的であり、しんのすけ的でもあり成長したひまわりを見ない以上は断定はできません。個人的にしんのすけを相変わらず避けている点で現在のひまわりが成長して全く同じ彼女になるかどうかと言う点で引っかかています。今回の放送でも「お兄ちゃん」と言いかけた事もあり彼女の名前自体は「ひまわり」なのは間違いないとは思っています。

しんこは未来から来たか

しんこが未来から来たと言える理由には前回でしんのすけが部屋に入る直前にうんち雲が発生し、消えた事やひろしの事故を防いだ点、ひろしの人生を見ていたかのような一連の発言などがあります。ひろしの将来を予見したかのようないくつかの発言の一つ一つは未来から来たという説得力がありませんが全体として見ると未来を知っているように見えます。長期のローンが残っている事も知ってるようでした。

うんち雲は彼女が自由に出現や消えたりする際には必ず発生します。その点で自由に別の場所へ行き来する能力があると考えられます。野原家が生きている時代はそんな技術はないですし、来たとするなら現在より進んだ技術を持っている未来から来たか別の世界から来たと考えるのが自然です。それに彼女が野原家の内情に異常に詳しい理由も未来から来た事で説明が付きます。

彼女が過去から来た時間移動能力者であると仮定しても、その為に野原家の細かな内情を知るには個人で十分な下調べを行わないといけません。説明が可能な場合もありますが、整合性という点で無理が生じてきます。未来である事の方があらゆるSF的発想の可能性や問題点をクリアしてると思います。

別の未来をたどった世界から来たとすれば必ずしも未来とする必要はありません。しかし現在の野原家は恐らく存在していない気がします。また翻って別の野原家が存在しているかもしれません。でも少なくとも現在の野原家について詳しいのでこの線は除外できる気はしています。

しんことおもちゃの関わり

前回はしんことおもちゃの関わりがよく分かりませんでしたが、なにかしら重要なキーアイテムとして含みを持たせて終了しました。今回の放送でひまわりのおもちゃがお気に入りのおもちゃになっていることが判明しました。しんのすけも人形に興味があるのかムキになっているのか知りませんが人形に執着しています。

おもちゃについては別に気になるところがありまして、ラベンダーの店主がイヤリングをしている点が気になったのですが、前回ひまわりがおもちゃのイヤリングをしていたのを思い出いだし、暗喩的に「おもちゃ」の重要性を示唆したのかもしれません。このイヤリングが必ずおもちゃと限った話ではないのですが。

そのように考えるとラベンダーの店そのものもおもちゃ的な作りをしていますね。またひろしが彼女に対しておもちゃを買い与えようとした時に事故を防いだ点でもおもちゃの重要性はより強まるのではないでしょうか。前回でもみさえが「好きなおもちゃ良く分かったわね」といったり、おもちゃのみを表示する場面があったり、おもちゃの重要性は常に伝えられていました。

以降はYoutubeなどのコメントなどを見て気付いた部分ではひまわりのおもちゃは最後に出てきた絶滅動物のガチャポンが入っているのではないでしょうか。おもちゃを買いに行ってしまった為にひろしが事故に遭遇した場合があったかもしれません。

しかしひまわりのおもちゃが絶滅動物であると考えると少なくともひろしが購入後に事故に遭ったということになり前後がおかしくなります。

もしかするとおもちゃを重要視させる為の我々視聴者に対する小道具程度の役割だった場合もあるかもしれません。ラベンダーを訪れた事やしんのすけが居合わせたと仮定すると実際の順序が多少前後するのかもしれません。

前回では小道具的な意味でおもちゃを注目させる役割があったという気もしてきます。

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しんこが出現する背景・目的

前回にもしんこが意味も無く現れる可能性が少ない点について触れましたが、前回と今回の話の中で物語の中で最も意義のあることを考えると前回ではおもちゃ(人形)をひまわりに託すこと、今回についてはひろしの事故を防ぐのが目的だったと考えます。

彼女の背景を判断する材料として前回のさようならと言う言葉で目を潤ませた点や今回では中の良さを確かめたような点などを考え合わせると何らかの理由で将来的にに家族が別れる(生別か死別)ということがあるのかもしれません。

死別と言う事であれば今回彼女が事故を防ぐことができたのでもう出てこない場合があるかもしれません。それでもおもちゃが重要な役割を果たした訳でもなく、人形に意味を持たせるような表現をしていたのでまだ彼女が出てくる機会は用意されているかもしれません。

今回の彼女がひろしの事故を防いだことで彼女の役割は終わったかもしれません。ひまわりのおもちゃについては最後に出てきた絶滅動物と同じ物であると示したのならば、おもちゃを重要視させる必要もなくなります。

彼女がひろしを事故から救った事でひろしが死亡したかもしれない未来は自然と消滅する事になります(現在の野原家の未来と同化するとも)。彼女がひろしが死亡した未来から来たとするなら彼女の存在も消えてしまうでしょう。今回に限りひろしを救った後に雲を発生させずに彼女はいなくなりました。

無数の未来という空間と現在の時間という流れ(空間軸と時間軸と言うのでしょうか)で考えると少なくとも彼女が干渉した野原家と同じ時間の流れの未来からやってきたと考える事も出来ます。

彼女が憂いていたのは実はひろしが事故に遭う現実を知っている事に加えて、未来を変えた結果自分の存在が消えてしまう事を知っていたからではないでしょうか。

しんこがしんのすけを避ける理由

個人的にはしんこがしんのすけを避ける理由として考えたのがしんこ=しんのすけが同じ存在である為に一方を存在させるためか、未来への影響を少なくする為かと考えました。

理由としては無数の未来の可能性を先に示しましたが女のしんのすけもいるかも知れないという仮定や別の世界で同等の存在が会うことも危険が伴うだろうと考えた場合があったからです。未来のひまわりを見たわけではないので似ているからと言って断定できない部分もあります。

個人的にはしんこ=同一のひまわりと断定できない理由になっていますが、ひまわりの線が濃くになってきたのもまた確かな事です。

ラベンダーの意味合い

花にはもともと花言葉があると考えて検索したところ「あなたを待っています・期待・承認・優美・豊香・不信・疑惑・沈黙・私に答えて下さい」という意味があるようです。上記にて家族が将来別れる可能性を示しましたが、「あなたを待っています。」の意味があれば少なくともひろしが生きており、ひろしの側から出て行ったと考えることもできます。

期待と不信という相反するような意味合いは揺れる気持ち、疑惑であれば彼女の存在そのものが疑惑の総合商社です。花言葉自体は無数にあるのでこじつけ的に考えれば別の花でも説明ができるものも多いかとは思います。

またラベンダーを連想させる作品に「時をかける少女」があるようです。小説は読んだ事はありませんが、ラベンダーを想起させる作品として十分認知されているのであれば、彼女が未来から来た可能性を強める意味合いを持ちます。

クレヨンしんちゃんのSF的展開の可能性

クレヨンしんちゃんにはSF的な話の持っていく話などが結構あるようでクレヨンしんちゃん映画 クレヨンしんちゃん 伝説を呼ぶ 踊れ!アミーゴ!ではドッペルゲンガー的な話がありますが、この作品をざっと見たところ偽者は本人のソックリさんで出てきますし、偽装して身近な人間に近づこうとしています。彼女はひまわりとソックリではありませんし、もし前回入れ替わったのならばひまわりが何らかの動きをするはずなので可能性としては除外できる気がします。

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生まれることができなかった子供の入れ替わり(流産も含め)、を狙ったと言う話がありましたが、もしそうなら彼女が間接的な兄弟殺しを画策したということになるので可能性としては最も可能性が低い部類に入ると考えます。まぁ面白い発想ではあるのですが。

それ以外の通常放送でももし野原家以外の家庭に生まれたらと仮定した話があります。なし崩し的に野原家に生まれてしまうのですが、しんのすけはひまわりに後から生まれてこいと夢の中で指示、その間にみさえ達が寝顔を見ながらが生まれてきてくれてありがとうと感謝して終わります。

話の流れとしては「自分達が生まれてきて存在する奇跡」「生命の神秘」といった壮大な気持ちを喚起させるものでした。今回もそのような作品であって欲しいものです。

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クレヨンしんちゃんは時々リアルな現実を反映したりしてますが、そこまでグロい発想はないとは思いますが。アニメにて製作側の反乱のような事も有りますので可能性はまったくのゼロではないでしょう。そのような話でも少しは救いのある物語にしてるとは思うのですが。

その他にも気持ちの悪い話でフランス人形が出てくる話などもありました。乱暴に扱われてきたおもちゃたちがみさえたちに復讐すると言う話です。日本公共広告機構のCMを思い出す内容でした。

上記の「しんことおもちゃの関わり」に関わる事例だと思いますがしんこがおもちゃに宿った魂とか思念が具現化したものだとするならちょっと人形にしては自由に動き回りすぎで、説得力に欠けるのでこの線も薄い気がします。

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ターミネータからしんのすけを救うため未来から風間君が来る話(クレヨンしんちゃんスペシャル 6 (SF殺人サイボーグだゾ)やクレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦・クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズのような例も有るのでタイムスリップや異次元、未来に迷い込む話は珍しくありません。

細かいところで気になる点は有りますがとりあえず、当面の結論としてはしんのすけ的な未来のひまわりで、ひろしを事故から救う目的で野原家に接触していたのではないかと考えています。

そしてそのかわりにしんこの未来は消滅(野原家と同化とも)してしまったのかもしれません。

クレヨンしんちゃんを教育に活かす試み

クレヨンしんちゃんを教育に役立てようとする試みもまた多いようです。海外でも人気の作品で中国語で“小新”(シャオシン)、そのままの読み方でShin Chan(シンチャン)と呼ばれて親しまれているようです。

最近見た記事でスペーストゥーン・メディア、インドで子供向けチャンネル放送開始と言う記事がありKMI(キッズ・メディア・インディア)の代表取締役サンガリ氏はスパイダーマンやクレヨンしんちゃんを教育に役立てたいとしています。

クレヨンしんちゃんは大人に取っては好ましくないと考える向きが少なからずあるでしょう。昔見た場面で性器を使ったゾウさんはやり過ぎではと思った事もありました。結果として元々自分の常識とかけ離れていた情報を戸惑いはしたものの肯定的に見られるようになったのです。クレヨンしんちゃんを見る子供を心配する親御さんも少なからずいたのは想像に難くありません。

子供に対して有害情報を見せないような試みがありますが、あえて臭い物に蓋をするより、ちょっと毒があっても現実的な側面や厳しさに慣れさせる方がよっぽど身になるような気がするのです。第一子供の基準に大人が合わせるなど無理があります。

大人になれば有害と呼ばれる情報に触れる機会は極端に増え、情報を整理しながら心の平衡を保っていかなければならないのです。そういった意味でもクレヨンしんちゃんは子供に見せるにはとても良い作品と考えています。

現実的に則っている所ではネネちゃんはリアルおままごとをやるキャラですが、ネネちゃんが結婚した時の考える回(クレヨンしんちゃんスペシャル 6 ネネちゃんのおムコえらびだゾ)では経済的側面や将来性などを考えています。結婚が恋愛感情だけでなく経済的な面や何らかのメリットを考えて結婚すると言うのはあながち間違っていないと思います。

クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦では戦国時代に行ったしんのすけの目の前で武将が次第に息絶えていく様子を描いています。主人公達と楽しい時期を過ごした後に死んでしまうのです。作品を作る際に悲劇的な感情を高めるのに例えばガンダムとか戦争物だとパイロットが死ぬ直前に家族の写真を見ながら帰還を誓う行為の後に死亡したり、物語の長い期間を通して親近感を持たせた上で死なせるなどの手法を目にします。

ですがクレヨンしんちゃんはジャンルで言えばギャグ漫画です。ギャグ的な話の中にシリアスなシーンを入れる為に深みや面白みが増している部分もあると考えています。大抵面白いと思う作品は落差がある場合が多いです。例えば少林サッカーや北斗の拳のパロディー、子供向けの作品をリアルにするパロディーなど一般的な認識とかけ離れるほど面白かったりします。

みさえの妹にむさえというのがいるのですがこれがカメラマンの夢に挫折して野原家に転がり込んでくるのですが、無職で生活もだらしなく変に自由を気取った前向き発言といいダメ人間全開です。子供が見る作品に出すにはあまり好ましくないキャラと考える場合が有るかもしれません。

普通であれば仕事を見つけろ無駄飯食いだのとか言われて居候身分はよほど肩身は狭いと思うのですが、野原家は割りとおおらかに受け入れています。見ててダメな奴だなと微笑ましく思うのですが立場による差別的な意識を強める物ではありません。子供が見る分にはこういった人もいるのか程度の情報と中立的な意識はできるのではないでしょうか。

私にはやたらに現実離れした浮かれた気分を撒き散らしては情報を対処する能力を育てる機会を奪う方がよほど有害に思えてきます。親や大人が有害情報と言われる物をいつも排除していくことはできません。自主的で物事を考えるトレーニングとその為の情報を与えてくれる作品がクレヨンしんちゃんなのです。

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2009年1月 8日 (木)

幸福に生きる為には何が必要か

企業は公的役割があることを意識して従業員の雇用を守り、生活を守らなければならないと思っています。全体の給与水準などを下げたり、労働時間を削減するなどで雇用を守る事もできなかったのでしょうか。

派遣切りは本当に不幸なのでしょうか。貧困が生まれた過程には正規雇用の代替としての非正規雇用が企業にとっては費用を抑えて状況により自由に労働者を集めたり解雇できる立場を利用し、それを派遣労働により促進させてきました。ただ非正規の替わりに正社員に対する企業の要求も高まっているので正社員であれば必ずしも幸せとも思えません。

テレビは派遣労働者が解雇された事で不幸や責任を煽るばかりですが、一方で労働者の姿勢にも問題がある気がしないでもありません。

貧困が叫ばれ、ネットカフェ難民やワーキングプアという言葉が作り出され、反貧困を掲げる団体や人々がよくテレビに登場するようになりました。しかし、一般から様々な市民活動を行う機運が高まってきたのは良い事と感じるが、これらの活動をネットやテレビなどを通じて見るが、あまり好意的に見ることができない部分がどこかにあります。

今の状況が悪いと考えれば悪いと思いますし、正社員になるのが難しくなったのかもしれません。給料が上がらないのに生活費ばかり上がっても困ると言うのももっともな話です。ある程度の批判があるのも正しいでしょう。

全てでは有りませんが、ただ好意的に見られない理由としては批判の対象を外に求めて窮状を訴えるものの、自分自身で内面を変えて生活を向上させる為に何かしようとしたかについて疑問があり、批判する対象を得る事で自分に対しての責任を回避し、あわよくば良い条件を得ようとしているように見えるのです。派遣村に集まった人々の中には弱者を装って利益を得ようとしている人々が含まれているように見えます。

助けを求めれば誰かが助けてくれるという甘さも見え、自分の力で生活を成り立たせるという意識が足りないようにも見えます。私にはこのような外への批難と要求ばかりが目立ちました。結局自分を救えるのは自分しかいないことに気付くべきでしょう。ただ生活を維持していくために改善しなければならない不十分な部分があるのも確かです。

昔学校で歌わされた歌で想い出がいっぱいという曲で「君はまだシンデレラさ~幸せは誰かがきっと 運んでくれると信じてるね 」という歌詞を前から他力本願的な事を歌っているのだな~と思う事がありました。

麻生首相が「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである」という言葉をわざわざテレビが取り上げていましたが、悲観主義については全面的に気分のみと言えないところはあるが、意識を変える必要性という点では納得できる。また彼らに志す目標や動機などが欠けているという事を言いたかったのではないかと思います。

長い人生を生きていく以上は気持ちを揺さぶられる事が多々あります。そのような事でいちいち小さく考え込んでしまっては身が持ちません。だから気持ちを切り替えたり、考え方を変えて気分を安定させる必要がでてきます。

現実的に不便に思うところでは部屋を借りるのにはお金や保証人も必要ですし、部屋を借りられなければ落ち着いた生活はできないと思います。保証の無い低所得者にも気軽に部屋を借りられるようにはしてほしいと感じています。

生活保護については受給しやすい状況を作るのと反比例して不正受給などの増加がすると思われます。必要な人々に適正に給付が行われるには適正な調査を進めるために、公務員の増員や制度の整備を必要はあると思います。

厳しい見方では有りますが元々自分自身に先に進んでいく為の動機や情熱みたいなものを形作れなければ結局は安定した立場や経済的な向上などは到底見込めないのだと思います。自分の可能性を信じるのは良いですが全く見込みが無ければ諦めなければならないかもしれません。

私が最も良いと考える方法でそこでお金を稼ぐ事意外に一番手軽にできることは自分の中の固定観念や問題点を徐々に変えていくのが良い方法なのだと思っています。自分にとって出世や金銭でないのであればそれほど雇用形態にこだわる必要は無いのです。

確かにお金がなければ生活はできないもののそれが不幸であると誰が決めたのでしょうか。勝ち組、負け組みなんて言うものは始めからありません。その言葉で賃金や待遇に多少の差がある労働者を争わせる目的があるような気がするのです。権力を持つ所ほど力なき人々が団結して真の問題に対して目が向くと困ることもあるのでしょう。

現実的な部分では生活するにあたり最も費用が掛かるのが住居費と食費が最たるものでしょう。この2点を重点的に削減する事で生活はかなり楽になると思います。

部屋を借りるなら東京ならNPO法人のもやいに入居の相談をしたり、保証人代行サービスや保証人不要物件もあります。家賃が高ければネットカフェや賃貸情報誌などで安い物件を探したり、部屋を共有するという方法も良いかもしれません。

食費が掛かるなら1食程度は食事を抜いたり、高いコンビニ弁当などは避けて自炊を行う事を考えるべきでしょう。私は節約のためカレーなどよく作り置きしていました。サバの缶詰やお餅、そばやうどんも金銭的に重宝すると思います。私の一日にかける食費の基準としては1日の食費を1000円程度と決めています。

公共交通機関は可能なら自転車を使う。可能なら職場は近い方が良い。娯楽については可能であればお金を浪費しない方法をとれば良いですね。その他生活用品などは必要な物だけを購入し100円均一などを利用する。また価格だけではなく丈夫で長期的に使える物を選ぶようにします。必要の無い物は極力お金を使わないようすればよいと思います。

ちなみに食費に関する記事でこのようなR25の記事の『年齢階級別1世帯当たり1か月の収入と支出(単身世帯)』(2007年度)の34歳未満の出費平均18万3901円の内、食費に4万6163円を占め2万5772円が外食であるということです。

何かにこだわり過ぎてしまうのは悪い事ではないですが視野を狭める事もあるので、別のところに目を向けたり、考え方を徐々に変えていければ不幸を幸福に変えていけるものと信じています。

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2009年1月 4日 (日)

クレヨンしんちゃん 謎のしんこちゃん考察 追加補足

いまさらながら謎のしんこちゃんの閲覧があるので、もう少し考えられる部分を書いてみます。

異次元から来た流産したしん子が入替りを狙って過去に来たと言う部分ですが、何も流産させる必要は無く本当は生まれて来たかった精子や卵子まで含める事が出来るのではと言う気がします。未来や異次元からという線も依然として強いです。

異次元に介入する理由として自分を存在させる為には現在のひまわりを排除する必要があるのですが、しん子は別次元のしんのすけ(名前はひまわり)として存在できているわけですから介入してくる理由はない気はします。また見直して気付いたことですが、しん子の含みのある笑みをひまわりがしたのは入替りを行ったとすれば意味を強める事は可能です。個人的にはこういった話の展開は場合によっては好きですが、恐らくみさえの子供(内情に詳しい為)の彼女が自分の保身の為に入替りを計画したとすれば色々とエグ過ぎます。後述していますが彼女の中身はしんのすけだと考えていますので入替ったとしたらしんのすけが無意味に2人になってしまいます。ただ実際に漫画版で野原家族が入替るという回は存在するので発想としては十分有り得る線でしょう。

時間移動が出来ると考えるのは彼女が現れたり消えたりする前後に必ずうんち状の雲が発生し、動作も見せずいつの間にか現れます。この点でタイミングが良すぎるので彼女が計画的に現れたり消えたりしていると考えます。

ひまわりに会って大丈夫でしんのすけと会うと何故だめかと言う点で、前回の考察同様に自分の存在を消すか干渉しかねない為しんのすけを意図的に避けていると考えますが、同一の存在として異次元にあっては彼女がしんのすけ(名前はひまわり)に相当すると考えられる気がします。性別が違うので別人と取れる場合もある気がします。

しん子は現在のひまわりと似た性質はありますがしんのすけの性質が強い気がします。主な理由にはオムツの場所や赤ん坊の扱いを知っていた事です。その他にギャグが同じだったり、しんのすけの綿アメなど有力です。ひまわりが赤ん坊の時のオムツの場所を覚えてるとは思えませんし、手際の良さは年長者として赤ん坊と接してきた経験が伺えます。しん子が赤ん坊と接する機会があるとするなら彼女に弟か妹がいると考えるのが自然でしょう。みさえが今後3人子供を産むわけでなければ恐らくはひまわり的な弟のしんのすけが異次元にいるのではないでしょうか。でも貴金属や宝飾品が好きなところはひまわりらしい(女の子らしいとも)と言えるのでやはり異次元のひまわり+しんのすけの合いの子でしょうか。

髪質の違いが気になったのですが、赤ん坊であれば髪質や色合いが違う事もあるだろうとある程度大目に見ることは出来ます。みさえの「好きなおもちゃよくわかったわね」と言う言葉も少し気になりましたが、ひまわりのおもちゃに対する意識の変化が見られないのでこの際無視します。

また何か気付きがあれば追加します。

※1月23日の「また!しんこちゃんだゾ」の記事を追加しました。よろしければこちらもご覧ください。

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2009年1月 3日 (土)

「頑張り過ぎない」重要性

やっとこさ年末年始の繁忙期終わりました。食品加工の仕事だったのですが、食卓においしい食事が出せるのもこのように懸命に励んでくれる方々がいるおかげですね。せかせかと働いている方にペースを合わせようとするとすぐに肉体的疲労が来てしまいます。いちいち指図や不満の言葉を頂きましたが、ペースを守りながら淡々とこなしていきました。

私は仕事に関しては「頑張り過ぎない」という考え方が合っている気がします。早い展開や変則的なことは苦手なので、遅くとも正確な対応に意義を見出した方が良いですね。

また仕事で始めから能力全開でいくと職場での「仕事が出来る」印象が強まりますが、長期的に見ると能率は徐々に降下していくでしょう。「仕事が出来る」第一印象ができた以上は職場の期待もあり、仕事の質は簡単に落とせなくなります。そして能率の低下を指摘されないようにと考える場合がある気がします。

「仕事は早いほど良い」と考える場合は有るでしょう。忙しい時期ならもちろんです。ですがその代りに正確さや安全性、丁寧さが損なわれている事も多々あります。遅いなりにちゃんとやれば評価される部分は十分あるのです。何事も豪快に全身全霊を持って精力を注ぎ込めれば問題は無いですが、挫けるとミスに繋がりますし、仕事によっては気を休める間もなく色々としなければならないでしょう。

私は仕事で能力のある人を標準的位置付けとし、そこから能率の悪い人を貶めては労働をたきつける行為自体は労働を要請する側の欺瞞と人をこき使う詭弁だと考えています。若いからと言う理由で力仕事を押し付けられたりするのも一つの詭弁だと思っています。

他者を罰したり、貶めたり、叱る(或いはそれを装う行為)と言う行為にはどのような感情が働くだろうか。年齢や能力的な優位を示す優越、指導している優越、周りに対して自らの働きを正統な行為として誇示する顕示欲、自らの欠点を装い隠して目を他に向けさせたい隠匿性、失敗を他者に擦り付けたい、能力面の差に関連して怒りたい、等でしょうか。実際の数字で検証できませんが純粋に指導したい感情は少数だと考えます。理由としては物事を本当に良くして改善しようと言う意識より利己的で堕落した意識の方が勝ると考えるからです。

福山雅治 缶コーヒーFIREのCMを見たのですが、「誰かを悪く言って、楽をするのはもうやめよう。」。この一言に気持ちを抉られる人は多いのではないでしょうか。私達が人を叱り罰する行為が実は独善的で不純な動機が多いのだと気付かされます。

このような発言を実際にする場合はある程度仕事をこなせなければ意味をなさない事もあるでしょう。場の空気によっては単なる不平不満や怠け者の戯言で片付けられてしまうでしょう。自由を唱えるにはある程度の責任を果たす必要はあるかもしれません。

だからと言って我々個人個人で何かしらの気持ちを抱くのは自然ですし、整理して考えるとおかしな事は沢山ある気がします。例えば分かりやすい色分けが出来る例ですが、政治家達の間で贈収賄が慣行化している“空気”が出来上がっていたとしても、その行いが正当化することは決してないのです。個人では逆らえない空気・・・、それ自体が誤っている事もあるのです。

仕事や必要な時で異なるでしょうが「頑張り過ぎない」を念頭に今年もやっていこうかと思います。自分に性分に向き合った方法で前進していくのが何事も長続きさせるコツだと思っています。

  

  

  

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2008年12月27日 (土)

相対的である事について考えてみる

最近は年末の仕事で忙しいので更新が滞り気味です。

最近は人の痛みを理解する余裕がなくなったのか、他罰傾向を強める人が多いように見受けられる。有名人や議員などの失言や失態などをことさら問題かのようにテレビで取り上げたり、当人のブログなどに怒りや叱責のコメントが殺到したり悪いところばかり強調して批判することがある。

このような人達は何が足りないのだろうか。まず思いつくのが、人の良い所を褒める姿勢、相対的に物を見る姿勢ではないだろうか。

政治家や要職にある人々は立場柄言葉には気を遣う必要はあるだろうが、元々何事も完璧な人もそれほどいないだろう。自分達の身に置き換えてみれば例えば仕事での失敗をしつこく周りの人間にとやかく言われる状況があれば、何でそこまで非難されなければと思うだろう。そして批判する側は大抵は失敗した当事者の立場を理解をするつもりはなく、思い遣る余地も無い。発言の責任も伴わない。あるのは単純な揚げ足取りばかりだ。いちいちこのようなことを取り上げられては次の段階に進むこともままならなくなる。

「相手の失敗を是正する為の正しい行為」と反論する方もあるだろうが、この辺も正しい行為とは言いがたい。立場としては相手を叱ってあげているというわけだ。

叱るという行為が相手にとって為になる事などはそんなには無いだろう。真面目な人か従順な人なら失敗を改め自分の身にするだろうが、怒りばかりぶつけたのでは不満が高まるだけで意味が無い。本当に失敗した相手のことを考えるなら後の成長に繋げる様にするからだ。不器用でも善意で叱っている人もいるのだろうがそれに紛れて叱っている風を装って実はストレスをぶち撒きたいだけの人も多数いるような気がする。

一方で必要とされるのは良い所を褒める人だろう。やはり褒められると嬉しいもので、嘘であっても嬉しい事がある。存在意義を失いかけている人には効果的ではないだろうか。

相対的という言葉が使われることがあるが、相対の対義語は絶対だそうな。絶対と言う言葉の雰囲気には他を寄せ付けないそれ以外にはない無二であるといった印象があります。何か特定の状況に執着しこだわりを持つのは「絶対」という気持ちがあるからでしょう。

対義語の相対となれば逆に特定の執着やこだわりを持たず、幅広い物事を表し、また極端に陥らず平均的な見方を与え、一局面ではなく関係性の中で物事の位置づけを示すといった印象を持ちました。

例えば宗教狂いの人を説得しても無駄なのは信仰の対象を絶対視しているからで、実は他の宗教と比較して霊感商法的側面が強い場合。仕事で個人的に嫌いな相手は能力をあまり評価しないが、職場全体として見れば仕事の能力が劣るわけではない。

要するに特定の感情を占めている為に他の部分で正確な判断能力が損なわれている事は無いだろうか。その理由は一般的イメージ、個人的な感情や規範意識、特定の場の空気などあるんじゃないだろうか。

余計な感覚を排して中立的に考える姿勢を心がければ物事の本質ももっと見えてくるのではないだろうか。

以上何にしてもはっきりとした理由付けがあるわけではないですが、思考方法を変えると気持ちが楽になる事も多いと思います。気持ちが安定しない時それは何かに執着しているからではないでしょうか。

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2008年12月18日 (木)

国籍改正法案を考えてみる。

たかじんの非常事態宣言で河野太郎に電話で国籍改正法案について聞いていました。

河野氏や宮崎氏がいうようにDNAが父母などの認定を分けると言いますが、国籍を与える必要まではないように思います。偽装でないと証明できる信頼や保証がどこにもありません。少なくともDNA鑑定については嘘をつかない最も信頼性の高い判断基準として機能します。親としての扶養実績とDNA調査、身元調査など併せてで審査する事で信頼性は高められるのではないでしょうか。このような点での親権争いについては民事上の問題です。また偽装認定された場合の罰則で「7年以下の懲役、120万円以下の罰金」といっていますが、あくまで併合罪での罰則であって、12月5日に1年以下の懲役と20万円の罰金の規定が新設されました。

韓国のビザ免除について韓国人の犯罪件数ですが全体的の国籍別検挙数は確かに減少しているようです。(平成19年・20年統計)ですが、警察の検挙能力の低下や不作為、組織的犯罪が巧妙化しているケースも十分考えられるのではないでしょうか。

また国別の比率では依然として韓国人は約10%程度の件数(2000~3000件台)はキープしています。以下の画像は上半期です。19年上半期から19年中のデータで件数から見ると大体の数字がこれのほぼ倍になると考えられます。

単純に比較できませんが国籍別犯罪20年上半期を参考に人口を比較すると、中国(世界第1位13億2800万程度)、ブラジル(世界第5位1億9100万程度)、韓国(世界第26位4800万人程度)の人口に比べて格段に犯罪の割合が高いのが分かります。

韓国が犯罪大国であるのは疑いようの無い事実です。韓国人を積極的に招き入れるリスクは高いのは事実です。河野氏の言っている事はごまかしでしかありません。

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また国籍法改正でDNAの調査費を税金で負担しても有効な使い方なのでたいていの国民から文句は出ないでしょう。DNAサンプルを取らせるのも十分果たせるレベルだと思いますし、民法上の問題についてはよく分かりません。でも強引と言うなら裁判員制度は強引じゃないんでしょうか。最高裁の判決であれば何の抵抗も無く受け入れなければならないのでしょうか。

また下記の記事を見ると多くの国ではDNA鑑定が行われているようです。国際的に見ても大きな問題があるとは思えません。日本のほとんどの政治家って一体何の為に活動してるんでしょうか。どこかで良い新党を立ち上げてくれれば積極的にそちらに投票するのですが。

「国籍法改正案」緊急対策会議で語られたこと








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2008年12月16日 (火)

クレヨンしんちゃん 謎のしんこちゃん考察

考えられる候補としては未来のひまわり・異次元から来たひまわり・異次元から来た女のしんのすけ、ドッペルゲンガー、みさえの流産した子など色々な説が考えられます。SF的な可能性など交えて可能な範囲で考えるてみました。

気になる箇所を列挙すると色々あります。
・ひまわりとシロがしん子を以前から知っている様子があり、シロに対して「ひさしぶり」と言っていた。
・ひまわりとしんのすけの習性や癖が類似している。しん子としんのすけは全く同じ駄洒落を使っている。
・野原家について詳しい。
・自己紹介の時に暇な子供と言いなおした。
・うんち状の雲が発生した後に出現し、偶然なのかしんのすけが帰ってくると姿を消す。
・しん子が持っていたおもちゃ
・しん子はみさえ達に積極的に接触している。特にひまわりの世話を熱心に行う。
・しん子がさようならが嫌いと言った際に目を潤ませた。

まず家族でしか知らない情報を多く持っているのでしん子(以下彼女)は身内であるのは確かだと思います。自己紹介の場面で彼女がひまわりとすると別の世界から来たか現在の未来か異次元の未来からきたのだと思います。
性格や言動などを見ると将来ひまわりがしんのすけと同様の性格になる可能性は否定し切れませんが、ひまわりとしんのすけのどちらにも受け取れます。
もし異次元から来たとするならば彼女の存在は無限の可能性を持つ事になります。もしかしたらひまわりが先に生まれて、しんのすけが後から生まれる未来もあったのかもしれません。ただ便宜的に言うならばひまわりと名付けられたしんのすけと言ったところでしょうか。ひまわりの将来が分かれば比較もできるのですが・・・。

彼女が自己紹介の時にひまわりと言いかけましたが、ひまわりの姉(その他立場を表す言い方など)と言う風に言うのは不自然なので、「ひまわり」という可能性はかなり高い気がします。ただし、彼女が現在のひまわりと同じひまわりだと言う確信はありません。

では何のために来たのでしょうか?積極的にみさえの前に現れるので目的としてはただ単に会いに来たか、重要な理由から会いに来たと考えられるのですが。前者はないと考えます。単に会いたいという理由であれば家族に会うことで自らの存在を消してしまうリスクが高すぎます。しんのすけと同じ次元で会ってしまうと一方の存在も消しかねません。

であれば彼女が何か目的を持って行った事は「おもちゃ」にあるような気がしてくるのです。ですが、おもちゃとしては過去を変えられる程重要な物にも見えません。(例えばサッカーボールであれば事故に逢うときクッションになって命が助かるなど)不思議な力が宿っていると考える事もできますが、その後の話でおもちゃを持っているなら理解できますが、無ければ伏線としては無意味です。

そこでみさえの流産説であるとすれば少ししっくり来ます。おもちゃに流産した子供の魂が宿り、(恐らくは)流産したと思われる未来の子供のしん子が魂を入れ替えるためにやってきたとも考えられます。
彼女は恐らくは時間や異次元を移動する事や未来を知る事ができると考えられます。

しかしそう考えても果たして異次元の世界に干渉してまで行う理由があったかどうかを考えるとまた分からなくなります。

とりあえずは私の結論はもしかしたらあったかもしれない別の未来のひまわり(中身はしんのすけ)という事にしておきます。
真面目に考えてもほとんどが明確な理由を証明できないのできりがないですね。

異次元の話のヒントを得たのはNHKで放送されていたイギリス発のコメディー「宇宙船レッドドワーフ号」です。
作品中に主人公達とは別の次元から来た主人公達が来訪する話がありました。(男女入れ替わりの世界・人生の選択で分岐した別の世界・逆行する世界)

この作品はあまり品は良くないのですがギャグやSF的発想などでは大変優れていました。コメディー作品ではフルハウスもお薦めです。
これらの作品につきましてはまた機会があればご紹介させていただこうと思っています。

※1月23日の「また!しんこちゃんだゾ」の記事を追加しました。よろしければこちらもご覧ください。

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2008年12月13日 (土)

山中の廃小屋に敷き詰められたエロ本の怪

「エロ山」4年目の真実

とある山中の廃屋を覗いてみるとおびただしいエロ雑誌やAV、その他現場の至る所に残された当事者が残したと思われる物の数々。

とても道が険しい雰囲気なのですが訪問の度に新しい遺物が残されており、謎は深まるばかり、男がエロ雑誌を処分するとすれば精々そこら辺の野山や人目のつかない所に処分する程度、わざわざこんな面倒くさい事をするのは当事者に何か個人的な理由がでしょうがあるんでしょう。

特に探索された方々が4年間も密着したという執念は凄い。廃墟マニアと言うのも今でこそ結構認知された気がしますが一種の変わり者と言う点では同じなんでしょうね。

まぁちょっと探せば変人なんてどこにでもいると思いますよ。一応私も変人の端くれでもあります。

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2008年12月12日 (金)

物事の価値

自分にとって気分が落ち込む時ほどなにかしら重要な言葉が思い浮かんでくる気がする。やっぱりある程度の緊張感がないと人間って駄目になると思う。

自由や権利と言う言葉で相手を拒絶するのは簡単だけど、始めから何でも自由と権利があったわけじゃないんだろうな~と。中には必死の努力の結果得られた物もあるだろう。それら自由と権利を維持していく為に時に声を上げる義務と責任があるんじゃないだろうか。

水などは蛇口をひねれば簡単に出るが、有難いと思う事は全くと言ってない。何でも当たり前と考えずたまには物事の価値を見直してみてもいいだろう。

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2008年12月11日 (木)

クレヨンしんちゃん 謎のしんこちゃん

クレヨンしんちゃんも長寿番組であるだけに時に変わった内容を放送するようです。

関連した話題ではニコニコ動画でサザエさんの全自動卵割り機やドラえもんの地球破壊爆弾?や綺麗なジャイアンが記憶に新しい。

しんこちゃんが未来のひまわりだと考えていますが、さようならの言葉に反応したしん子ちゃんの様子は彼女の真実が見えたようで気になります。

何かしらの意味を伝えようとして出現したのでしょうか。謎です。coldsweats02

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試しに投稿してみる

初めて作成してみるので勝手がよくわからないものの、たどたどしくも書き込んでみようかなといった具合です。

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