カテゴリー「文化・芸術」の記事

2017年8月17日 (木)

牛乳石鹸のCMについて考えてみる。

昔から馴染みのあるパッケージで牛が青地に配された箱は商品としての上質さと飾らない良さが牛乳石鹸のブランドイメージにはあるのだと思う。
CMにそこまで目くじらを立てる必要はないはずだが、表面的な部分で批判が殺到してしまうのは非常でまじめなな国民性であるが柔軟性と想像力が極端に欠け、本来は各々が見て様々な感情を想起させるのは優れたCMと言えるはずなのだが、残念ながら下衆の勘繰り的になってしまっている。
擁護するにしても、単純に批判するにしても何があるのか考えなければ陳腐化してしまう。
奇を衒えばなんでも有りという事ではないが一工夫「おっやるなぁ」みたいな気持ちを持たせられたら概ね成功と言えるだろう。

個人的には結婚していい旦那として、いい父親として、朝ごみを出して仕事も地味だが後輩に気を配りながらもこなす日々を送る人生というものが見るこちら側に入ってきて。かつての理想の自身の父親像を重ねながら、今の自分とかつのての父親像を比べ、人生は順風と言ってもいいはずだが、日々の中で「自分は理想(かつての父親のような)の人生を送れているだろうか?」という疑問を抱かせるのはある種のリアリティがある。

ゴミ捨てが面倒くさい?妻への不満なのか?

これはまず違うと言っていい。
別にゴミ捨て自体は出勤時であるし仕事としてはなんでもない。父親として誕生日を祝う、妻からそれぐらいは要請されることは今時、安易ではあるが男女平等が言われている状況では良くある話ではある。女性からしたら子どもの為にという理由からハピーハピーなバースデイを送りたいというのが分かるし、「子供の為なら貴方も一肌脱いでよ。子供の為でしょ?」と言わんばかりな感じである。
子どもも普通に喜ぶだろうし、プレゼントを選ぶこと自体は携帯で妻が要求しなくとも選ぶことも全く変でもないし労力ではないが、女性のようなハピハピー感が彼にはない。
「あの頃のおやじとはかけ離れた自分がいる…」という回想シーンが妻のメール(またはLINE的な物)の後に流れるので、
表面的に感情的な女性が見れば「妻からゴミ捨てや誕生日プレゼントを買ってくるのが何が嫌なの?不満なの?」となってしまう感がある。

アゴで使われる日々と理想の父親像との乖離

かつての父親像の疑問は、その前の妻からのゴミ捨てや子供のプレゼント購入を要請する場面に係っているのだと思う。
そこからかつての父親像か「かけ離れた自分がいるという事をいっているようだ。
彼の父親像が相当古くなければ妻がゴミ捨てやプレゼントを買って来てとある種の夫を使役するのは、時代の流れからしたら習慣として普通に受け入れられているはずだ。そこには別に古典的な厳しい亭主関白像による父性とかそういうものを主張したりは感じられないししかたないと考えているがどこか腑に落ちない感じ。
彼なりの人生とか日々の過ごし方が阻害されている部分があり、誕生日とは言え彼の都合はお構いなしだ。
妻からしたら「それぐらいいいじゃない」と言いたいだろうが、アゴで使われる方は子供の誕生日という納得できる理由を使ってたびたび、妻のやりたい事を肩代わりさせられる人生が見て取れる気がする。
それに男女平等とて男としての矜持というかプライド的な性質もゼロではないだろう。繰り返すたびにそのわずかな男としての何かが傷ついていく感覚がある。この生活を毎日の習慣として続けていくであろう事を考えれば徐々に夫としてのプライドと自分らしい生き方が汚されていくようだ。
そこで「このやり方でいいのだろうか?」という漠とした不安を抱くことも理解できない事ではない。

家族思いのパパ。でもそれって正しい事なのか?

彼の父親像というのが、回想シーンの後ろ姿や一人立ち尽くす少年時代、「俺も昔は起こられたけどねー」という場面で想像される。
先に述べたように古臭い亭主関白な父ではないが、少年時代や玄関から出る父親から見るに、働くのに一生懸命で父親と遊べなかった子ども時代が推測される。家族思いのパパというのが彼の父親像と合っていない。かつての父親と逆なら返って悦びそうなものだが比較の上で彼は父親への理想像を少なからず持っているようだ。
具体的な父親像が想像に任されるのではっきりとしないが、父親像は見た各々の視聴した男性たちに委ねられる形になっているのだと思う。
厳しい父親を持った家庭、優しい父親を持った家庭、色々だろうが、それがCMの中で定義づけできないとなると、今と昔の違いをあえて出そうとしたら男女平等時代の夫婦という形に落ち着いてしまったのかもしれない。
すくなくとも彼は良いパパを演じる事に疑問を持ち、多分1度や2度ではないのでこれまでの蓄積による疲労感というものが見て取れる。

飲んで帰ったら、「なんで飲んで帰ってくるかなぁ」

奥さん厳しいです。誕生日だからというのもあるのでしょうが。多分誕生日でなければ「カレー粉買ってきてー」ぐらいの事も言ってるかもしれません。
そうでなくとも些細な要求や叱責とか夫になにか行動や態度を要求する事が恐らく男女の夫婦なら日常的にあるでしょう。
まぁザックリ最後の「さ、洗い流そ」でひとまとめにこれまでの妻への在り方や父親としての在り方への疑問など、言ってみれば負の感情的な色々な物、ギスギスした気持ちなども石鹸みたいに洗い流そうという事なんだと思います。そしてまたゴミ捨ての日々が始まるというエンドレス。
メッセージとしてはちょっと奥さんの態度が目立つ気がします。素人考えでは男性視点の夫婦の日常のギスギスをテーマと仮定したらもう少し、仕事のストレスとか、いい父親を演じる事を疑問に思う出来事がもう少しあればバランスがいいような気がします。

家庭を持ち組織に属して責任感が出てくると会社組織しては変化しようとはするでしょうが、働く個人としては基本は同じことの繰り返しになることもあるのだと思います。朝起きて、ゴミ捨てて、歯磨きをし、規則正しく、アフター5はほどほどに、どれも必要な事だけど時間は有限。振り返って自分らしい生き方ができてるかなぁと言えば、休みの日は家族サービスをこなしつつゴロゴロして何もしたくない事があったり。
就職のために諦めた夢の事を考えてはくすぶったり、失敗を後悔する日々を過ごしたりするのかもしれません。それでも大人として社会人として父親として歩みだしたら退くこともできない事もあるでしょう。

退くことができないけど、歩きながら気持ちを新たに進んで行く事ならできるはず。
心も体もキレイに洗ってあげて健やかな毎日を過ごしましょう。

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2015年11月11日 (水)

怒り新党に疑問。シチューかけご飯について考える

「有吉マツコの怒り新党」にてシチューにご飯をかける事に対して、肯定的・否定的な意見がとりあげたサイトの各所で寄せられた。そのご11月中にドリアが出た会でまたシチューの話題がでる。まだちょっと思うところがあってまた焚き付けられた感じだが、一般人もまだモヤモヤ感が残っているのではないだろうか。
決着をつける必要はないし答えはないが、強硬に許せないという意見には目を丸くするばかりである。

ビーフシチューならスープっぽい仕上がりだしごはんと合わないというのはわかる気がするがクリームシチューやホワイトシチューを理解できないだけでなく許せないというのは分からない。

日本人はご飯と一緒に食べる食文化がたくさんある。

日本にはご飯に合う食べ物が沢山ある。それが許すか許さないといっていること自体が偏狭というほかないあ。食文化というのは豊かな下地や正当な系譜において確立するものばかりではない。
庶民向けにはおいしいご飯と何かと食べ合わせレベルのものも多いかもしれないが支持されている食べ方があったり、一部の職業(漁師や飲食店)に限られた漁師飯やまかない飯などにも独自のご飯が存在しているのではないだろうか。

豊かな食文化を許容する土壌にある日本人がそういったことを考えると許さないだけでなく人に非ずという感覚は異常極まりない。冗談や大げさで「許さん」と言っているとしても笑えない。
ある種のISISなどの宗教とか原理主義者と同じである。

汁物と食べる米食

シチューにご飯をかけないまでも、日本には汁物とご飯を食べる食文化がある。まず断っておくが料理として確立されていない正統派ではない、下品であるという言い分はおよそ個人的な感情が入っているものなので庶民の食文化という観点から排除しないこととする。

例えば「お粥」。味はあっさりした塩味で多少の菜っ葉か梅干しを具にするぐらいの淡白な食べ物である。

お鍋の汁が残った場合は「雑炊・おじや」(以後雑炊と表記)にする。これも鍋という観点からして淡泊な食べ物である。これにご飯を足すことで飯(めし)が水分を吸って粘度を増すので食感はシャバシャバていない。具とだし汁に卵を入れるとシメの食べ物にもかかわらずあっさりしているのに食べ応えがある食べ物に変化する。ご飯ものでガッツリ食べる系の人は雑炊こそがメインディッシュではなかろうか。
「お茶漬け」も汁物と食べる米食といえるが、これもあっさりしている方だろう。

品がないがご飯に味噌汁をかける「ねこまんま」(正式な名称は知らない)もある。ごはんに対して味噌汁のだしと具がよく合う。直接かけないまでも、ご飯を口に含ませて食べた後に汁で流し込む食べ方をする人も根本的にはねこまんま的な食べ方を表向きはマナーとして拒絶しても、潜在的には許容しているともいえる。違和感がないのはやはりごはんと味噌汁は食べ合わせがいい食べ物と言えるからだろう。
だしの味がおいしいもそうだがジャガイモ、玉ねぎ、ねぎ、油揚げ、豆腐、と豊富な具を口にほおばる多幸感は、具だくさんの雑炊やシチューかけごはんと通じるものがある。焼き肉とご飯を食べる多幸感もおなじようなものだろう。

そういった汁物による米食を考えてみると、お粥などは控えめすぎるが
味が淡泊で多少粘土のある洋風の雑炊・おじやという位置づけになるのではないだろうか。

ソースと食べる米食

ここでは、汁以上に粘度のあるソースにかけて食べる米食について考える。
代表的な食べ物として「カレー」がある。旨味と辛さのバランスがよく、粘りのあるルーがご飯によく絡みおいしさが引き出されている。どんな具を入れても外れることがなく、チーズを入れたり、カツカレーにしたり、自由。基本の味覚として甘さと辛さに頼りがちなので味の繊細さは豊かではない。具材のバリエーションは何にでも合うが、悪く言えば何もかもカレー味になるなので素材の旨味を活かすのは十分ではない。大味な食べ物ではあるが国民食として誰でも作りやすく食べやすく、具によって様々な多幸感を演出することができるのが強みだろう。
最近出てきたタイカレーなどは汁物の分類にしたかったが味はしっかり辛さのパンチも利いている。

これもよく似ているが「ハヤシライス」がある。一般的に甘味が強い感じだがドミグラスソースとかワインとか使ってきちんと作ると洋食っぽさが出てコクや深みも演出できる潜在力がある。
個人的に作ることはないがチーズとか乳製品を炒める「リゾット」という食べ物もある。

「ドリア」もご飯がよく合う食べ物である。表面のチーズがおいしい、良く熱を通したパリパリになった表面を食べるのはおいしさ以上の喜びがある。エビやミートソースを入れたりイタリアン風に仕立てるものもあれば、シチューのようなグラタンなどあるが、具だくさんの多幸感が素晴らしい。

今回、有吉マツコの番組では両社ともドリアに対しての愛着がない感じだった。考えてみるとドリアとシチューをご飯にかける行為は焼いたのと鍋で煮込んだものと違うが、内容はほとんど変わらない
あまったシチューを耐熱皿でご飯を入れて焼いたら「これドリアじゃね?」と思うことはよくある。

ドリアとシチュー(厳密にはクリームシチュー)の違いについては「シチュー グラタン 違い」で検索してみると、「調理法が違い」、「グラタンは焦げ目という意味なので焼けばグラタンです」というのもあれば、真面目に答えている方は「ベシャメルソースから作るときに白ワインを入れてアルコールを飛ばせばグラタンになります」という回答がみられた。
アルコールを飛ばすのはよくある手法だし、なるほど納得という気がする。お酒の旨味とかコクが添加されるのだろう。まぁでもホワイトシチュー自体はすぐにグラタンに早変わりできる点を見ると結局は味覚的にはほぼ大差がないのが実態のようだ。市販のグラタンもシチューもホワイトソースを謳っていることが多いのでソースの差もないだろう。

つまりクリームシチューをご飯にかける行為を否定することはドリアを否定する事とほぼ同義なのだ。

その他の米食

どんぶり物としての米食はもちろんのこと、おかずとして食べる米食など沢山あるが、炭水化物レベルで考えると、味の濃淡は問わないし形態の違いだけだと気づくはずだ。
炭水化物あっての食べ物。世界の食は炭水化物で回っているのではないか。
主食を炭水化物とするとそこにあらゆる食べ方や味付け、料理ができるのは当然の結果といえる。

そういえば社会科の時間にならったキャッサバ、タロイモとか芋で炭水化物だし。アラン島などは土壌が悪い中で石垣を築いて作っていたのがジャガイモである。

「日本のお米」は「西欧のパン」?

日本人であればご飯があるが、海外ではご飯の代わりにパンを食べていてそういった文化があるのではと漠然と思うことがあった。パンをシチューにつけて食べるような古いイメージが浮かび上がった。
マナーでもフランス式、イギリス式、など色々あるようで、パンくず落としてもいいとか、スープにつけるのはダメとか、ソースをつけるのは料理人に敬意を払う意味でOKとかいろいろ細かい。

日本のお米料理はどんぶり飯とかがつがつ食べるようなものも多いが、海外だとがっつかない引いた食べ方をしているのかもしれない。お米がない地域は日本の米食のようにパンを使った料理が豊富にあったりするのかもしれない。この辺の比較は想像の域を出ない。

結論:ごはん(もとい炭水化物)は何にでも合う。

基本的においしいと思うものをおいしく食べればいいのだ。伝統を汚されない限りは海外の人がラーメンの汁に麺以外のものをつけて食べてもいいし、醤油を何にかけてもいい。
誰かが言っていたが「食べるということは救われてないといけない。」

ことシチューをかけるかけない程度のことで正当性を主張することは何もない。
正統な系譜に従って築き上げられた日本料理などを汚しているインチキ日本料理を出しているとかなら許してはならないが、普段の有吉マツコなら広い間口でいろんな話題も無難にこなしているが、正直今回の有吉とマツコはコメントはレベルが低かった。

今回のシチューご飯については少しがっかりした出来事だった。

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2015年1月17日 (土)

カエルは大海を知らないのか? ことわざ『井の中の蛙―』を考える

いわずもがな現在でも見識が狭い人に対してつかわれることわざである。
しかしなが「『井の中の蛙』は本当に見識が狭いのだろうか?」という疑問がかねてよりあったのでその部分に対して個人的な解釈を考えてみようと思う。

『井の中の蛙』は本当に見識が狭いのか?

広い世界を知っていた方がいろんな知識や世界が広がっている。アクティブな活動もしやすいだろうその考え方が悪いという疑問は一見ないように見える。
しかし、それが絶対的な『善』であると論じるのは間違っていると思う。
間違ってはいないがこのことわざはどちらかと言えば物事を論理的に考えない人ほど使いたがる側面から一部で意図的な詭弁(論理を捻じ曲げて正当化する論)が行われているのが問題である。
執筆しながら「『井の中の蛙』というのは専門性を追求した人との敬意とか過程が含まれていないばかりか、ひいては井の中の蛙で成功した人をも切り捨てる暴論ではないか。」という思いに至った。

後に続く『されど―』

ざっとGoogleで検索するだけでもいくつものパターンが散見され造語として考えたようで、日本側でされど―の文章が後付けされたという事らしい。
・されど空の青さを知る
・されど空の高さを知る
・されど空の深さを知る
何が主な造語の由来になっているかは調べることができないが説得力を持つ内容である。ある人によっては「負け惜しみ」という言葉で否定的に言われている場合があったが違うと思う。(そもそも何に対しての勝ち負けというきもするが)
大海に出ても大きな物を得る人は得るし、井戸の中の蛙でも大きな物を得る人は得ると思うからだ。それを分けるのは結局は人間力だ。

大海を知る事は良いことなのか?

確かにいろいろな目新しい情報や異なる慣習や文化、考え方に触れられるし比較検討する物が多いので大海に出た方がいろいろな選択肢が増えて大きな世界が広がっているように思える。しかし個人が生きる上で把握できる世界というのは限られる。豊かさのなかにあっても個人の中で認知されるはんいでしか世界は広がらないのだ。人間の質によっては文化的業績を高めることもあるだろうが愚か者であれば大海の良さを理解できずに果てるだけだ。

視覚的には異なるものに触れて大きな何かを知ったような気分になるが本質的な精髄をも理解まではもっと突っ込んで考えないと理解することはできない。
大海に出たからとて広く浅く知ることなどはほとんど意味をなさない。では逆に広く深くとなると人間の処理能力の問題でかえって情報過多で埋没してしまう。

実際のところはすでに情報過多の時代で情報に追いつけない人がでて情報格差が生まれているし、ある年代で常識とされていた知識や事柄、倫理、事象等々が若い世代から欠落し始めている気がしている。別にひがみ的にいう気はないが、これを若い世代の台頭というには怠惰さと単なる惰性に溢れすぎている。またこの怠惰と惰性を変に美化しようとする世代が出始めたことに危惧を覚えている。
一部若者の動きに関しては現象的には大海に出たはいいが溺れてしまった上に突然変異で有毒物質に変化してしまったといっていい。^^;
ネットがない時代であれば常識や流行、知識もある程度は収束して一元化されていた。いい意味でも悪い意味でも非常識とされる行為は自重するような空気が存在していた。だが今は情報過多の時代で共通知が失われてしまった。

例えば『恥』、『謙虚』、『努力』などそういった感覚が一部でかけている事が見られることが多くなったのだが、誰かが作った文化的な土台や文物に対して敬意を払うことなく、良い部分をおよそエッセンス的に上澄みを掠め取り(学習と言えなくもないが少し違う)まるで自身の手柄のようにふるまっている行為が散見される。
若者が主導しているインターネットサービスの多くは馴れ合いによって成り立っている。楽しい感情を共有したり褒め合ったり仲間外れにならないように振る舞っている。「楽しけりゃいいじゃん」的な軽さもさることながら、その為なら「ルールとかやり方が間違っていても関係ねぇ」的ないい加減さも伝わってくる。
目立つ事をすれば大胆で破天荒でカッコいい的なノリはツイッターのバイトテロでもよく見られている。

執筆中に思った事だが成人してしまえば我々はすでに大海に出ている。その中で社会的に好ましい人物が形成されているわけではない事を鑑みると大海に出る事はいい事ばかりではないという事だ。
大海で新しい情報が生まれそれを適切に取捨選択できないだけでなく人格形成にまで影響を及ぼしているとしたらネットが発達した情報社会というのは罪深いものではないだろうか。

現代においての『井の中の蛙』から見ることわざの存在意義

先に述べたように無知な人ほどこのことわざは使いたがる傾向がある。というのもこの手の定型句に飛びつく人が必ず存在していておよそファッション感覚で使いたいだけで中身は深く考えようとはしない。多少なりとも論理的に物事の本質を考えたいと思った人であれば、『井の中の蛙―』という言い回しはもったいぶり過ぎて言うのも恥ずかしい。
定型句は非常に使いやすく一定の説得力を持っている事がほとんどだ。とはいえ耳触りがいいだけで中立的とか良い視点が欠けている事もある。
この言葉を使いたがる人は人間関係で上から物を言って上下を作りたがる人で、人を傷つけるにはそれなりに影響のある言葉で使った時点で対人関係で無配慮な人格が見て取れ、当然ながら相手が本当に『井の中の蛙』なのか判断する気などさらさらないのが分かる。ありきたりな『井の中の蛙』という意味以上に解釈を発展させる気もない。上記のことからも他人に言われるのではなく自嘲気味に言うのが適切な言葉である。

またことわざというのが昔以上に形骸化していて、四字熟語的なものはともかく長文ほど使えるシーンは少ない。
初歩的であることわざ、大袈裟で無配慮、なことから使う機会は少ないと思われる。
年齢的な部分でことわざを有り難がっていた年代の人で中高年以上が条件的にも使いたがる年代だろう。
こういう事を書いておいてなんだが『思考の整理学』というロングセラー書籍を出した外山滋比古さんの著書の『わが子に伝える「絶対語感」練習帳』でことわざの良さについても書かれているので興味があれば読んでみてもいいかもしれない。

井の中にありながら宇宙を見る人々

では井の中にあり続けた人は大海を知らないのだろうか?いやそうではない。
けして広くはないが一つの物事を続けることで狭いながらもその中において大海どころか宇宙の高みにすら達した人がたくさんいるではないだろうか?
言い換えればそれは専門を極めるという事であり成功した人はプロフェッショナルとして社会的な敬意が与えられる。
それこそ愚直なまでにやり抜いたからこその成果であり、ことわざでいえば『雨だれ石を穿つ』と言えるのではないか。

日本には現在でも職人として何十年も井戸ほど狭いとは言わないがある種の職人的世界を維持形成し続けている人々がいる。
以前テレビで見た安芸太田町の鍛冶屋宮島のしゃもじ職人などもそうだし、ほかにも和菓子職人や豆腐職人など沢山職人がいるが
言ってみればその世界において“宇宙”を見出したから職人と呼ばれるようになったのだろう。

ちょっと前に漫画『ヒカルの碁』などで囲碁ブームが起こった。この漫画の中で囲碁を宇宙と比喩する場面があった。囲碁を宇宙と形容する慣習というか囲碁人(?)の共通認識としてあるのかはわからないが、検索で出てくる囲碁サロンさいたま新都心様なども宇宙としている。碁盤の目に白黒の碁石を乗せる単純な構造ではあるが囲碁をやっている人の頭の中ではおそらく何通りもの戦術を試行錯誤が行われているのだろうから宇宙と言って過言ではないのだろう。

格闘ゲームにも似た部分が感じられる。私にはストリートファイター4を仕事から帰ったらずっと続けている知人がいるのだが上に上がる為に毎日練習を繰り返している。skypeで会話をしているときなどはいつもジョイスティックの音が聞こえているが努力するのが当たり前。その上で更なる上積みを重ねる必要があるらしい。東京に行ったときには一度だけウメハラを倒せたらしい。

どこそこの大学教授なんていう人々もある意味で井の中にあり続けたからこそだろう。私の在学中の恩師は山口県の歴史に関する書籍など出されているがこれも山口県の歴史を続けてきたからと言えるのだろう。

またこれもテレビからの浅い記憶からだが熊谷守一という画家も言わば井の中で宇宙を持ち続けたといった人らしい。参考文章を見ると30年間も庭の草木や昆虫などの生き物を観察して絵に描き続けたという事だ。

区別されるべき『井の中の蛙』

いわれてもしかたがない『井の中の蛙』というのもある。
10代とかでまだかわいいのであればあれば許せる場合もあるだろうが、多くは目立たなければ問題ないが余りに自分の考えや行為が見えずに排他的で傲慢すぎる場合は仕方ない部分はある。
でも実際のところは相手の考えている部分を理解しないとわからないだろう。言いたい人も言われる人も物事を理解しようとする努力は欠かせない。

子供のころは無知だから問題はない。大人の蛙の中でも物作りや研究的な人でも害にならないし問題はない。
おそらく問題は他人に侮られないよう虚勢とか強がりを拗らせている可能性が高い人々だろう。
自身の無力感とか他者に対して弱みを見せないようにしたりとか、あるいは本当に愚かなケースが想定される。

虚勢・強がりであれば心に余裕を持つように促すことだろう。直接言うのはカドが立つので避けた方がいい。
自分が大人になってそれなりに話を合わせてやんわりと理解してもらうのが近道だろう。
こちらに余裕があればしっかりと受け止めてみるのもいいかもしれない。

私は意図的に井の中の蛙になるのも悪くないと思っている。
普段は気にしない事でも生活の細部の変化に喜びを見出したりすることで小さな事かもしれないが日々の生活がちょっとだけ明るくなるかもしれない。

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2014年6月14日 (土)

『アナと雪の女王』レリゴー現象 MAY J.と松たか子の違いを考える

Yahoo!ニュースにて『『アナ雪』メガヒットのMay J. 手帳に「仮・紅白」と記入済み!(シネマトゥデイ)』の記事でイナゴの動向を見ていると
MAY J.が「紅白に出たい」という旨にかこつけて松たか子推しとMAY J.叩きが起こっていた。

6月14日の正午時点で「松たか子のほうが紅白にふさわしい」というコメントではいいね17500、悪いね860が付けられている。
そもそも松とMAYの優劣を決めるわけでもないので論点がずれているうえに、紅白に出たい発言に対してレリゴー松たか子信者が敵視して噛みついている異常事態。一方を立てたいが為に一方を貶める愚かな合戦の惨状となっている。いかにもヤフコメらしい日常風景である。

この場では論理性よりは感情論が優先されて、Yahoo!がポータルサイトというのが論理性の低い一般人が多数が感情的なコメントを寄せ、それを煽る挑発する連中が加わって荒廃を極めている。アクセス数は流石だが一般論よりはかけ離れていると考える事が前提にある。
それにしてもこの状況は異常である。

しかし、どちらも魅力的ながら松たか子とMAY J.の人気の差がある点については認められるが、公平中立性がかなり欠けている。
音楽性が評価されているわけではなく好き嫌いが優先されている点、そして双方歌うスタンスの違いに目を向けていないからではないだろうか?
それらについて少し掘り下げてみようと思う。

『Let It Go』 松たか子とMAY J.の良さ


松たか子の場合は声優としてキャラクターを意識した歌い方で感情移入がしやすい。松たか子らしい儚い声色ながらもありのままの姿で力強く歩みだす解放感、たどたどしい歌い方は危なげながら勇気ある一歩を踏み出したといった印象だ。松の声の個人的な印象は10代の少年のようなちょっとだけ男の子っぽいあどけなさとかたどたどしさという思いがあるのだが、『たどたどしさ』という点においていい仕事をしているのではないだろうか。
歌唱力という点を論じるのはナンセンスだが上手くは聞こえない。松たか子ならもっとうまく歌えた筈だ。
でもこれは劇中のエルサとして歌っているからこれはこれでいいのだ。

MAY Jの場合はエンディングを締めくくるのにふさわしい熱唱が素晴らしい。力強い歌声は作中のエルサのレリゴーからの不安定感がなくなり心身ともに女王としての成長を遂げたエルサや明るい未来を感じさせる。引いては物語の連続性を感じさせ、観る側に気持ちには思い思いのエルサの元に発展していく王国の姿を見ることができたのだろう。

スタンスによる違い

そもそも比較すること自体が間違っていてレリゴーでも『役者』と『歌手』として歌うかが異なっているのだ。声優として松たか子、エンディングを締めくくる歌手としての歌っているという違いがある。どちらにも求められる部分も違っていて単純な良し悪しでは測れない所があるのだ。
松たか子のほうが人気が出るのは当然で、松たか子本来の人気と女性や子供たちの感情を重ね合わせるには申し分ない曲と役柄を与えられている。MAY J.の方は作中に感情移入できる部分はなく、歌手としての役割のみで存在している。同じ曲を歌っている以上比較したがるのが人情というものだが決まって両者の好き嫌いレベルに終始しているのは、テレビ露出の多いMAYが一部女性を中心とした視聴者層に悪感情を与えてしまたからだろう。

というのもディズニーの女性子供の人気の高さ、エルサが女性の気持ちを代弁するキャラという事もありメイン客層は女性という事、好き嫌い論争には女性特有の感情的な部分、歌の質を重視しない点、好き嫌い=優劣かのような低いレベルで終始している点、などから女性が多いと考えている。

好き嫌い論争については最低でも好き嫌いは許容されるが一方を叩いて貶めるのは観る側の未熟なエゴであり、ディズニーという夢の世界の話では憎しみ合戦は相応しくない。 私もディズニーランドに行った事があるが夢の住人になりきっている人々が男女問わず沢山いた。何時間もの行列にもかかわらずみな楽しそうでディズニーとは日本人の心のオアシスという想いを強くした事があった。
本質とは程遠い感情的な対立は映画を観てなお一方を叩こうとする観客は一体映画から何を学び取ったというのだろうか? 好き嫌いの感情的な二極論には全く意味がない。

イメージの違いにより一方が悪くみられる点があるようだが、例えばMAY J.はバラエティー番組でカラオケのイメージがあるが多くの人々を魅了する歌唱力があるのは聞いて感じ取れると思う。「カラオケ」と聞くと低俗だが対決する場面は実力を尽くす真剣勝負を演じている。「歌は優劣とか点数ではない」というならば松とMAYに優劣をつけること自体がナンセンスという事も気付く筈だ。

カバー曲が多いという点についてだが、確かに私がGW中に広島のフラワーフェスティバルに来た観客の中にも実際に女性から「自分の歌がない」という声を耳にしている。私ももう一つ実績が物足りないとは思っているので自分のカラーが出せる楽曲を出したら良いとは思っている。
Youtubeなどでは彼女の過去の楽曲を聞いてみると実力は十分に窺い知ることができる。歌詞を書いたりするのが難しければ良い作詩作曲家などから楽曲提供をしてもらうのも珍しくはないので良い人と組む事ができたら良い。
流行やアニメ向けに手堅くいくなら前山田健一や菅野よう子、梶浦由紀、泣ける歌詞なら瀬尾一三(中島みゆきの人とか最近のももクロ)、サイバーな楽曲であれば小室哲哉や浅倉大介とか。

音楽の世界は上手ければ活躍できるというものでもない。昔は時間を問わずあらゆるアーティストを紹介するテレビ番組が無数にあって色々な音楽に触れる機会はたくさんあり、ミリオンセラーがランキング番組を賑わせていた。今はそういった音楽番組も少なくなり、その上インターネットやスマホなど趣味が細分化し音楽ばかりもてはやされる時代ではなくなった。自分の持ち歌というものを一般に認知してもらう機会は極端に少なくなっている。

しかしながら趣味やメディアの多様化の中でも例えば音楽業界の大御所でもNHKの音楽でも広く知られている冨田勲が初音ミクを使った演奏会を行ったり、ニコニコ動画を利用してGACKT、西川貴教、小林幸子、ロンブーの田村淳(一応JealKBがあるので)、その他のアーティストなどがニコ生を利用したプロモーション活動が盛んに行ったり活動の場を開拓し始めている。

『アナと雪の女王』ではとても良い仕事をしたと思っている。彼女の歌唱力は素晴らしいものがある。
歌手としては『カラオケのMAY J.』とか『カバーのMAY J.』と呼ばれるのは歌手としては十分とは言えないし、所詮バラエティー番組では努力を重ねても質が悪い評価癖のある視聴者ばかりでは正当に評価されることはない。

MAY J.は歌手以外でも音楽番組のJ-MELOにて日本の音楽を英語で海外に伝えるなど、彼女なりのアプローチの仕方ができる可能性がある。
今後の活躍は未知数ではあるが、潜在能力の高さを感じさせる歌手ではないだろうか。

■2014年5月4日 フラワーフェスティバルにて
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2013年9月19日 (木)

アニメ 『ベン・トー』 視聴後の感想

去年アキバに行った折、特に好きでもないのにキャラ萌えで買ったフィギュアを購入した。
一度はアニメぐらい目を通しておこうと思いレンタルで見てみる。

その時購入したのが以下のフィギュア。 キャラクターが好みであったのと、ポーズが艶めかしくスカートの曲線なども色っぽい。普段は活発そうなキャラなのに顔を紅潮させているのも妄想を掻き立てる。
購入後知ったことだがセーラー服を脱がせられ一つで2度おいしい仕様。はがす際に接着剤が強すぎて塗装が少し剥がれてしまう仕様だがプライズ品なので価格的にも1000円以内で購入可能で良いものだと思う。


作品名は『ベン・トー』 という半額弁当を求め死闘を繰り広げる狼たちの物語。

まず良い点として作品のつかみは面白かった。
半額品を求めるという極めて生活感あふれる部分から共感を得て、スーパーの内装の再現度がいちいち高く日常的なスーパーの雰囲気がよく出ている。
私の近くスーパーでも総菜コーナー周辺で半額シールを張るのを見るや多くの人だかりができ、半額弁当に群がる人々を目にする。滑稽とまでは思わないが半額品を狙うハンターは現実にも間違いなく存在しているが、これを武力闘争にまで発展させたのがこの作品だ。
半額品を狙う狼たちにも二つ名を持つものが多数存在し、(「氷結の魔女」、「ウィザード」など)狼たちに一目置かれている。

ストーリー

ストーリー的には半額弁当の魅力に強く共感を得た。きちんと料理としてパッケージ化された弁当。価格もさることながら素晴らしく美味しい。この作品では高級なスーパーに置かれているものが多かったが高級スーパーの上質な弁当は一層おいしく感じられる。それぐらい半額弁当は素晴らしい。
すべては半額弁当の為であり非常識な展開が繰り返され突き抜けた面白さがあるといえるかもしれない。

しかしながらたかが半額弁当ごときで店内でバトルを繰り広げ、勢力争いや方方のスーパーを捜し歩くというのは作品の目標が低すぎてどんなシリアスな戦闘やシーンを重ねても「でも結局は半額弁当の為」という事で深みがなくなってしまう。動機が『半額弁当』にすべて集約されているのでどうもシリアスシーンでも何もかも薄っぺらく感じてしまう。キザなセリフも締まらない。
半額弁当がなければ作品は多くを占めるバトルシーンとサービス的に入れらた萌え以外はほぼ見るべき点がない。
半額弁当を至高の存在に仕立てたはいいが半額弁当の素晴らしさや異常に執着するについての説得力に欠ける。
アニメ的に美味しそうな質感は表現できてもグルメ漫画程に掘り下げる事は難しかったのではないだろうか。
ギャグ的にも萌え的にもパンチがもう少し欲しい気はした。

作画

全体的に破綻もなくアクションシーンは躍動感があって素晴らしい。OPもなかなかカッコいい。サービスの萌えシーンでもいい仕事をしていると思う。弁当を食べるシーンにも作画は素朴においしそうには見える。
特に筋肉BL小説書きの白粉(おしろい)と白梅(しらうめ)との百合シーンはこの作品でもっとも見所があるシーンだ。他にも白粉が弄られるシーンも悪くない。

キャラクター描写

掘り下げができているキャラとそうでないキャラの差がある。
見せ場的には白粉が一番面白かった。主人公と何かと行動する機会が一番多くにBL展開を妄想したり、白梅(しらうめ)との絡みも用意されている。立場的にはメインヒロインっぽい槍水(やりみず)は主人公とは先輩後輩の関係で会話に距離が感じられる。クールなキャラを崩す萌える展開も少なくあまり面白くない。
全体的に露骨すぎない程度には他の女の子たちとの密着シーンや恋愛に発展しそうなシーンを盛り込んでほしかった。

主人公はホモ受けがいい(ショタ?)描写が多く、なにかと裸にされたり、警備員に乾電池を尻に入れられそうになったり、女装など個人的には少し萌えたが、すぐ下ネタにはしる売れない芸人のようにも見えた。

狼たちが店内で集団で殴り合う場面はシュール。棚に乗ったり割りばしやカゴまで利用して非常識極まりない。
(ツイッターでバイト店員の不衛生画像投稿を思い出す。)
無難に半額弁当を獲得するだけでは満足せず勝ち取ることに意義を見出している。 半額弁当はいいものだが彼らの行動には全く理解ができない。

まとめ

なぜ半額弁当にこれほどの情熱を注げるのかは全く理解できないし、突き抜けてる割には面白さに直結していない気がする。その点を無視すればアクションシーンや萌えシーンなども作画は良いし、店内の様子など凝ってるので見どころはそこそこある。 音楽もアクションシーンに合って悪くないです。

あと半額弁当に対しての低価格ながら素朴な美味しさというのは伝わってくる。今川泰宏監督の『ミスター味っ子』のような派手な表現はないが地味ながら弁当を食べ進める様子はさながら貧しいながらも半額弁当に喜びを見出す人々のリアルな感覚を覚える。 (私自身も半額弁当をよく買う)
『孤独のグルメ』の名台詞の「モノを食べるときはね―独りで静かで豊かで」(横棒は省略)にもどこか通じるのではないだろうか。

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2012年11月10日 (土)

ドラマ『悪夢ちゃん』についての雑感(4話まで視聴)

最近面白そうなドラマをやっている。『悪夢ちゃん』というドラマだ。 普段はドラマなど見ないもののGACKTが出るというので見始めた。
そもそものタイトルの響きからして魅力を感じないと思っていたし、1話目を見た印象では演出はCGや人形を使って安っぽい特撮を彷彿とさせ、役者の芝居にも独特の不自然さに違和感を感じたりもした。 髪が前髪の半分が白髪の女の子、創作作品からそのまま実写化させたかのような博士、GACKTの夢王子役も風貌など改めれば耽美な王子役も可能だろうが少々微妙に見えるし(パーマももっさり、少々太いようにも見えたが彼は筋トレの鬼で武闘派なので太いのだと考えてこの際まぁ良いとする)一言で言えば、「作り物感」が多いという事ではないだろうか。

しかし、回を重ねるにつれてそれは誤解ではないかという思いが湧いてきた。期待値が低かった分もあって主役の北川景子の演技と今後が何とも面白くなりそうだからだろうか。外面のいいサイコパス先生のメッキが剥げて次第に言葉が重たく響くセリフが多くなった気がする。(私は北川のセリフでちょっと泣いてしまった。)北川サイコパス先生がGACKT教授の雰囲気をフィギュアっぽいっといったのも作り物感という気持ちを強めた。夢をテーマにしている分作り物感があった方が視聴者を奇妙な物語に引き込む演出装置としてなら悪くない気もする。このような違和感は独特の空気を出す為の演出を考えての事ではないだろうか。それとやはりGACKTが出ると他の役者にないオーラがあって空気が違う。演技がうまい役者は他にたくさんいるだろうが独特の空気を出せるのは多くないだろう。演技も結構こなれている感じで良いと私は思っています。

脚本や音楽も経験豊富な方が担当されているようだし今後に期待したい。(脚本は大森寿美男、音楽は横山克、原作は恩田陸、大森さんは大河の風林火山などでGACKTと関わりが多いみたいです。)
北川さんの言った空気を読んで笑うような大人にならないようにしていきたいと思います。

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2011年8月30日 (火)

終わりから始まる『あの日見た花の名前を僕はまだ知らない。』

子供時代のノスタルジー好きで、これから新しい気持ちで再出発をしたいと思っている方はお薦めです。ZONEの曲もひと夏の青春を思い出させます。
めんまなかなか面白いです。(^^)

 

一言でいえば「終わりの始まり」のお話

この話は一言でいえば「終わりの始まり」(終わりから始まるという意味で)といった印象を受けた。
終わりから何かが始まるという感覚は作中の輪廻に触れている部分と一致している。

めんま(本間芽衣子)の死をきっかけにかつてその子と仲の良かった子供たちは気持ちに心に枷を課してしまった。
子供たちは成長してそれぞれの道を進んでいるかのように見えたが心の葛藤は続いており、生活に綻びが生じたまま日々を過ごしていた。
最後に芽衣子に対しての思いが満たされることでそれぞれが自分の人生を前進させるきっかけとなる。
成仏したのは芽衣子だけではなく、彼らの悶々とした気持ちも成仏させてしまったようだ。

 

子供時代を思い出させる作品

「昔はあんなに仲間たちと楽しく過ごしたのに」という気持ちが去来する作品。
あるいは子供時代を彼らのような連中と過ごす事が出来なかったと思う人は幻想めいた楽しさを夢想させるような作品だなーと思う。

特に小さい子供時代は世間的な窮屈さや学校や一般生活での挫折経験もない。
恐らくは子供たちの中で進学する段階になって自分の人生と他者の人生が別物である意識が明確に出る頃ではないだろうか。

子供の時の猶予期間が終わり仲の良い友達とも進路も別になるとまるで気持ちまで離れ離れになってしまったかのようになる。
それは現実的な学力の差によって学校が決まる事であったり(つることゆきあつ)、交友関係の変化(あなる)、価値観の多様化(やどみとゆきあつ)や引っ越しで遠方に行ってしまう(ぽっぽ)事などがあるだろう。
誰しもそうやって何度も別れと出会いを繰り返していく事だろう。

 

周りを取り巻く世間

主人公のじんたんは底辺高校に通う事になり(学力はあったようだが)、ひきこもり生活をしている。近所のおばさんや中学の同級生の視線が気になり、ゆきあつに馬鹿にされる。
あなるはPTAにラブホテルに行ったのを目撃され学校に連絡されてしまい。クラスではその話題で持ちきりに、あなるはある事ない事を陰口を言われ苦しめられる。

このように世間の窮屈さを実感させる場面がいくつかある。他の要素として細かい気持ちの機微などがあって、絵の表現も写実的な方で破綻も少ない、話も無理がない感じで感情移入がしやすかった気がする。

 

話の核となる芽衣子

この作品はすべては芽衣子が核になる事で成り立っている。恋の相手として嫉妬する対象であり、失恋、トラウマ、無気力を抱えるキッカケとなっている。その為には芽衣子が魅力的なキャラクターであり続ける必要があるだろう。

1話などから見返してみるとコロコロ表情が変わる。主人公とのやり取りも面白い。人懐っこく激しくくっついたり抱きつき攻撃をするのも小動物みたいで可愛い。全編純真無垢な存在として描かれるが意外と不自然さが少なく感じる。声優さんも上手かったと思う。

これはまた女性の視点から見ると見方が変わってくるかもしれない。


少し気になった場面

芽衣子が存在が発覚したのが11話中8話の終盤で意外と遅かった。説明をしようと思えばできただろうが、登場人物が存在しない物として取り扱った方が複雑な人間関係を描きやすかったに違いなく、旧交を温める時間をあまり与えない方が最終回は効果的なのだろう。

終盤も急な感じがあった。女同士のエゴの指摘合戦が始まり、ぽっぽの自白が始まる。
海外の反応ではぽっぽの扱いがひどいそうで、確かにぽっぽは成仏するために協力を惜しまなかったが情に熱い人柄とかぶり、こころの葛藤は多くはなかった。そして実は気楽に見えて最もショッキングな場面に遭遇した人だ。
笑い要素も強すぎてしまったようだ。

 

最後は登場メンバーたちは過去の絆を取り戻し新しい出発を始める。
芽衣子の生まれ変わりを信じる気持ちは、彼らが新たな人生を歩む意味でも動揺の意味と捉えられるのできちんとまとまった気がする。

短い話数なりに心理的な見せ場が多く見所のある良い作品だったと思う。

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2009年6月19日 (金)

児ポ法、ゲーム規制、守るべき物は何か?否定的語感による誤解

ネット上でこれは痛いと思わせるニュースなどを取り扱っている『痛いニュース』にてこのような記事を取り上げている。
学園モノ・妊娠・人外も?陵辱系だけにとどまらない「エロゲ規制」

18禁ゲーム、エロゲーなどと呼ばれている性的描写のあるゲームなどの事で、あらゆるジャンルの物が発売されている。このアダルトゲームの審査機関のソフ倫という団体が上記のジャンルを規制の対象にしようとしている。
関連する話題としての詳細では下記のリンク先のほうが詳しい。
特集 それって本当に、子供を守るための規制ですか?

しかし、この種の作品の規制の筆頭としてよく名前の挙がる野田聖子議員の勉強会に行った人の話では以下のような内容になっている。児童ポルノ法案による作品の規制があったり、今回の件と同様に考えるものだろう。
何がおかしいのか少し考えてみたい。

凌辱ゲー全規制対策 政治系対策本部7

249 名前:名無しさん@初回限定[sage] 投稿日:2009/06/14(日) 18:56:22 ID:BsMKOzOJ0
詳しくは書けないけど。いわゆる規制派の集まりに顔出してみた
次はとくに制服や学校や野外での性行、
その次は結婚してないカップルの妊娠や不倫ものをターゲットにしていくらしい
最終目的はエロゲを根絶して、それを実績にして
エロゲの次は漫画を規制していくらしい。聞いてて吐きけがした。
本当は凌辱ものの規制で簡単に膝を屈してはいけなかったんだけどな
何で日本や漁業団体がが何十年も捕鯨反対にこだわるか考えろよ
捕鯨禁止が完全に達成されたら次はマグロやその他の魚が
またやり玉に挙がるに決まっているからだろ。

エロゲ業界人の愚痴 その94

58 :名無したちの午後:2009/06/13(土) 21:56:01 ID:8Gh0kDS20
既に野田の勉強会は、陵辱系ゲームに留まらず、18禁ゲーム、暴力、殺人描写のあるゲームやアニメ
の規制案も作って居る。済まんが特定される危険が有るためソースは出せん。ただ、コレは事実
純愛厨にも危機感持って貰えるよう、一つだけ規制案を挙げると
所謂、中学、高校を意識させる様な「学園」「制服」系統も規制視野に入ってる。
規制内容としては、学園内でのセックス描写、制服含んだセックス描写なんかが全規制対象になった。
無論、パンチラ、乳首の描写も規制対象。
無論これは「今のところ」18禁ゲームのみの対象だが、ゆくゆくは、少年誌や少女誌のそれらも規制対象になる予定。
今のところ助かっているのは、自民と民主での児ポ法内容が対立しているのが唯一の救い。
これが議員立法とかで通れば、後は総崩れで2次元物に全規制がかかる。

児童ポルノ法案、語感に潜む落とし穴。その実態は

性的なものが苦手な人にとって性的嗜好が理解しがたい面があるのは間違いが無い。私自身もアニメや漫画、ゲームが好きだし、(玉石混交なので一括りにするべきものではないが)性的描写を含むものも好きな物がいくつかある。それでも未だに理解したくない嗜好もいくつか存在する。

理解がない方々がそれを見ればどうしても軽蔑したり偏見を持たれるのは仕方が無いところがある。しかし、そんな個人の主観的イメージがあったとしても絶対的に悪いと言うことにはならない。個人の価値観に合わないだけで排除する理由にはならないし、人に迷惑をかけていなければ問題にもならない。
排除や規制しようとする一般の人には嫌悪感で動いているのがほとんどといって良い。そうでなければ特定の団体との利益関係などで動いている可能性が高い。 その理由は簡単で反対する主張に正当性がどこにもないからだ。

通常なら“子供の売買春=犯罪・社会に対して悪”でなければおかしい。しかし、規制派はこれが“性的嗜好→(或いは=)犯罪・社会に対する悪”となっている。要するにすぐさま犯罪者か犯罪者予備軍的扱いという論理の飛躍が起こっている。
ユニセフが主張しているのは実在の子どもの人権であって、規制により創作された作品のキャラクターの人権や待遇改善をして一体なんになるのだろうか?ユニセフが出る幕は本来無いはずなのだが、“子どもポルノ”“児童ポルノ”など類似の単語の乱用がいかにも関連性があり、犯罪を助長しているかのような誤解を招いて理解を難しくしている。

「何故排除しようとするのか?」という本質的な疑問に対して明確な回答をする人は議論の場ではいない。多いのは個人の嫌悪感に起因する偏見(キモオタ・病気など)の感情論を言う人が多かったのも中身が無い事を裏付けていると言える。万人に対して具体的な効果すら想像できない規制などどれほどの効果があるものか。逆に経済的、娯楽的、製作者的、もっと言えば治安的にも有益な事の方が遥かに多い。

このような規制推進する人々は意図的に性的嗜好やセックス産業、引いては広く創作活動に対して一般的な偏見と言葉遊びを利用して規制を推進しようとしているのだ。

性的嗜好の差別的否定

“実際の成人の男女が結婚、子供を作り幸せな家庭を作る。”それが正常で健全な関係だと言われればそれは間違っていはいないだろう。しかし、生涯で誰しもパートナーを見つけられる保障はどこにも無く、同性が好きな人もいるし、結婚を望まない人もいる、幼女や少年しか愛せない人もいる。実在の人間を愛する事すらかなわない人もいるのだ。
それでも抑えられない性的欲求が誰にでも存在して、現実に満たされないから代用品を用いては、妄想を膨らませて欲望を満たす。名も無い人々のささやかな楽しみになっている。
これは極めて自制的な理由であり、犯罪に結びつくというのは数字から見ても早計である。

いかがわしい団体日本ユニセフ協会

日本ユニセフ協会は「なくそう! 子どもポルノ」運動を展開しているが、“児童ポルノ”と“子どもポルノ”の定義が違う上に、直接は売春が行われる“子どもポルノ”は数字としては実数は圧倒的に低いにもかかわらず、実態のある売買春と性的描写の有る作品を結びつけて、関連する作品を規制しようとしているのだ。

またこの日本ユニセフ協会と言うのは本体であるユニセフ(国際連合児童基金)から直接信託されている団体ではない事、25億のビルを新設したり、活動経費として25%留保できることからユニセフの名を借りた営利団体としての側面が強い。

政治家がユニセフと共謀して、無関係な善意の人を巻き込んで利用しているとするなら信頼を裏切る背信行為だ。ユニセフの主張により児童ポルノ規制に対する一般の理解が曖昧になってしまっている点は見逃す事が出来ない。

野田議員については「振られた男性議員の腹いせにやっているのではないか?」とか掲示板にて言われていたが、真偽はともかくマンナンライフのこんにゃくゼリーの対応にしても政治家としての判断が一般人以上に信頼できない事は既に露呈している。
普段の審議であれほど話が進まないのに、内容に問題があったり、批判の多い法案に関しては異常な行動力と執着心を見せる政治家とは何なのだろうか?

このような規制には一般作品の規制も視野に入っているので性的描写などの有無などは無関係に創作された作品を楽しむ事が好きな方は署名TVなどで署名されるか、規制を推進している議員を投票によって落選させるのが賢明だろう。

青少年保護の観点からしても異常

とかく子供には有害情報に触れさせない方が良いという考え方がある。しかし、性的表現のある作品を除いても有害な情報は至る所にある。テレビなどは子供に限らずその最たる物の一つだ。書店に行けば無数の雑誌が置かれている。インターネットで色々な情報を引き出す事が出来る。氾濫する情報を隠し通すことなど不可能だ。規制して取り締まる事自体がナンセンスな話だ。
年を取れば子供だって大人になる。大人になれば子供に見せられない事をするのは当然だ。それなら将来触れる事になる沢山の有害情報とやらに慣れさせるた方が遥かに有意義で簡単な事だ。

どうして自分という人間が存在しているのか考えてみれば、性的行為によって人間が生まれたと言う事が分かるだろう。そうなると子供がいる家庭で子作りをする場合は、子供の目を考えて一切性交を断つか、子供がまったく目の触れない場所で性交をしないといけない。有害と言うのならば全方位的に気を配る必要があるはずなのに、性的な創作作品ばかり狙い打ちにするのは変な話だ。

変態的な作品や嗜好であってもそれらは住み分けを考えて販売されている物で、現実の売買春とは違い仮想的な妄想を追体験しているだけに過ぎない。アダルトビデオなども仮想的追体験と呼べるので行為としては全く変わらない。

性的嗜好・変態性は悪い事ではない

性的な話は口に出して言い出しにくい恥ずかしい事だと言うのは理解できる。悪く言う人もいるだろう。しかし、罪を犯したとかと言う話ではないのだから萎縮してしまう理由などまったく無い。いくら批難されたところで中身の無い感情論以上の事は言われる事は無いのだ。自分が必要と思うからやってるわけだから無視して構わない。 人それぞれ色々な違いがあって当然だ。 変態的行為と思われてもやってることは単なる自慰行為に過ぎない。

極端な仮定の話

健全な話しか出来ないとなると創作の分野は終わってしまいます。あらゆる不健全が排除され規制されると仮定して考えて見ます。例えば勇者達が悪の魔王を倒す話があるとしましょう。 (少し不真面目ですが)

・暴力的な行為が出来ないので、剣で斬ったり、流血表現はありません。

・性的なシーンが駄目なので女性は出てきません。女性を出さない変わりにキャラクターはみんな男になります。肌の露出は性的欲求を感じさせるので全員に肌を見せない衣装を着させます。もちろんサービスカットなんてありません。

・美しいキャラクターは性的興奮が刺激されるので顔はみんな不細工になります。登場モデルは全国の日本国民からアンケートを取り最も性的欲求を満たさない不細工な顔のモデルケースを設定します。

・敵との対決シーンは長期化すると読者に苦痛な描写が増えるので簡潔かつ1ページで終わらせる事、なので新しい敵キャラでも簡単に決着がつきます。

・健全な書籍には必ず教育的側面を盛り込む事が義務付けられます。ですので親孝行で母親に対して「平和を守る為に戦争もしないよ、自衛隊も核も持たないよ♪」言うてる息子(子供はNG、顔は不細工)を出します。教育的側面を作品に絡める必要もあるのでとりあえず親孝行な息子を勇者にします。

・暴力的シーンが描けないので戦闘は頭脳戦か説得して和解する事になります。なので勇者は魔王にチェスの勝負(スポーツ等も可)を申し込みます。

・魔王は簡単に説得に応じませんので説得を済ませてから出ないと勝負が出来ません。頭脳戦が可能ですが魔王も人格を持っています。不健全に欺くことなく魔王の心が傷付かないように穏便に説得します。

・チェスに勝った勇者は倒した魔王が改心したのだと信じてもう戦争をしないよう約束をしましたが、数日するとまた人々を襲い始めました。穏便な戦いと説得を武器にまた勇者は旅立ちます。裏切られても相手の善意を信じて信じて信じまくります。相手の善意を信じられないのは不健全です。人と人が信じあえる関係は素晴らしいのです。

相当極端ですがこんな話は成り立つはずがありません。極端に規制されれば通る話も通らなくなる事もあるでしょう。 人物背景や設定などは物語を機能させるために必要な事もあるかもしれません。華が無いと面白みに欠ける場合があるでしょう。
例に出した暴力的表現の規制もどこかで聞くような話だと思いますが、極端になるとスポーツや格闘技を取り扱った作品はまったく取り扱う事すら出来なくなります。リアルな劇画作品なども出す事は出来なくなります。

対岸の火事ではない?創作分野の危機

一般の作品でも色気の有る作品はあります。曖昧さを利用して拡大解釈を進めては規制を強める可能性が強いのでこのまま行くと日本の創作分野は壊滅的な打撃を受けることになるでしょう。
どんな作品でも創作する事は相当な時間と労力を必要とするものです。それが明確な理由なく安易な規制で創作の妨害をしていいものではありません。
一連の規制運動は一部の人々の問題ではなくアニメや漫画など広く創作分野に対しての規制を進めていると考えるべき事柄なのです。 創作作品にまで規制が及ぶのはあまりにも短慮で行き過ぎた行為です。

その他参考
反ヲタク国会議員リスト
署名TV:同人ショップやゲーム販売店に過剰な自主規制をせず多様な作品の販売を求める請願
署名TV:架空創作表現規制禁止の法制化を求める署名
保坂展人と語る、マンガ規制・ネット規制の今(1)

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