カテゴリー「文化・芸術」の記事

2015年11月11日 (水)

怒り新党に疑問。シチューかけご飯について考える

「有吉マツコの怒り新党」にてシチューにご飯をかける事に対して、肯定的・否定的な意見がとりあげたサイトの各所で寄せられた。そのご11月中にドリアが出た会でまたシチューの話題がでる。まだちょっと思うところがあってまた焚き付けられた感じだが、一般人もまだモヤモヤ感が残っているのではないだろうか。
決着をつける必要はないし答えはないが、強硬に許せないという意見には目を丸くするばかりである。

ビーフシチューならスープっぽい仕上がりだしごはんと合わないというのはわかる気がするがクリームシチューやホワイトシチューを理解できないだけでなく許せないというのは分からない。

日本人はご飯と一緒に食べる食文化がたくさんある。

日本にはご飯に合う食べ物が沢山ある。それが許すか許さないといっていること自体が偏狭というほかないあ。食文化というのは豊かな下地や正当な系譜において確立するものばかりではない。
庶民向けにはおいしいご飯と何かと食べ合わせレベルのものも多いかもしれないが支持されている食べ方があったり、一部の職業(漁師や飲食店)に限られた漁師飯やまかない飯などにも独自のご飯が存在しているのではないだろうか。

豊かな食文化を許容する土壌にある日本人がそういったことを考えると許さないだけでなく人に非ずという感覚は異常極まりない。冗談や大げさで「許さん」と言っているとしても笑えない。
ある種のISISなどの宗教とか原理主義者と同じである。

汁物と食べる米食

シチューにご飯をかけないまでも、日本には汁物とご飯を食べる食文化がある。まず断っておくが料理として確立されていない正統派ではない、下品であるという言い分はおよそ個人的な感情が入っているものなので庶民の食文化という観点から排除しないこととする。

例えば「お粥」。味はあっさりした塩味で多少の菜っ葉か梅干しを具にするぐらいの淡白な食べ物である。

お鍋の汁が残った場合は「雑炊・おじや」(以後雑炊と表記)にする。これも鍋という観点からして淡泊な食べ物である。これにご飯を足すことで飯(めし)が水分を吸って粘度を増すので食感はシャバシャバていない。具とだし汁に卵を入れるとシメの食べ物にもかかわらずあっさりしているのに食べ応えがある食べ物に変化する。ご飯ものでガッツリ食べる系の人は雑炊こそがメインディッシュではなかろうか。
「お茶漬け」も汁物と食べる米食といえるが、これもあっさりしている方だろう。

品がないがご飯に味噌汁をかける「ねこまんま」(正式な名称は知らない)もある。ごはんに対して味噌汁のだしと具がよく合う。直接かけないまでも、ご飯を口に含ませて食べた後に汁で流し込む食べ方をする人も根本的にはねこまんま的な食べ方を表向きはマナーとして拒絶しても、潜在的には許容しているともいえる。違和感がないのはやはりごはんと味噌汁は食べ合わせがいい食べ物と言えるからだろう。
だしの味がおいしいもそうだがジャガイモ、玉ねぎ、ねぎ、油揚げ、豆腐、と豊富な具を口にほおばる多幸感は、具だくさんの雑炊やシチューかけごはんと通じるものがある。焼き肉とご飯を食べる多幸感もおなじようなものだろう。

そういった汁物による米食を考えてみると、お粥などは控えめすぎるが
味が淡泊で多少粘土のある洋風の雑炊・おじやという位置づけになるのではないだろうか。

ソースと食べる米食

ここでは、汁以上に粘度のあるソースにかけて食べる米食について考える。
代表的な食べ物として「カレー」がある。旨味と辛さのバランスがよく、粘りのあるルーがご飯によく絡みおいしさが引き出されている。どんな具を入れても外れることがなく、チーズを入れたり、カツカレーにしたり、自由。基本の味覚として甘さと辛さに頼りがちなので味の繊細さは豊かではない。具材のバリエーションは何にでも合うが、悪く言えば何もかもカレー味になるなので素材の旨味を活かすのは十分ではない。大味な食べ物ではあるが国民食として誰でも作りやすく食べやすく、具によって様々な多幸感を演出することができるのが強みだろう。
最近出てきたタイカレーなどは汁物の分類にしたかったが味はしっかり辛さのパンチも利いている。

これもよく似ているが「ハヤシライス」がある。一般的に甘味が強い感じだがドミグラスソースとかワインとか使ってきちんと作ると洋食っぽさが出てコクや深みも演出できる潜在力がある。
個人的に作ることはないがチーズとか乳製品を炒める「リゾット」という食べ物もある。

「ドリア」もご飯がよく合う食べ物である。表面のチーズがおいしい、良く熱を通したパリパリになった表面を食べるのはおいしさ以上の喜びがある。エビやミートソースを入れたりイタリアン風に仕立てるものもあれば、シチューのようなグラタンなどあるが、具だくさんの多幸感が素晴らしい。

今回、有吉マツコの番組では両社ともドリアに対しての愛着がない感じだった。考えてみるとドリアとシチューをご飯にかける行為は焼いたのと鍋で煮込んだものと違うが、内容はほとんど変わらない
あまったシチューを耐熱皿でご飯を入れて焼いたら「これドリアじゃね?」と思うことはよくある。

ドリアとシチュー(厳密にはクリームシチュー)の違いについては「シチュー グラタン 違い」で検索してみると、「調理法が違い」、「グラタンは焦げ目という意味なので焼けばグラタンです」というのもあれば、真面目に答えている方は「ベシャメルソースから作るときに白ワインを入れてアルコールを飛ばせばグラタンになります」という回答がみられた。
アルコールを飛ばすのはよくある手法だし、なるほど納得という気がする。お酒の旨味とかコクが添加されるのだろう。まぁでもホワイトシチュー自体はすぐにグラタンに早変わりできる点を見ると結局は味覚的にはほぼ大差がないのが実態のようだ。市販のグラタンもシチューもホワイトソースを謳っていることが多いのでソースの差もないだろう。

つまりクリームシチューをご飯にかける行為を否定することはドリアを否定する事とほぼ同義なのだ。

その他の米食

どんぶり物としての米食はもちろんのこと、おかずとして食べる米食など沢山あるが、炭水化物レベルで考えると、味の濃淡は問わないし形態の違いだけだと気づくはずだ。
炭水化物あっての食べ物。世界の食は炭水化物で回っているのではないか。
主食を炭水化物とするとそこにあらゆる食べ方や味付け、料理ができるのは当然の結果といえる。

そういえば社会科の時間にならったキャッサバ、タロイモとか芋で炭水化物だし。アラン島などは土壌が悪い中で石垣を築いて作っていたのがジャガイモである。

「日本のお米」は「西欧のパン」?

日本人であればご飯があるが、海外ではご飯の代わりにパンを食べていてそういった文化があるのではと漠然と思うことがあった。パンをシチューにつけて食べるような古いイメージが浮かび上がった。
マナーでもフランス式、イギリス式、など色々あるようで、パンくず落としてもいいとか、スープにつけるのはダメとか、ソースをつけるのは料理人に敬意を払う意味でOKとかいろいろ細かい。

日本のお米料理はどんぶり飯とかがつがつ食べるようなものも多いが、海外だとがっつかない引いた食べ方をしているのかもしれない。お米がない地域は日本の米食のようにパンを使った料理が豊富にあったりするのかもしれない。この辺の比較は想像の域を出ない。

結論:ごはん(もとい炭水化物)は何にでも合う。

基本的においしいと思うものをおいしく食べればいいのだ。伝統を汚されない限りは海外の人がラーメンの汁に麺以外のものをつけて食べてもいいし、醤油を何にかけてもいい。
誰かが言っていたが「食べるということは救われてないといけない。」

ことシチューをかけるかけない程度のことで正当性を主張することは何もない。
正統な系譜に従って築き上げられた日本料理などを汚しているインチキ日本料理を出しているとかなら許してはならないが、普段の有吉マツコなら広い間口でいろんな話題も無難にこなしているが、正直今回の有吉とマツコはコメントはレベルが低かった。

今回のシチューご飯については少しがっかりした出来事だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年1月17日 (土)

カエルは大海を知らないのか? ことわざ『井の中の蛙―』を考える

いわずもがな現在でも見識が狭い人に対してつかわれることわざである。
しかしなが「『井の中の蛙』は本当に見識が狭いのだろうか?」という疑問がかねてよりあったのでその部分に対して個人的な解釈を考えてみようと思う。

『井の中の蛙』は本当に見識が狭いのか?

広い世界を知っていた方がいろんな知識や世界が広がっている。アクティブな活動もしやすいだろうその考え方が悪いという疑問は一見ないように見える。
しかし、それが絶対的な『善』であると論じるのは間違っていると思う。
間違ってはいないがこのことわざはどちらかと言えば物事を論理的に考えない人ほど使いたがる側面から一部で意図的な詭弁(論理を捻じ曲げて正当化する論)が行われているのが問題である。
執筆しながら「『井の中の蛙』というのは専門性を追求した人との敬意とか過程が含まれていないばかりか、ひいては井の中の蛙で成功した人をも切り捨てる暴論ではないか。」という思いに至った。

後に続く『されど―』

ざっとGoogleで検索するだけでもいくつものパターンが散見され造語として考えたようで、日本側でされど―の文章が後付けされたという事らしい。
・されど空の青さを知る
・されど空の高さを知る
・されど空の深さを知る
何が主な造語の由来になっているかは調べることができないが説得力を持つ内容である。ある人によっては「負け惜しみ」という言葉で否定的に言われている場合があったが違うと思う。(そもそも何に対しての勝ち負けというきもするが)
大海に出ても大きな物を得る人は得るし、井戸の中の蛙でも大きな物を得る人は得ると思うからだ。それを分けるのは結局は人間力だ。

大海を知る事は良いことなのか?

確かにいろいろな目新しい情報や異なる慣習や文化、考え方に触れられるし比較検討する物が多いので大海に出た方がいろいろな選択肢が増えて大きな世界が広がっているように思える。しかし個人が生きる上で把握できる世界というのは限られる。豊かさのなかにあっても個人の中で認知されるはんいでしか世界は広がらないのだ。人間の質によっては文化的業績を高めることもあるだろうが愚か者であれば大海の良さを理解できずに果てるだけだ。

視覚的には異なるものに触れて大きな何かを知ったような気分になるが本質的な精髄をも理解まではもっと突っ込んで考えないと理解することはできない。
大海に出たからとて広く浅く知ることなどはほとんど意味をなさない。では逆に広く深くとなると人間の処理能力の問題でかえって情報過多で埋没してしまう。

実際のところはすでに情報過多の時代で情報に追いつけない人がでて情報格差が生まれているし、ある年代で常識とされていた知識や事柄、倫理、事象等々が若い世代から欠落し始めている気がしている。別にひがみ的にいう気はないが、これを若い世代の台頭というには怠惰さと単なる惰性に溢れすぎている。またこの怠惰と惰性を変に美化しようとする世代が出始めたことに危惧を覚えている。
一部若者の動きに関しては現象的には大海に出たはいいが溺れてしまった上に突然変異で有毒物質に変化してしまったといっていい。^^;
ネットがない時代であれば常識や流行、知識もある程度は収束して一元化されていた。いい意味でも悪い意味でも非常識とされる行為は自重するような空気が存在していた。だが今は情報過多の時代で共通知が失われてしまった。

例えば『恥』、『謙虚』、『努力』などそういった感覚が一部でかけている事が見られることが多くなったのだが、誰かが作った文化的な土台や文物に対して敬意を払うことなく、良い部分をおよそエッセンス的に上澄みを掠め取り(学習と言えなくもないが少し違う)まるで自身の手柄のようにふるまっている行為が散見される。
若者が主導しているインターネットサービスの多くは馴れ合いによって成り立っている。楽しい感情を共有したり褒め合ったり仲間外れにならないように振る舞っている。「楽しけりゃいいじゃん」的な軽さもさることながら、その為なら「ルールとかやり方が間違っていても関係ねぇ」的ないい加減さも伝わってくる。
目立つ事をすれば大胆で破天荒でカッコいい的なノリはツイッターのバイトテロでもよく見られている。

執筆中に思った事だが成人してしまえば我々はすでに大海に出ている。その中で社会的に好ましい人物が形成されているわけではない事を鑑みると大海に出る事はいい事ばかりではないという事だ。
大海で新しい情報が生まれそれを適切に取捨選択できないだけでなく人格形成にまで影響を及ぼしているとしたらネットが発達した情報社会というのは罪深いものではないだろうか。

現代においての『井の中の蛙』から見ることわざの存在意義

先に述べたように無知な人ほどこのことわざは使いたがる傾向がある。というのもこの手の定型句に飛びつく人が必ず存在していておよそファッション感覚で使いたいだけで中身は深く考えようとはしない。多少なりとも論理的に物事の本質を考えたいと思った人であれば、『井の中の蛙―』という言い回しはもったいぶり過ぎて言うのも恥ずかしい。
定型句は非常に使いやすく一定の説得力を持っている事がほとんどだ。とはいえ耳触りがいいだけで中立的とか良い視点が欠けている事もある。
この言葉を使いたがる人は人間関係で上から物を言って上下を作りたがる人で、人を傷つけるにはそれなりに影響のある言葉で使った時点で対人関係で無配慮な人格が見て取れ、当然ながら相手が本当に『井の中の蛙』なのか判断する気などさらさらないのが分かる。ありきたりな『井の中の蛙』という意味以上に解釈を発展させる気もない。上記のことからも他人に言われるのではなく自嘲気味に言うのが適切な言葉である。

またことわざというのが昔以上に形骸化していて、四字熟語的なものはともかく長文ほど使えるシーンは少ない。
初歩的であることわざ、大袈裟で無配慮、なことから使う機会は少ないと思われる。
年齢的な部分でことわざを有り難がっていた年代の人で中高年以上が条件的にも使いたがる年代だろう。
こういう事を書いておいてなんだが『思考の整理学』というロングセラー書籍を出した外山滋比古さんの著書の『わが子に伝える「絶対語感」練習帳』でことわざの良さについても書かれているので興味があれば読んでみてもいいかもしれない。

井の中にありながら宇宙を見る人々

では井の中にあり続けた人は大海を知らないのだろうか?いやそうではない。
けして広くはないが一つの物事を続けることで狭いながらもその中において大海どころか宇宙の高みにすら達した人がたくさんいるではないだろうか?
言い換えればそれは専門を極めるという事であり成功した人はプロフェッショナルとして社会的な敬意が与えられる。
それこそ愚直なまでにやり抜いたからこその成果であり、ことわざでいえば『雨だれ石を穿つ』と言えるのではないか。

日本には現在でも職人として何十年も井戸ほど狭いとは言わないがある種の職人的世界を維持形成し続けている人々がいる。
以前テレビで見た安芸太田町の鍛冶屋宮島のしゃもじ職人などもそうだし、ほかにも和菓子職人や豆腐職人など沢山職人がいるが
言ってみればその世界において“宇宙”を見出したから職人と呼ばれるようになったのだろう。

ちょっと前に漫画『ヒカルの碁』などで囲碁ブームが起こった。この漫画の中で囲碁を宇宙と比喩する場面があった。囲碁を宇宙と形容する慣習というか囲碁人(?)の共通認識としてあるのかはわからないが、検索で出てくる囲碁サロンさいたま新都心様なども宇宙としている。碁盤の目に白黒の碁石を乗せる単純な構造ではあるが囲碁をやっている人の頭の中ではおそらく何通りもの戦術を試行錯誤が行われているのだろうから宇宙と言って過言ではないのだろう。

格闘ゲームにも似た部分が感じられる。私にはストリートファイター4を仕事から帰ったらずっと続けている知人がいるのだが上に上がる為に毎日練習を繰り返している。skypeで会話をしているときなどはいつもジョイスティックの音が聞こえているが努力するのが当たり前。その上で更なる上積みを重ねる必要があるらしい。東京に行ったときには一度だけウメハラを倒せたらしい。

どこそこの大学教授なんていう人々もある意味で井の中にあり続けたからこそだろう。私の在学中の恩師は山口県の歴史に関する書籍など出されているがこれも山口県の歴史を続けてきたからと言えるのだろう。

またこれもテレビからの浅い記憶からだが熊谷守一という画家も言わば井の中で宇宙を持ち続けたといった人らしい。参考文章を見ると30年間も庭の草木や昆虫などの生き物を観察して絵に描き続けたという事だ。

区別されるべき『井の中の蛙』

いわれてもしかたがない『井の中の蛙』というのもある。
10代とかでまだかわいいのであればあれば許せる場合もあるだろうが、多くは目立たなければ問題ないが余りに自分の考えや行為が見えずに排他的で傲慢すぎる場合は仕方ない部分はある。
でも実際のところは相手の考えている部分を理解しないとわからないだろう。言いたい人も言われる人も物事を理解しようとする努力は欠かせない。

子供のころは無知だから問題はない。大人の蛙の中でも物作りや研究的な人でも害にならないし問題はない。
おそらく問題は他人に侮られないよう虚勢とか強がりを拗らせている可能性が高い人々だろう。
自身の無力感とか他者に対して弱みを見せないようにしたりとか、あるいは本当に愚かなケースが想定される。

虚勢・強がりであれば心に余裕を持つように促すことだろう。直接言うのはカドが立つので避けた方がいい。
自分が大人になってそれなりに話を合わせてやんわりと理解してもらうのが近道だろう。
こちらに余裕があればしっかりと受け止めてみるのもいいかもしれない。

私は意図的に井の中の蛙になるのも悪くないと思っている。
普段は気にしない事でも生活の細部の変化に喜びを見出したりすることで小さな事かもしれないが日々の生活がちょっとだけ明るくなるかもしれない。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2015年1月12日 (月)

人気!? フリーゲーム 『青鬼ver6.23』感想

個人的に大好きなGACKTがYoutubeのネスレ日本公式ページにてフリーゲーム『青鬼』のプレイ動画をきっかけに私がプレイをした感想を書こうと思う。
フリーゲームは大学時代にはフリーソフトの収録されたCD-ROM付属のPC雑誌も結構の頻度で買っていた。パソコンを使い始めのころはフリーソフトの世界に無限のおもしろさが満ち溢れていた気がする。
今は全く興味がなくなってしまったが今回フリーソフトの中で『青鬼』のように見いだされる作品があるのを知り、フリーソフトも捨てた物ではないという気持ちを新たに持つ事が出来た。


何はともあれ実際プレイしてみたのだが、まぁ個人的には少々厳しい見方となった。

全体的に不親切

プレイしてみてわかるのだが全体として悪い意味でプレイヤーを突き放した作りになっている。
プレイのほとんどが真っ暗かそれに近い建物内を探索するのだが通路がまったく見えないので部屋の把握までに苦労する。訳も分からず彷徨っていると青鬼にバンバンやられてしまう。
※上記一部修正:先に感じた画面が暗すぎる点の指摘についてはガメセンテル内では割と通路の様子が見やすかったので削除修正。当方のWindows8環境では起動すらせず不十分な仮想マシンでプレイしたことも影響したようだ。

謎解き部分も通常のRPGなどのゲームの常識外で考える必要がある。というのもRPGとかであれば直接タンスや物置、重要箇所を調べることで重要なアイテム入手やイベントが起こるものだ。
たとえば地下牢の中の落書きの中に番号が紛れ込んでおり牢屋鉄格子の外から見る事で番号が分かる。ヒントも一応あるしおもしろかったが格子の外に立たないとイベントが起こらないのですこしわかりづらかった。作者の狙い通り「縦のラインを消せば良いのでは?」という推測は立てられたがそれでも解読イベント(格子外から見る)を見ないと分からないので動作に作業的な飛躍が生じる。可能なら壁を調べた場面で謎解きを完結させる工夫とか主人公が推論メッセージを流すなりイベント発生地点をわかりやすくする工夫がほしかった。

また驚いたのが椅子や銅像を隣の部屋まで動かせるという点だ。通常のRPGを基本とするとたとえば所定の位置に銅像をうまく数か所置くと扉が開く仕組みが存在する。置き方を間違えた場合はそのエリアに入りなおすことで既定の位置に銅像が元に戻っているという具合。そしてその仕組みはそのエリア内でしか有効にならない事がほとんどだ。
しかし、このゲームはその銅像やイスを隣のエリアに持ち出してそれを壊したり踏み台にする事が可能なのだ。別に可能なら作者が自由に決めてもよいし絶対的なルールではないがどうも調子が狂わされる。

最初に遭遇する作者の不親切はプレイヤー達が最初にスタートした地点の右上に通路があるかどうかは所見では分からず2階のの見取り図によって初めて隣室の存在がわかる。これを意図しているかまでは知らないが作者は意図的に画面の四方を黒枠で覆うことで壁か通路か見難くなっていることがある。
青鬼と狭い部屋を逃げ回る事を考慮してあえて画面を小さくしたのだろう。
青鬼を出してプレイヤーをいちいち脅かす目的のためならゲームとしてのプレイ環境を損なっても良いように感じられやや傲慢な作りに見えないこともない。随所に散見される不親切な作りはゲームに対してのセオリーが欠けているとも考えられる。そこはフリーソフトだから厳しく見過ぎても良くないが私には少なくとも『優れたゲーム』とは思えなかった。

作為的に不親切に作ることでスリルの助けになると考えがあるとしたら私は違うと思う。
ホラーゲームの手さぐり感のスリルはそういう物ではない。いつ怪物が出るかもしれない状況で何をやってどこにいるかプレイヤーが把握して最大限の知恵と神経を研ぎ澄ます環境を十分に与えた上でそれでも一生懸命逃げても追いつめられる事で緊張感が作られるのではないか。
このゲームの青鬼も出たら焦ることは焦るが暗い為に変に通路かと思った壁に引っかかって死んでしまうとか、階段に居るのに廊下部分で隣接しただけで死んでしまうとか理不尽な環境は必要がない。

見せ方はそこそこ

青鬼も初見は結構怖いし、鉄格子をつかむ演出とか多少は凝っている。殺された仲間のカツラをかぶって現れるなど笑い所も用意されている。最後あたりにはいろいろな青鬼を見ることができる。謎解きも不親切だが工夫が見られた。出現のさせ方も異なっているのは楽しい。やられたと思った仲間がステータス画面で変化するなど見せ方は変化があってよかった。2体同時に追いかけられる場面でも自動的に部屋に逃げ込めるよう調整された場面も好印象。キャラ名を変えることでちょっとしたおまけ要素がいくつかあって世界で大人気のサウスパーク風のおまけゲームは短いながら再現が普通に良かった。
上記のような意外性や見せ方は評価できる。

もったいないのが青鬼でビックリさせるという意図は早いうちに達成されてしまっているという事だ。初見は気味の悪い顔だが見慣れると怖くはない。もっと怖いシーンとか入れたりすると怖さも違ってくるだろう。仲間たちの存在も青鬼にどうやって殺されるか演出する程度の役割だったのでこれももう少し内容を盛り込んでも良かったと思う。

まとめ

見せ方とかは悪くなかったがゲームとしては雑と見える部分も多かったので5点満点で点数をつけるとしたら個人的に3点ぐらいだ。
青鬼のキモさに慣れない方は不親切さも手伝って結構楽しむことができるのではないだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年6月14日 (土)

『アナと雪の女王』レリゴー現象 MAY J.と松たか子の違いを考える

Yahoo!ニュースにて『『アナ雪』メガヒットのMay J. 手帳に「仮・紅白」と記入済み!(シネマトゥデイ)』の記事でイナゴの動向を見ていると
MAY J.が「紅白に出たい」という旨にかこつけて松たか子推しとMAY J.叩きが起こっていた。

6月14日の正午時点で「松たか子のほうが紅白にふさわしい」というコメントではいいね17500、悪いね860が付けられている。
そもそも松とMAYの優劣を決めるわけでもないので論点がずれているうえに、紅白に出たい発言に対してレリゴー松たか子信者が敵視して噛みついている異常事態。一方を立てたいが為に一方を貶める愚かな合戦の惨状となっている。いかにもヤフコメらしい日常風景である。

この場では論理性よりは感情論が優先されて、Yahoo!がポータルサイトというのが論理性の低い一般人が多数が感情的なコメントを寄せ、それを煽る挑発する連中が加わって荒廃を極めている。アクセス数は流石だが一般論よりはかけ離れていると考える事が前提にある。
それにしてもこの状況は異常である。

しかし、どちらも魅力的ながら松たか子とMAY J.の人気の差がある点については認められるが、公平中立性がかなり欠けている。
音楽性が評価されているわけではなく好き嫌いが優先されている点、そして双方歌うスタンスの違いに目を向けていないからではないだろうか?
それらについて少し掘り下げてみようと思う。

『Let It Go』 松たか子とMAY J.の良さ


松たか子の場合は声優としてキャラクターを意識した歌い方で感情移入がしやすい。松たか子らしい儚い声色ながらもありのままの姿で力強く歩みだす解放感、たどたどしい歌い方は危なげながら勇気ある一歩を踏み出したといった印象だ。松の声の個人的な印象は10代の少年のようなちょっとだけ男の子っぽいあどけなさとかたどたどしさという思いがあるのだが、『たどたどしさ』という点においていい仕事をしているのではないだろうか。
歌唱力という点を論じるのはナンセンスだが上手くは聞こえない。松たか子ならもっとうまく歌えた筈だ。
でもこれは劇中のエルサとして歌っているからこれはこれでいいのだ。

MAY Jの場合はエンディングを締めくくるのにふさわしい熱唱が素晴らしい。力強い歌声は作中のエルサのレリゴーからの不安定感がなくなり心身ともに女王としての成長を遂げたエルサや明るい未来を感じさせる。引いては物語の連続性を感じさせ、観る側に気持ちには思い思いのエルサの元に発展していく王国の姿を見ることができたのだろう。

スタンスによる違い

そもそも比較すること自体が間違っていてレリゴーでも『役者』と『歌手』として歌うかが異なっているのだ。声優として松たか子、エンディングを締めくくる歌手としての歌っているという違いがある。どちらにも求められる部分も違っていて単純な良し悪しでは測れない所があるのだ。
松たか子のほうが人気が出るのは当然で、松たか子本来の人気と女性や子供たちの感情を重ね合わせるには申し分ない曲と役柄を与えられている。MAY J.の方は作中に感情移入できる部分はなく、歌手としての役割のみで存在している。同じ曲を歌っている以上比較したがるのが人情というものだが決まって両者の好き嫌いレベルに終始しているのは、テレビ露出の多いMAYが一部女性を中心とした視聴者層に悪感情を与えてしまたからだろう。

というのもディズニーの女性子供の人気の高さ、エルサが女性の気持ちを代弁するキャラという事もありメイン客層は女性という事、好き嫌い論争には女性特有の感情的な部分、歌の質を重視しない点、好き嫌い=優劣かのような低いレベルで終始している点、などから女性が多いと考えている。

好き嫌い論争については最低でも好き嫌いは許容されるが一方を叩いて貶めるのは観る側の未熟なエゴであり、ディズニーという夢の世界の話では憎しみ合戦は相応しくない。 私もディズニーランドに行った事があるが夢の住人になりきっている人々が男女問わず沢山いた。何時間もの行列にもかかわらずみな楽しそうでディズニーとは日本人の心のオアシスという想いを強くした事があった。
本質とは程遠い感情的な対立は映画を観てなお一方を叩こうとする観客は一体映画から何を学び取ったというのだろうか? 好き嫌いの感情的な二極論には全く意味がない。

イメージの違いにより一方が悪くみられる点があるようだが、例えばMAY J.はバラエティー番組でカラオケのイメージがあるが多くの人々を魅了する歌唱力があるのは聞いて感じ取れると思う。「カラオケ」と聞くと低俗だが対決する場面は実力を尽くす真剣勝負を演じている。「歌は優劣とか点数ではない」というならば松とMAYに優劣をつけること自体がナンセンスという事も気付く筈だ。

カバー曲が多いという点についてだが、確かに私がGW中に広島のフラワーフェスティバルに来た観客の中にも実際に女性から「自分の歌がない」という声を耳にしている。私ももう一つ実績が物足りないとは思っているので自分のカラーが出せる楽曲を出したら良いとは思っている。
Youtubeなどでは彼女の過去の楽曲を聞いてみると実力は十分に窺い知ることができる。歌詞を書いたりするのが難しければ良い作詩作曲家などから楽曲提供をしてもらうのも珍しくはないので良い人と組む事ができたら良い。
流行やアニメ向けに手堅くいくなら前山田健一や菅野よう子、梶浦由紀、泣ける歌詞なら瀬尾一三(中島みゆきの人とか最近のももクロ)、サイバーな楽曲であれば小室哲哉や浅倉大介とか。

音楽の世界は上手ければ活躍できるというものでもない。昔は時間を問わずあらゆるアーティストを紹介するテレビ番組が無数にあって色々な音楽に触れる機会はたくさんあり、ミリオンセラーがランキング番組を賑わせていた。今はそういった音楽番組も少なくなり、その上インターネットやスマホなど趣味が細分化し音楽ばかりもてはやされる時代ではなくなった。自分の持ち歌というものを一般に認知してもらう機会は極端に少なくなっている。

しかしながら趣味やメディアの多様化の中でも例えば音楽業界の大御所でもNHKの音楽でも広く知られている冨田勲が初音ミクを使った演奏会を行ったり、ニコニコ動画を利用してGACKT、西川貴教、小林幸子、ロンブーの田村淳(一応JealKBがあるので)、その他のアーティストなどがニコ生を利用したプロモーション活動が盛んに行ったり活動の場を開拓し始めている。

『アナと雪の女王』ではとても良い仕事をしたと思っている。彼女の歌唱力は素晴らしいものがある。
歌手としては『カラオケのMAY J.』とか『カバーのMAY J.』と呼ばれるのは歌手としては十分とは言えないし、所詮バラエティー番組では努力を重ねても質が悪い評価癖のある視聴者ばかりでは正当に評価されることはない。

MAY J.は歌手以外でも音楽番組のJ-MELOにて日本の音楽を英語で海外に伝えるなど、彼女なりのアプローチの仕方ができる可能性がある。
今後の活躍は未知数ではあるが、潜在能力の高さを感じさせる歌手ではないだろうか。

■2014年5月4日 フラワーフェスティバルにて
P5040142

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年9月19日 (木)

アニメ 『ベン・トー』 視聴後の感想

去年アキバに行った折、特に好きでもないのにキャラ萌えで買ったフィギュアを購入した。
一度はアニメぐらい目を通しておこうと思いレンタルで見てみる。

その時購入したのが以下のフィギュア。 キャラクターが好みであったのと、ポーズが艶めかしくスカートの曲線なども色っぽい。普段は活発そうなキャラなのに顔を紅潮させているのも妄想を掻き立てる。
購入後知ったことだがセーラー服を脱がせられ一つで2度おいしい仕様。はがす際に接着剤が強すぎて塗装が少し剥がれてしまう仕様だがプライズ品なので価格的にも1000円以内で購入可能で良いものだと思う。


作品名は『ベン・トー』 という半額弁当を求め死闘を繰り広げる狼たちの物語。

まず良い点として作品のつかみは面白かった。
半額品を求めるという極めて生活感あふれる部分から共感を得て、スーパーの内装の再現度がいちいち高く日常的なスーパーの雰囲気がよく出ている。
私の近くスーパーでも総菜コーナー周辺で半額シールを張るのを見るや多くの人だかりができ、半額弁当に群がる人々を目にする。滑稽とまでは思わないが半額品を狙うハンターは現実にも間違いなく存在しているが、これを武力闘争にまで発展させたのがこの作品だ。
半額品を狙う狼たちにも二つ名を持つものが多数存在し、(「氷結の魔女」、「ウィザード」など)狼たちに一目置かれている。

ストーリー

ストーリー的には半額弁当の魅力に強く共感を得た。きちんと料理としてパッケージ化された弁当。価格もさることながら素晴らしく美味しい。この作品では高級なスーパーに置かれているものが多かったが高級スーパーの上質な弁当は一層おいしく感じられる。それぐらい半額弁当は素晴らしい。
すべては半額弁当の為であり非常識な展開が繰り返され突き抜けた面白さがあるといえるかもしれない。

しかしながらたかが半額弁当ごときで店内でバトルを繰り広げ、勢力争いや方方のスーパーを捜し歩くというのは作品の目標が低すぎてどんなシリアスな戦闘やシーンを重ねても「でも結局は半額弁当の為」という事で深みがなくなってしまう。動機が『半額弁当』にすべて集約されているのでどうもシリアスシーンでも何もかも薄っぺらく感じてしまう。キザなセリフも締まらない。
半額弁当がなければ作品は多くを占めるバトルシーンとサービス的に入れらた萌え以外はほぼ見るべき点がない。
半額弁当を至高の存在に仕立てたはいいが半額弁当の素晴らしさや異常に執着するについての説得力に欠ける。
アニメ的に美味しそうな質感は表現できてもグルメ漫画程に掘り下げる事は難しかったのではないだろうか。
ギャグ的にも萌え的にもパンチがもう少し欲しい気はした。

作画

全体的に破綻もなくアクションシーンは躍動感があって素晴らしい。OPもなかなかカッコいい。サービスの萌えシーンでもいい仕事をしていると思う。弁当を食べるシーンにも作画は素朴においしそうには見える。
特に筋肉BL小説書きの白粉(おしろい)と白梅(しらうめ)との百合シーンはこの作品でもっとも見所があるシーンだ。他にも白粉が弄られるシーンも悪くない。

キャラクター描写

掘り下げができているキャラとそうでないキャラの差がある。
見せ場的には白粉が一番面白かった。主人公と何かと行動する機会が一番多くにBL展開を妄想したり、白梅(しらうめ)との絡みも用意されている。立場的にはメインヒロインっぽい槍水(やりみず)は主人公とは先輩後輩の関係で会話に距離が感じられる。クールなキャラを崩す萌える展開も少なくあまり面白くない。
全体的に露骨すぎない程度には他の女の子たちとの密着シーンや恋愛に発展しそうなシーンを盛り込んでほしかった。

主人公はホモ受けがいい(ショタ?)描写が多く、なにかと裸にされたり、警備員に乾電池を尻に入れられそうになったり、女装など個人的には少し萌えたが、すぐ下ネタにはしる売れない芸人のようにも見えた。

狼たちが店内で集団で殴り合う場面はシュール。棚に乗ったり割りばしやカゴまで利用して非常識極まりない。
(ツイッターでバイト店員の不衛生画像投稿を思い出す。)
無難に半額弁当を獲得するだけでは満足せず勝ち取ることに意義を見出している。 半額弁当はいいものだが彼らの行動には全く理解ができない。

まとめ

なぜ半額弁当にこれほどの情熱を注げるのかは全く理解できないし、突き抜けてる割には面白さに直結していない気がする。その点を無視すればアクションシーンや萌えシーンなども作画は良いし、店内の様子など凝ってるので見どころはそこそこある。 音楽もアクションシーンに合って悪くないです。

あと半額弁当に対しての低価格ながら素朴な美味しさというのは伝わってくる。今川泰宏監督の『ミスター味っ子』のような派手な表現はないが地味ながら弁当を食べ進める様子はさながら貧しいながらも半額弁当に喜びを見出す人々のリアルな感覚を覚える。 (私自身も半額弁当をよく買う)
『孤独のグルメ』の名台詞の「モノを食べるときはね―独りで静かで豊かで」(横棒は省略)にもどこか通じるのではないだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年3月12日 (火)

F1(元ドライバー)小林可夢偉WEC フェラーリAFコルセ加入\(゜▽゜)/

しばらく小林可夢偉の話題らしい話題というものがなかったがWECでフェラーリのAFコルセに加入が決定した。
F1情報サイトのF1-GATEによれば「スクーデリア・フェラーリは伝統ある“跳馬”史上初めてのアジア人ドライバーとして小林可夢偉の加入を発表した。」という事らしい。フェラーリ初のアジア人ドライバーとは大変名誉なことだ。

去年から主に芸人ダウンタウン関連の番組などにたびたび出演するもののスポンサーおよびシート探しは遅きに失した感はしていた。ロータスやフォースインディアのドライバー発表が決まらない中で何度もF1復帰待望説が浮上。フェラーリのマッサのレース大会に呼ばれたりAFコルセのテストを受けるなどフェラーリ関連の話題が上がっていたが、今回やっとF1以外であるがフェラーリのシートを獲得したようだ。

3.11大震災の当日に発表というタイミングも粋な計らいと言える。数年前に長年フェラーリ移籍を望んでいたジャンカルロ・フィジケラが移籍したケースもあるし、フェラーリは割と人情味を解してくれるチームなのかもしれない。

その他個人的に2013年の今年面白そうな話題としてはとりあえず以下のような事が面白そう。

・バルテリ・ボッタスがマルドナード以上の活躍の期待
・バトンとセルジオ・ペレスの成績
・ハミルトン加入のメルセデスの成績
・ザウバーに移籍したニコとグティエレス
・グロージャンとマルドナードや他ドライバーの去就
・扱いやすくなったタイヤによる順位変動

こうやって書き出して見ると気になるは新規ドライバーの実力と新規加入による新体制でどれだけライバルと差をつけるかという事が気になっているようだ。今年ドライバーになったボッタスはテストでもマルドナードに肉薄するタイムを出しており、川井一仁も下位チームなどの新人と比べても堂々としていていい雰囲気を持っていると褒めている。マルドナードはチャベス大統領の死去によりシートにも変動がありそう。

今季マクラーレンはタイヤの使い方がうまくはまれば早く自分に有利なチーム体制づくりなども評判がある(褒める意味で)バトンと川井氏によればタイヤの扱いが難しかったためにイタリアで2位に上がってしまったペレスが同チームに。経験の豊かさをバトンが示せるのか、また実力を疑問視されているぺレスが結果を示せるかが見ものだ。可夢偉はカルロス・スリムの支援するドライバーと比較されシート争いを強いられる立場に置かれていたし、(エンジニアなどの待遇の差もそのせいか?)バトンがペレスを下してくれたらなんとなく気分はいい。
メルセデスはマシンの調子も良くなったようだし、これにハミルトンの別次元の速さが加わったら面白いことになりそう。力のあるものの情緒不安定な所や終盤のリタイアが多いこともあって応援したくなるドライバーだ。
ザウバーのニコはフォースインディアを飛び出した事を後悔しないように活躍してほしい。グティエレスはF1参戦が早かったかどうか見ることができるだろう。
今年はペイドライバーや実力が疑問視されているドライバーが多いだけに結果によっては適正なドライバーの参入を望む声が強まっていくに違いない。そうなれば可夢偉が2014年にF1に復帰する可能性は高まるだろう。今年のドライバーラインナップをざっと見て来年のシートが場合によっては危ういドライバーは5人以上はいるように見える。邪な考え方かもしれないが少しばかり新規ペイドライバーの成績低迷を期待してしまう。

今年はピレリタイヤはグリップ力が上がってコンマ6~8秒ぐらいのタイム上昇が見込めるという。(ある関係者によると0.5秒と発言)タイヤを作動領域も広くなって扱いやすくなったとの事だ。タイヤの信頼性向上は不確定要素が排除され戦略も立てやすくドライバーの実力もはっきりしてくることだろう。

可夢偉にF1の可能性がまだ閉ざされていないという事がわかりファンは一応の安堵を得たことだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年11月10日 (土)

ドラマ『悪夢ちゃん』についての雑感(4話まで視聴)

最近面白そうなドラマをやっている。『悪夢ちゃん』というドラマだ。 普段はドラマなど見ないもののGACKTが出るというので見始めた。
そもそものタイトルの響きからして魅力を感じないと思っていたし、1話目を見た印象では演出はCGや人形を使って安っぽい特撮を彷彿とさせ、役者の芝居にも独特の不自然さに違和感を感じたりもした。 髪が前髪の半分が白髪の女の子、創作作品からそのまま実写化させたかのような博士、GACKTの夢王子役も風貌など改めれば耽美な王子役も可能だろうが少々微妙に見えるし(パーマももっさり、少々太いようにも見えたが彼は筋トレの鬼で武闘派なので太いのだと考えてこの際まぁ良いとする)一言で言えば、「作り物感」が多いという事ではないだろうか。

しかし、回を重ねるにつれてそれは誤解ではないかという思いが湧いてきた。期待値が低かった分もあって主役の北川景子の演技と今後が何とも面白くなりそうだからだろうか。外面のいいサイコパス先生のメッキが剥げて次第に言葉が重たく響くセリフが多くなった気がする。(私は北川のセリフでちょっと泣いてしまった。)北川サイコパス先生がGACKT教授の雰囲気をフィギュアっぽいっといったのも作り物感という気持ちを強めた。夢をテーマにしている分作り物感があった方が視聴者を奇妙な物語に引き込む演出装置としてなら悪くない気もする。このような違和感は独特の空気を出す為の演出を考えての事ではないだろうか。それとやはりGACKTが出ると他の役者にないオーラがあって空気が違う。演技がうまい役者は他にたくさんいるだろうが独特の空気を出せるのは多くないだろう。演技も結構こなれている感じで良いと私は思っています。

脚本や音楽も経験豊富な方が担当されているようだし今後に期待したい。(脚本は大森寿美男、音楽は横山克、原作は恩田陸、大森さんは大河の風林火山などでGACKTと関わりが多いみたいです。)
北川さんの言った空気を読んで笑うような大人にならないようにしていきたいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月30日 (火)

終わりから始まる『あの日見た花の名前を僕はまだ知らない。』

子供時代のノスタルジー好きで、これから新しい気持ちで再出発をしたいと思っている方はお薦めです。ZONEの曲もひと夏の青春を思い出させます。
めんまなかなか面白いです。(^^)

 

一言でいえば「終わりの始まり」のお話

この話は一言でいえば「終わりの始まり」(終わりから始まるという意味で)といった印象を受けた。
終わりから何かが始まるという感覚は作中の輪廻に触れている部分と一致している。

めんま(本間芽衣子)の死をきっかけにかつてその子と仲の良かった子供たちは気持ちに心に枷を課してしまった。
子供たちは成長してそれぞれの道を進んでいるかのように見えたが心の葛藤は続いており、生活に綻びが生じたまま日々を過ごしていた。
最後に芽衣子に対しての思いが満たされることでそれぞれが自分の人生を前進させるきっかけとなる。
成仏したのは芽衣子だけではなく、彼らの悶々とした気持ちも成仏させてしまったようだ。

 

子供時代を思い出させる作品

「昔はあんなに仲間たちと楽しく過ごしたのに」という気持ちが去来する作品。
あるいは子供時代を彼らのような連中と過ごす事が出来なかったと思う人は幻想めいた楽しさを夢想させるような作品だなーと思う。

特に小さい子供時代は世間的な窮屈さや学校や一般生活での挫折経験もない。
恐らくは子供たちの中で進学する段階になって自分の人生と他者の人生が別物である意識が明確に出る頃ではないだろうか。

子供の時の猶予期間が終わり仲の良い友達とも進路も別になるとまるで気持ちまで離れ離れになってしまったかのようになる。
それは現実的な学力の差によって学校が決まる事であったり(つることゆきあつ)、交友関係の変化(あなる)、価値観の多様化(やどみとゆきあつ)や引っ越しで遠方に行ってしまう(ぽっぽ)事などがあるだろう。
誰しもそうやって何度も別れと出会いを繰り返していく事だろう。

 

周りを取り巻く世間

主人公のじんたんは底辺高校に通う事になり(学力はあったようだが)、ひきこもり生活をしている。近所のおばさんや中学の同級生の視線が気になり、ゆきあつに馬鹿にされる。
あなるはPTAにラブホテルに行ったのを目撃され学校に連絡されてしまい。クラスではその話題で持ちきりに、あなるはある事ない事を陰口を言われ苦しめられる。

このように世間の窮屈さを実感させる場面がいくつかある。他の要素として細かい気持ちの機微などがあって、絵の表現も写実的な方で破綻も少ない、話も無理がない感じで感情移入がしやすかった気がする。

 

話の核となる芽衣子

この作品はすべては芽衣子が核になる事で成り立っている。恋の相手として嫉妬する対象であり、失恋、トラウマ、無気力を抱えるキッカケとなっている。その為には芽衣子が魅力的なキャラクターであり続ける必要があるだろう。

1話などから見返してみるとコロコロ表情が変わる。主人公とのやり取りも面白い。人懐っこく激しくくっついたり抱きつき攻撃をするのも小動物みたいで可愛い。全編純真無垢な存在として描かれるが意外と不自然さが少なく感じる。声優さんも上手かったと思う。

これはまた女性の視点から見ると見方が変わってくるかもしれない。


少し気になった場面

芽衣子が存在が発覚したのが11話中8話の終盤で意外と遅かった。説明をしようと思えばできただろうが、登場人物が存在しない物として取り扱った方が複雑な人間関係を描きやすかったに違いなく、旧交を温める時間をあまり与えない方が最終回は効果的なのだろう。

終盤も急な感じがあった。女同士のエゴの指摘合戦が始まり、ぽっぽの自白が始まる。
海外の反応ではぽっぽの扱いがひどいそうで、確かにぽっぽは成仏するために協力を惜しまなかったが情に熱い人柄とかぶり、こころの葛藤は多くはなかった。そして実は気楽に見えて最もショッキングな場面に遭遇した人だ。
笑い要素も強すぎてしまったようだ。

 

最後は登場メンバーたちは過去の絆を取り戻し新しい出発を始める。
芽衣子の生まれ変わりを信じる気持ちは、彼らが新たな人生を歩む意味でも動揺の意味と捉えられるのできちんとまとまった気がする。

短い話数なりに心理的な見せ場が多く見所のある良い作品だったと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年12月29日 (水)

意外と本格派!? 芸人ロンドンブーツのヴィジュアル系バンド jealkb(ジュアルケービー)

私にもヴィジュアル系と呼ばれるグループに少し傾倒していた時期がある。しかし最近ネオヴィジュアル系の特集番組(2007年の番組)を見て今でもやはりヴィジュアル系が好きだと実感した。もちろん過去のヴィジュアル系の思い出も加味されている。
左記の特集番組で紹介されていた中でふと司会がバンド紹介で 「ロンドンブーツの淳さんがボーカルを努めるjealkb…」と言った。

個人的にそれを聞いた瞬間「えっ?何だって?」と思った。昔ロンドンブーツが出した「岬」と言う歌を出したのは知っていたがバンドそのものが流行る気配は感じられなかったし、「どうせ今回も一時的な話題性を狙った短命な芸人バンドだろう」と思い試しにYoutubeやウィキペディアなど調べてみてちょっとビックリ。お笑い芸人らしさなんて全くない意外と本格的なヴィジュアル系バンドなのだ。ものは試しにレッツリスニング。

Jealkb(wikipedia)のメンバーを調べてみるとメインメンバーは全員お笑い芸人で構成されている。 活動期間も2005年から現在まで行っているしそれほど半端でもなさそうである。個人的にはボーカルの声は力強い男性的な声の魅力が出ているし、歌詞も変に凝ってなくてダイレクトに伝わってくる。曲調もキャッチーで自然と口ずさめる爽快感がある。 吉本興業の力もあるのだろうがそれを抜きにしても有望なグループとして期待できそうな雰囲気がある。

お笑い芸人の音楽活動で流行したグループではRe:Japanの「明日があるさ」、野猿、くず、エキセントリック少年ボーイなどがCDTVでいつも上位にランクインしていたのが思い出される。Jealkbはかつての芸人バンドと較べなんとなく“テコ入れ感”というのもあまり感じられないのも印象が良い。(音楽CDが売れる時代ということもあったかもしれないが。)

過去のヴィジュアル系と比較しての個人的な印象の違い

自分が以前好きだったヴィジュアル形だと一貫して好きだったのはLaputa(ラピュータ)だ。その他は激しい勢いのある曲が好きだったのでその系統の音楽を音楽番組やランキングでチェック。中古CDをレンタル屋やCD屋で漁ったりしていた。以下は個人的な印象なので気を悪くしたら申し訳ない。初見が2007年のライブ映像なのでPVだとまたかなり違った印象になったかと思う。現在の映像を見比べると円熟味がましているバンドもあるようだ。

上記の番組(アリスナイン・ガゼット・ナイトメア・ムック・jealkb・Plastic tree・シド・メリーが出演)を見て全体の感じた違いで言えばまず歌い易いフレーズがつかみ難い印象がある。良い音楽には自然と口を突いて出るような心地よいフレーズがあるものだと思っている。個人的には今GACKTが最も好きなアーティストでよく聴いてもいるのだが頭の中でいくつかの曲のメインの歌詞やフレーズがすぐ浮かぶ。これは思い入れの違いや歌詞の言葉遣いの違いによるのかもしれないが。
音楽が全体として盛り上がる聞き所もつかみきれなかった。歌い方によって盛り上げたり静かに歌う所を作ったり、曲自体にストーリー性を持たせる事により情感を歌い上げる繊細さがもう少しいるのではないかと思ったりした。

次に歌詞だがどうも言葉遊びが少し過ぎてしまってるようで歌詞が感情に訴えてこない。シンプルでもストレートな気持ちが伝わりやすい歌詞を歌のメインに持ってきて欲しいかも。歌詞が長くなってまとまりが悪くなってしまっている歌もあるように感じた。

その次に歌唱力だが、どの声も良い声だと思う。しかしバンド独自の歌唱力を見出せる程に技術も感じられなかった。私の知っているヴィジュアル系というのはどのバンド独自の表現や声質により歌唱力に差によってそれなりに個性があった気がするのだ。音楽を聴いただけで「あっこれはあのアーティストだ」と分かる位になれば個性を確立したと言えるのかもしれない。無論アーティストの知名度や思い入れ、聞き込み度合いもあるので一概にいうつこともできないが。あまり関係ないがアリスナインはLa'cryma Christi、ナイトメアはLastierを思い出させるような部分があった。

昔はヴィジュアル系の好きな友人がせっかくいたのにヴィジュアル系の話をもっと広げられればよかったのがちょっと残念。
友人はPIERROTとDir en greyが好きだった。 
大人になれば各々の生活に忙殺され、相手の生活に踏み込んで付き合う事は難しくなる。気軽な立場で友人を作る機会は学生時代を置いて他にない。
変に遠慮や壁を作ると気持ちにしこりが残る事もある。

なにはともあれヴィジュアル系が続いていって欲しいものだ。

思い出のヴィジュアル系

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年6月28日 (月)

スポーツで躍進する日本勢、F-1ヨーロッパGP小林可夢偉7位フィニッシュ

スポーツで日本勢の活躍が続いている。

先日の2010サッカーワールドカップの日本対デンマーク戦で日本勢があそこまで得点を稼ぐとは思わなかった。0対0で一次リーグを進出できれば良いと聞いていたので、今の日本ならせめて同点かあるいは1点以上得点できれば最高だろうと考えていた。しかし、その予想は良い意味で裏切られた。後半デンマークが得点、デンマーク勢が終盤の疲労に乗じて巻き返しを図る恐れがあったが、本田が作ったチャンスを利用した岡崎の得点に安堵を取り戻した。やはり日本は個人戦より円滑なチームプレイに徹した方が、個々のメンタルやフィジカル面の弱さを補う意味でも有効なのだろう。その連携もさることながら、本田や闘莉王などが積極的に機会を作り、気分的にもチームを牽引していたように思う。

サッカーの日本代表は当初からあまり期待されていなかった事もあり、ここまで得点できるとは思っていなかった。1点差を争う試合ばかりならマグレや運が良かっただけで片付けるところだが、これだけやれればある程度の実力を証明したと言えるだろう。もちろん、運が無かったチーム、中国製のブブゼラに苦しめられたチーム、体制が充分でなかったチームもあったと思うので、一概には言えないし、勝負は水物だ。ただ敗者側に少し厳しい見方をすればチャンスをものにできるのがプロとアマチュアの差であり、諸々の問題を上手に解消するのも総合的なチーム力の差を示すのと同じとも考えることもできない事は無い。

2010年6月28日のF-1ヨーロッパGPでも今期リタイア続出のザウバーにあり、小林可夢偉が7位に入りポイントを獲得した。しかも、9位の走行位置から7位に順位を上げたのが残り2週であり、「小林は8位フィニッシュだろう」と思いながらそろそろレースの余韻に浸り始めたゴール直前に小林がまた抜いた。マシンの調子が上向いていた事やタイヤ交換のタイミングも良かったようだ。前のカナダGPで18番手から一気に10番手ぐらいまで順位を上げたものの1週目からライン取りに失敗してリタイアしてしまう結果を見事に払拭した。

 

20100628-000001.avi_005107368 20100628-000001.avi_004964726 20100628-000001.avi_004972767
↑ゴール直前でブエミを抜く様子とフェラーリの名手アロンソを抜く場面、喜ぶチームクルー

 

F-1の世界はドライバーの入れ替わりが激しいのでこれ以上のミスはF-1シート喪失につながる事もあり小林は厳しい立場に立たされていた。考えてみると日本代表が調子を上げていったのもイングランドやコートジボアールの強化試合などで日本代表が批難される状況がずっと続いていた。にわか評論家気取りの連中が想像力に乏しい批判を延々続けていた。まぁ彼らは批判する対象が欲しいだけなのだろう。

今回のサッカーとF-1も状況がよく似ている風に見えた。終盤充分な成績を残せている状況での追加点(F-1はポジションアップ)は感覚的に同じ興奮を与えてくれた。またつらい立場に立たされていた事、充分な成績を上げても最後まで貪欲に点を取ろうとした事、慢心せずに自分達ができるプレイに専念した事、色々と共通した点もあるがやはり最も大きいのはどのような障害があっても動揺せずまっすぐ確実に少しずつでも勝利へ向かう意識が高かったからだと思う。立場は厳しかったが腐らずに勝利につながる行動を地道にこなしていた。

国際舞台で活躍すると日本人の誇りを持たせてくれる出来事に違いない。
ただ日本人がもっと注意するべきところは夢や理想ばかりに浮かれ過ぎてしまうと、現実を踏まえた行動ができなければ足元をすくわれると言う事だ。(もっと言えば精神論にも通じるのだろうがこの際割愛する) たとえ良い結果を残しても高揚する気分を抑えながらも着実に歩を進める為の糧にしていかなければ実力は物にできない。

小林は以前別のレースで好タイムを出した時に他のチームクルーに「バンザイラップ」と言われた事がある。テレビで川井一仁氏が言うには神風的な例えが含まれているとかでどちらかと言うとネガティブな意味で使われている感じの説明を聞いた事がある。実際日本人が時折とてつもない成果を上げる事はよくある気がする。
良くも悪くも日本人の神風的潜在能力が世界では認知されているのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)