カテゴリー「心と体」の記事

2018年1月 2日 (火)

現場崩壊・・・、自己愛性人格障害のいる職場の恐怖

せっかくなので年末年始の郵便局のアルバイトで遭遇したおそらくは自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害)により現場が疲弊した事例を書き残しておこうと思う。私は医者でも精神科医でもないが、とにかく特異な偏執は常軌を逸しているのだ。情報や思いを共有できる部分もあれば良い。    

自己愛=ナルキッソス?

     

よく『自己愛』という単語から自身を愛しすぎたナルキッソスとかナルシストからこの障害を語りたがるまとめサイトや啓発を模したサイトに出くわすが、これにより障害に対して大きな誤解が生じている気がする。むしろこの障害の本質は自分自身を愛せない自身のなさが起因する内容が見られるので、語られる本質はその逆と言っていい。語源は触れないが本質を見誤るのは大問題である。   
例えばナルシストで言えばちびまる子ちゃんの花輪くんのようなキザがいるわけだけど、花輪くんはキザなばかりでない知識量とか常識も兼ね備えているし、ただのキザなら迷惑はかけないのだ。   
   
ほかに似た例で単語の第一印象で誤解しやすい例として『アダルトチルドレン』=大人になれない子供じみた人、という解釈がなされることがあるがこれも違う。    安易に理解しやすい言葉に引きずられやすい人と、表面的にまとめられた情報に飛びつきやすい人は情報の取捨選択という意味で親和性が高く、有害になりやすい一般論が形成され易いのではないだろうか。   
   
誰でも容易に情報発信できるのだが、一部では信憑性が疑われる掲示板、あるいは質問欄や知恵袋的なものもあるのかもしれない。   
専門的な内容を体系的にまとめているなら信用性も高いといえそうだが、常に内容を精査したり、疑いを持つ習慣をつけることで、『知恵』を獲得する過程があるとなお良いのではないだろうか。   
ググれば答えが出やすいのも考えものである。ネットに繋がっていない時代は明確な答えは存在しなくて自分の体と頭を使って吸収して取捨選択することが重要だった。そしていろいろな情報に思い悩まなくて良いシンプルな時代でもあった。テレビと新聞とラジオで個人がまとまっていられた幸せな時代だったものだ。   

     

自分が体験した自己愛と推定される人の習性

     

かつてこのタイプの人間には1度遭遇したが、一見、仕事のこなし方や魅力的な語り口など『できる仕事人』的な部分を持ちながらも、一度でもターゲット(当時の私ですが)と決めた相手に対して吊し上げや晒し者にする事により見せしめは当然で、叱責する理由がわずかでもあれば社員を大声で呼んで、見せしめに合わせるのだ。おかげで私の職場での見方が急速に冷やかに広まるきっかけになってしまった。   
自身が接していない従業員でも暇があれば特に社員などや作った取り巻きらに、ターゲットの仕事に対する信用を損なう事を根拠なく触れ回るので、同じように働いている人達がいつのまにか敵になっているかどうかも気がかりで、詐術にまんまとハマり敵視している人と一緒になると仕事の効率ややりやすさが大幅に損なわれる。

この詐術にハマった人達はターゲットの事を仕事で一緒に作業やそういった失敗を積み重ねたわけでもないのに、いつのまにやら第一印象が最悪な状態になっていることがある。またこうやって醸成された不穏な空気の中で失敗を誘発し易い環境に置かれてしまうことがある。   
マイナスイメージので何か失敗をやらかすだろう的な偏見の空気の中、衆人監視のような状況。正直、視線を意識されるので負の烙印が押される事やリスクがしばしば起こってしまった。   
   
職場の働きやすさとか会社のためとかは考えてなくて、自身のルールに合うか合わないかが重要で、他者を貶めることに一切の遠慮がなかった。   
この彼女自身(この章で語っている推定自己愛の人)は、懸命に私の立場を悪くしようと吹聴しまくっていたが、作業での優越的立場を他の人に取られて以降は作業の幅が狭いことがなんとなく見えることが多くなった。   

そんな彼女もいつのまにか仕事を辞めていった。いまもどこかで業務請負の仕事をしているのだろう。   
それと外見的特徴についてはあるサイトで指摘している爬虫類的な外見としているが、彼女はある怪獣に酷似した外見だった。
(中高年の小柄なおばちゃん的顔の歪みや不細工さも多少加味するが)  

今回経験した推定自己愛の人の習性

     

この人は積極的に明るいトーンで色々なトークを取り巻きになりそうな周囲の人間に常にしかけるが、肝心要の部分についてはほとんど語ることがない。仕事については本当に重要な事を語らないので、仕事の内容を本当は理解していなかったのかもしれない。   
仕事の内容を教わる場面でも身振り手振りを加えてハキハキ対応するので物分りが良さそうに見えるし、ある種のリーダーシップを持っている感もあるが、一方で彼自身が分かっている体を前面に出すために、仕事の実践する機会が奪われると思う事もしばしばあった。その後も仕事に直接関わる機会をことごとく奪っていった事を考えると意識して奪っていた可能性も否定できない。

     

当初は常にテンションが高い状態で付き合わされるとなると仕事以上の心労が掛かりそうなので早々とグループとは少し距離をおくようにたのだが、それを察してか、私を『仕事のできない奴』というレッテル貼りをするような行為を繰り返し作業にもかかわらせないよう遠ざけ始めた。

     

郵便局の教わった内容がややこしかったのと実際に作業しないとわからない側面が多分にあったので、当初与えられたポジションで大きく出遅れた。   
職員の説明は非常に細やかで気が利いているともいえたが、集配局、無集配局とかその辺の細かいことよりはまずは実際に届く荷物の扱いひとつひとつをどれをどこに仕分ければいいか?ということを教わり、まずは実践したかった。
   
票札の見方でも処理する局が異なるし、自地域か全国から来たのか、計量が必要なのか不要なのか、仕分けしている人間が間違っていることもあるので自主的な判断が重要でもある。機会か手区分か、郵便番号が有効か無効か、封書か、計量・未計量で仕分けがどのように分かれるか、転送か。他地域から継いだものかどうか。正直言えば局側の後手後手感が否めず、ルールを決めるも説明が十分ではない部分が多々あった。職員さんは紳士的で親切であるが、大人数で説明するので私などは後ろになることが多いので、声も届かなければルールも理解できなかった。   
   
一般の人がイメージする年末の郵便局の仕分け風景、高速処理された年賀状を集めて箱に入れたり、決まった番号に入れる作業などがあるが、正直考える機会が少ない分楽な部類に入る。前者は多少体を動かす機会が多い。   
   
ともかくもそういった理解が重要なのだが見せしめを作業をまだやっても居ない状態にも関わらずに仕向けられた。聞かれ方自体も何を持って分かるかわからないかという内容だったし、何を持ってわかったといえるかも理解できない状態。この際は多弁も「わかった」言い切るのも不利になると判断し、明確に「わからない」と主張する他なかった。

     

彼がある程度作業感覚と取り巻きづくりに種まきが進んだ状態になってくると、彼自身の傲慢さが顕になって来る。   
非常に完璧主義で仕事の理解度が不十分だった人や、仕事ができないという烙印を押したいターゲットとされた人を人前で激しく叱責したり、同じ作業をしている人に不利になる形で作業中や休憩時間を使ってまでしきりに触れ回るようになったのだ。   
彼自身非常によく喋るのでどうでもいい話を聞くだけでも相当な忍耐が強いられたのではないかと思うが、「あいつは仕事を理解していない 」「(ターゲット)は理解していないから~君が代わりにやって」、「(ターゲット)は分かってないんで他にまわして」と言った具合に、悪評を周知させることもシッカリとこなし、ポジションを采配し始めた。職員に対しても激昂し引かない点はまともな感覚で言ってるなら感心するところもあるのだが、許容値を通り越して異常なまでのこだわりは彼そのものの人格に起因する思いを強くした。   
彼の前で失敗をする事は(失敗をしていなくても)、即座に彼の感情を刺激し、喚き散らすことによって仕事のハードルを上げ、失敗できる余地をすぐさま削り取り、誤りを一切許さない空気を作り上げる。なまじ人間関係があるばかりに妙な疑心暗鬼を引き起こし窮屈さが半端ない。   
気をつけていなければ同じ波長を持つ人は取り込まれた敵かもしれないのだ。   
   
彼の本質に気づいた人達や彼の行為や発言、身勝手に耐えきれなく生った人は、何人かは相槌で回避しただろうが、年末年始の疲労もあってか疲弊していたり、短期間の付き合いだからだろうか、受け答えが不十分な事もないわけではない。   

     

異常かどうかの境界線は?

     

個人的には人付き合いの距離感。特に感情的になっていると異常ではないか気づきやすい。人には踏み越えてはならない距離があってそれを気にしながら生活している。たとえそれが仕事上でのことであっても完璧主義にこだわるあまり激しく叱責理由にはならないし、理性があれば強い物言いは控えるものだ。   
彼らにはとにかく何者かを批難とか脱価値化という場合には一切の遠慮がないのだ。自己愛の人を『理性がない-』としているサイトも最近閲覧したが、感情をセーブする機能が脳に備わっていかのような異常性に納得できる。

     

まともな上昇志向や成長を望む人は他人には出来ない境界を乗り越える行動力には敬意を抱き憧れの対象になるものだ。坂本龍馬などの偉人伝やエピソードなどを見聞きし気持ちを新たにすることもしばしばだろう。   
彼らもある意味平気で乗り越えていくのだがそれが乗り越える必要がない事だったりするばかりか、動機を見れば実にくだらない。自分の偏執のために利用しているだけにすぎないのだ。嬉々としてサル山の大将を演じる彼らを見て「彼らに疲れを知らないのか・・・?」と感嘆するばかり。自己愛かどうか推測の域を出ないが彼らが『病気』であるなら納得の精神力・・・、というか一切の遠慮がないからなせる業といえなくもない。   
   
こういった障害を持っている方を組織に活かす的なことを言っている専門家的な馬鹿が居たような気がするが。制御できない暴走列車を職場に置くのがどれほど危険で現実が見えていない。

     

今回の彼は完璧な仕事を非常に執着していたが、程々がないので0か100か、白か黒かどちらからしか判断基準が存在しない。   
完璧を求めるのは機械がこなす仕事だし、そのこなせないことを処理するのが自分たちの仕事だ。数をこなす仕事はみんなそうだ。   
人力で完璧にこだわるのは愚かでしかないのだが・・・。   
機械にできるだけ詰めながら葉書を乗せるとかより、彼らのようなあるいは体育会系的な人たちが強いるであろう意味のない非効率を排除しなければならないだろう。

     

今回は効率という1点においては自己愛の人だけでなく、職員の思考停止の障害が横たわっている。そんな気がした。

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2017年8月17日 (木)

牛乳石鹸のCMについて考えてみる。

昔から馴染みのあるパッケージで牛が青地に配された箱は商品としての上質さと飾らない良さが牛乳石鹸のブランドイメージにはあるのだと思う。
CMにそこまで目くじらを立てる必要はないはずだが、表面的な部分で批判が殺到してしまうのは非常でまじめなな国民性であるが柔軟性と想像力が極端に欠け、本来は各々が見て様々な感情を想起させるのは優れたCMと言えるはずなのだが、残念ながら下衆の勘繰り的になってしまっている。
擁護するにしても、単純に批判するにしても何があるのか考えなければ陳腐化してしまう。
奇を衒えばなんでも有りという事ではないが一工夫「おっやるなぁ」みたいな気持ちを持たせられたら概ね成功と言えるだろう。

個人的には結婚していい旦那として、いい父親として、朝ごみを出して仕事も地味だが後輩に気を配りながらもこなす日々を送る人生というものが見るこちら側に入ってきて。かつての理想の自身の父親像を重ねながら、今の自分とかつのての父親像を比べ、人生は順風と言ってもいいはずだが、日々の中で「自分は理想(かつての父親のような)の人生を送れているだろうか?」という疑問を抱かせるのはある種のリアリティがある。

ゴミ捨てが面倒くさい?妻への不満なのか?

これはまず違うと言っていい。
別にゴミ捨て自体は出勤時であるし仕事としてはなんでもない。父親として誕生日を祝う、妻からそれぐらいは要請されることは今時、安易ではあるが男女平等が言われている状況では良くある話ではある。女性からしたら子どもの為にという理由からハピーハピーなバースデイを送りたいというのが分かるし、「子供の為なら貴方も一肌脱いでよ。子供の為でしょ?」と言わんばかりな感じである。
子どもも普通に喜ぶだろうし、プレゼントを選ぶこと自体は携帯で妻が要求しなくとも選ぶことも全く変でもないし労力ではないが、女性のようなハピハピー感が彼にはない。
「あの頃のおやじとはかけ離れた自分がいる…」という回想シーンが妻のメール(またはLINE的な物)の後に流れるので、
表面的に感情的な女性が見れば「妻からゴミ捨てや誕生日プレゼントを買ってくるのが何が嫌なの?不満なの?」となってしまう感がある。

アゴで使われる日々と理想の父親像との乖離

かつての父親像の疑問は、その前の妻からのゴミ捨てや子供のプレゼント購入を要請する場面に係っているのだと思う。
そこからかつての父親像か「かけ離れた自分がいるという事をいっているようだ。
彼の父親像が相当古くなければ妻がゴミ捨てやプレゼントを買って来てとある種の夫を使役するのは、時代の流れからしたら習慣として普通に受け入れられているはずだ。そこには別に古典的な厳しい亭主関白像による父性とかそういうものを主張したりは感じられないししかたないと考えているがどこか腑に落ちない感じ。
彼なりの人生とか日々の過ごし方が阻害されている部分があり、誕生日とは言え彼の都合はお構いなしだ。
妻からしたら「それぐらいいいじゃない」と言いたいだろうが、アゴで使われる方は子供の誕生日という納得できる理由を使ってたびたび、妻のやりたい事を肩代わりさせられる人生が見て取れる気がする。
それに男女平等とて男としての矜持というかプライド的な性質もゼロではないだろう。繰り返すたびにそのわずかな男としての何かが傷ついていく感覚がある。この生活を毎日の習慣として続けていくであろう事を考えれば徐々に夫としてのプライドと自分らしい生き方が汚されていくようだ。
そこで「このやり方でいいのだろうか?」という漠とした不安を抱くことも理解できない事ではない。

家族思いのパパ。でもそれって正しい事なのか?

彼の父親像というのが、回想シーンの後ろ姿や一人立ち尽くす少年時代、「俺も昔は起こられたけどねー」という場面で想像される。
先に述べたように古臭い亭主関白な父ではないが、少年時代や玄関から出る父親から見るに、働くのに一生懸命で父親と遊べなかった子ども時代が推測される。家族思いのパパというのが彼の父親像と合っていない。かつての父親と逆なら返って悦びそうなものだが比較の上で彼は父親への理想像を少なからず持っているようだ。
具体的な父親像が想像に任されるのではっきりとしないが、父親像は見た各々の視聴した男性たちに委ねられる形になっているのだと思う。
厳しい父親を持った家庭、優しい父親を持った家庭、色々だろうが、それがCMの中で定義づけできないとなると、今と昔の違いをあえて出そうとしたら男女平等時代の夫婦という形に落ち着いてしまったのかもしれない。
すくなくとも彼は良いパパを演じる事に疑問を持ち、多分1度や2度ではないのでこれまでの蓄積による疲労感というものが見て取れる。

飲んで帰ったら、「なんで飲んで帰ってくるかなぁ」

奥さん厳しいです。誕生日だからというのもあるのでしょうが。多分誕生日でなければ「カレー粉買ってきてー」ぐらいの事も言ってるかもしれません。
そうでなくとも些細な要求や叱責とか夫になにか行動や態度を要求する事が恐らく男女の夫婦なら日常的にあるでしょう。
まぁザックリ最後の「さ、洗い流そ」でひとまとめにこれまでの妻への在り方や父親としての在り方への疑問など、言ってみれば負の感情的な色々な物、ギスギスした気持ちなども石鹸みたいに洗い流そうという事なんだと思います。そしてまたゴミ捨ての日々が始まるというエンドレス。
メッセージとしてはちょっと奥さんの態度が目立つ気がします。素人考えでは男性視点の夫婦の日常のギスギスをテーマと仮定したらもう少し、仕事のストレスとか、いい父親を演じる事を疑問に思う出来事がもう少しあればバランスがいいような気がします。

家庭を持ち組織に属して責任感が出てくると会社組織しては変化しようとはするでしょうが、働く個人としては基本は同じことの繰り返しになることもあるのだと思います。朝起きて、ゴミ捨てて、歯磨きをし、規則正しく、アフター5はほどほどに、どれも必要な事だけど時間は有限。振り返って自分らしい生き方ができてるかなぁと言えば、休みの日は家族サービスをこなしつつゴロゴロして何もしたくない事があったり。
就職のために諦めた夢の事を考えてはくすぶったり、失敗を後悔する日々を過ごしたりするのかもしれません。それでも大人として社会人として父親として歩みだしたら退くこともできない事もあるでしょう。

退くことができないけど、歩きながら気持ちを新たに進んで行く事ならできるはず。
心も体もキレイに洗ってあげて健やかな毎日を過ごしましょう。

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2016年12月13日 (火)

論理的思考を唾棄して感情を意思決定の主体とする人々の異常性について

陰湿な女性の集団リンチに遭遇!?

職場において集団の女性の陰湿さに叩かれた事があった。

私は現在ある全国チェーンを行っている大手会社の弁当を作る仕事をしている。その中の作業では例えばゴマやふりかけを手で振りかけたり、昆布を計量して盛り付けたりなどおよそ弁当工場を知らない人は高度に機会化された職場と思われているかもしれないが、毎日アイテム数によるが数千数万もの弁当の数々は実は人海戦術と手作業で行われているのだ。

その職場作業の一端で卵を入れる工程があったのだが私の具材の入れ方が悪いと言われる。なぜかと言えば「投げる様に入れている」風に見えるらしい。
むろん卵、特に生卵に近い状態なので一定の納得はできる。
だがしかし実際はそれで割れることはほぼなかったし、また私の責任で割れた黄身も自覚しているだけで数えるほどしかなかったわけで…
、言うほど問題のある入れ方をしていたわけではないのに批判するというのは、こうなると残った理由は好き嫌いということ以外にはないわけで…。
これからも仕事上の付き合いもあるのにこういう突き上げには困ったものです。(--)

たかが入れ方、されど入れ方


私はこの作業をやるなかで単純に入れればよいという作業ではないという事を十分に自覚していた。もちろん自信もあるが論理自体もずれているのが問題だ。コンベアの脇に立って卵を入れるわけだがこれが入れる向きによって全く出来栄えも何度も異なるのだ。見た目をよくするためには白身が飛び散らないのが適切なのだが不思議とコンベアに向いてやるのと後ろ向きでやるのとでは雲泥の差が出る。
また男女間の体格差も意外とある。工場の機械は比較的女性が作業しやすい高さになっているのが一般的で私はやや体格がいい方だが、高さが異なるので卵のリリース手法が異なるのだ。掌に卵をのせて置く様にという説明は受けた。理想としてはその通りだと思う。
しかし、背が高いと低い位置に置こうとすると高すぎるし、実践してもう一度考えてみると傾斜が付く。傾斜が付いたところから卵を落としたら狙い通りの位置に置くことができない。低い位置に合わせておくにはある程度は5本の指で包み込んで落とすしか方法がない。またそれ以外にもコンベアの奥側に卵を置くか後ろ側に流れてしまったものに置くかでも角度が付くので一定の置き方は実行できない状態にあるのだ。
だが、この論を主張してそれなりに認められたら仕事をする立場を追われることになるので、ここは避けねばならない事情が存在する。

論理的でない人々の支配的空気


私が「違う」と説明するには相手は論理的ではないし、一言(ひとこと)でも反論しようものなら、こちらが子供的な不真面目を振りかざしている風に扱われるか、「私語を慎め!」的な空気で封殺されて釈明する余地は与えられない。

こちらは一言であえて「やってない!」と論理的でないがかつ一言で語気を強調する方法を取らざるを得なかった。
「気を付けます」と言えば済むかといえば単純でもない。それは私自身が構築した仕事方法の否定となり、論理的でない。“およそ主観的にそう見える”類の言に従うのは言ってみれば私の矜持(きょうじ)、プライドとか自尊心的な物を損ねる結果となる。
仕事に対しての自負心にダメージを受けると、苦手意識を植え付けられるだけでなく、仕事そのもののモチベーションを大きく損ねる。その結果にあるのは離職の他はない。

環境の悪さをものともしない敵対的嗜虐者


極論ではなくこの仕事は立地条件の悪さや慢性的な人手不足、少ない人員であらゆる作業をある程度分業しながら人ごとに一定の得意なポジションがメインの役割として与えられている。例えば職場のFさんはご飯を計量すのがメインの作業でほかの作業を人員の空きがあれば適宜配置する。
私としては一つ一つの作業にモラルハラスメントでかつ嗜虐を目的とした人々にいちいち“ケチ”が付けられるのは避けたいことでもある。
おそらく狙っての事だろうと思うが公開処刑のような事も多々あった。
職場は温度管理されているどちらかといえば寒い。寒さには厚着対策でしのげているが良い環境とは言えない。
商品のでき自体は悪くないし指摘する論点も「黄身が割れる」よりは「白身が飛び散る」ほうが優先されるので違う。
そもそもわざわざ指摘されるほど私は卵を無駄にしていないのだが・・・、そうなると個人の好き嫌いの問題になるのだがそういった論理矛盾を指摘する余地は前述のとおりあまりない。

便乗する愉快犯的な大阪おばちゃん


一旦はそれで終わったがその後、
普段であれば明朗快活に話をしている作業現場にいた別の大阪出身のおばさんと少し語を話しながらやっていたが、先ほどの「投げ入れる」的な話題を強引に便乗させて今度は「貴方のそういう態度があかんのよ」と言ってくる状態に。また論点が卵の置き方が悪いから「黄身が割れる」から「白身も飛び散る」と置き方に起因する問題点を追加して攻めてきた。私はこう思った「何という卑怯な畜生―(ピー)が!OMG!」

先日私と趣味の話を話しているのを見咎められたせいか攻撃性が増している。ただこの大阪おばさんの性質として面白おかしく話ができる引き出しを持っていて人当たりの良さからそれなりの人気があるのだが敵対する相手に対して愉快犯的な嗜虐心を持っている。倫理観が欠如しているので自分の都合の良い事の話題を“盛る”習性を持っているので、私のように攻撃する対象となればちょっとした失敗を論い極悪人に仕立て上げられてしまうことだろう。
今回がまさにそれだ。全体としての出来は普通か中の上ぐらいで問題ないレベルだったのだががそこを無視して攻撃に転じた。

危険な大阪おばちゃん


この大阪おばさんは職場のおばさんの意識を束ねることが可能である種のアジテーター(扇動者)としての役割を持つ。人の噂話や話題でメシが3杯おかわりできるタイプの人なので休憩時間に他のおばさん連中にある事ない事を触れ回り、ディスカウント行為をしているようだ。
こちらが何に対して心配し怒っているのか、どう思考して窮屈な中で言葉を選んでいるのか忖度せずに「あの子は態度がでかいからあかん」「プライドが高いから受け入れられへん」とか、おおよそ自分たちの責任は抜きにしてこちらが「大人になりきれない餓鬼」のようなイメージを刷り込ませていく。

反論するとこども?、「それは違う」を言わせないのがおとな?


少し横道にそれるが自分で餓鬼という単語を出してなんだが自認もある。しかし、物事はすべからく正しい理論とか真理によって正しく処理されなければならないという強い想いがある。私の人生は中立客観視できない人間からの迫害の連続である。そういった境遇にいるのは私だけではないが、私自身のやり方として言論でもって抗する方法を選んだ。
一見、合点がいく理由を用意して貴方の方法は間違っているというおよそ教条主義的で融通の利かないモラルハラスメントはどこでも横行しているのではないかと懸念する。特に食品会社においては「衛生的である為に」という金科玉条として安易に従業員の休憩時間までも縛ろうということがある。
私の職場は休憩時間ですら帽子を脱ぐことは許されない。
「ルールを守るのが大人である」という刷り込みが世間では一般化しているのだと思うが、「ルール=全てにおいて正しい」という誤解があるために、このルールというものを疑う時期がいくつかの組織や世間では来ているのではないだろうか。
日本人は倫理的意識が基本的にある人々だ。だからルールを策定する側も倫理が高い人であり間違うはずがないと安心しきっていると思う。その点を論じることを面倒だと考えるきらいもあるように感じられる。なにかしら納得できる理由があればそれで十分という事も多いのではないか。
しかし、個人の行動を大きく制約し自由を奪うというルールというものには異議を唱えなければ、豊かさが組織に収奪され続けてしまうだろう。

気になる商品の出来は…

こういった出来事があって、特に白身に関しては出来栄えを重視し、白身の飛び散りについては置き方でなく手に付着することが原因なので白身を落としてから黄身を置くことにした。白身の見た目に関しては普通~中の上から、最低でも中の上以上の出来栄えになった。置き方は高さは同じように低い位置を維持しつつ基本は変えずに行ったが黄身が割れることは、黄身が指で傷つけたり自覚できることを除いてはほぼなかった。
見た目は悪くないので結果としては良い仕事をできた。

当然ならこの陰湿悪女どもはその結果を褒めることはなかったし、吟味して入れ方の問題ではないという事はしなかった。
彼女らは攻撃性においてはディスカウント的嗜虐心で主張するが利益にならない物をわざわざ褒めたりはしないのだ。
エモーショナル(感情的という意味)な理由で動く人間と理によって動く人間の差は結果に出る。
自分のやり方に自信があると思う人はそのやり方で結果を出すことにより批判を覆してほしい。
そして、結果として誤ったと思った時には間違っていたと認める勇気もあるといい。
(ただ多くは嗜虐的な理由なので論理形成と結果が伴えば誤ることはほぼない。その対象が流動的か固定的かの判断もある)

仕事の難易度や働く人間の品位やタイプは異なるが、こういった卑劣な集団への抵抗予防を怠らないようにしてほしい。
大阪おばちゃんのように仲良くできそうと思っても、付き合いにくい出来事が過去にあったなら注意しておこう。
批判される出来事があったら愉快犯的にフワフワと便乗して復讐を遂げようとしてくる。まず人間的にドライかウェットな人間か見定めて対処するのも良いだろう。

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2015年7月 5日 (日)

新幹線焼身自殺 甘える老人に食いつぶされる日本

新幹線で焼身自殺をした林崎春生容疑者がニュースやラジオ等でも取り上げられている。   
焼身自殺をした背景には「どれほどの苦難があったのだろうか」と想いを寄せないわけではないが、一切の同情が出来ない。

 

まず彼自身は、月12万円の年金という非常に年金生活においては現役世代が羨むほどの年金を受給していたということ。   
確かにお金があれば幸せとは限らないし、幸せのカタチは他にたくさんある。しかしそれも十分なお金により生活が成り立ってこそである。   
   
趣味や楽しみがなかったかといえばそうでもなく、パチンコやアルコールなどに金を注ぎ込んでいたとも聞いている。   
十分なお金をもらっておきながら己の不甲斐なさを行政に転嫁して(あるいは若者に対する恨み言もあるかも)「年金が少ない」だとか・・・   
「甘えるのもいい加減にして欲しい!」

 

年金の額としては少ないということはなく、辛坊治郎というテレビ業界の稼ぎ頭的な人でさえ、厚生年金の月の満額は20万円丁度だとか。   
現在の年金行政は若い人の年金を年金世代に横流しする賦課方式という方法が取られている。現役世代の納付が直接、高齢者の懐に入っている。   

 

高齢者信仰という洗脳

 

いま年金を受給している世代が「俺達が働いてきた時にたくさん納付したんだから何が悪い」という発言がありそうなものだが。   
私の母に対して私が年金の受給格差を説いたところで「今のお年寄りが頑張ってきたからそれだけもらえている」という実態に基づかない感情的な発言をしている始末だ。    
そして子である私に対して、年金の高さや年金機構・社保庁の不祥事など現実的な問題を内科のようにスルーして「年金はみんなが支え合って成り立っている年金をまじめに払え」「日本の社会を支えてきたのだから」と言う。

   

違う    
年金については      
「少ない現役が支えているのだ、年金受給世代が若者を年金で支えてきた事実は存在しない。ただ食いつぶしているだけだ」。         
社会を支えてきたというのはそうだろうが      
「年金医療制度設計に失敗し先細りさせた責任はとらないのか?責任も取らずなぜ現役が過重な負担を強いられるのだ」      
      
恐ろしいことに私の母はケアマネージャーという老人の介護計画や相談を受ける仕事に就いている人間だ。介護福祉士など介護の資格は沢山あると思うが、結構地位のある仕事ではないだろうか。      
お年寄りが好きで介護をする人も多いのだろうが、この母の例を鑑みて、高度な介護職員の中ですら現役と高齢者への需給バランスにおいては思考停止状態に陥り、高齢者に対して献身的な奉仕者に成り下がってしまうのだ。

    

お年寄りに最も近く恐らく問題点を把握しているであろう仕事に就いている人間が中核を担っているのかと思うと、日本の医療を含めた高齢者行政は非常に暗いものだ。業界の内側から体質改善を望む声が出て欲しいが、恐らく現場の人間からしたら日々の業務を滞り無く行うことにしか頭がまわっていないのではないだろうか。

   
   

私自身ヘルパーの研修に行ったが、研修にもかかわらず非常に排他的で、生ぬるい「お年寄りの方とふれあい明るく楽しそう」といったお花畑発言でも言おうものなら、過不足なく敵意感情むき出しに「そんなものじゃありません」とピシャリと言われてしまう。      
では「お年寄りの方は生きているのが辛そう、現場の人は高齢者と自分たちの将来を重ねると気持ちが持たない」なんていえばいいのか。      
気の利いたことなんていえないし、業務に対しての“気づき”もその余裕もありはしない。現場の苦労は入ってみないと理解できないから軽々にも言えない。施設の一端を担うベテランにしては明らかに余裕がなさすぎだった・・・。

   

国民年金保険料開始直後、なんと格安の100円!

 

これを見て欲しい。日本年金機構の『国民年金保険料の変遷』についてのデータである。   
国民年金の制度が始まった昭和36年4月~昭和41年12月の開始時期の月額保険料はナント驚きの100円である。しかも、物価も易い時代であり、高度成長時代、バブル景気など経験し、終身雇用など保証されていた時代を経験している。強かったであろう一国一城の主的なマイホーム信仰や子供を産めよ増やせよの団塊の世代も経済が豊かであった証拠である。   
非正規雇用に抑えられ賃金は200万円以下に抑えられ、年金、健康保険、税金地獄。自動車、マイホーム、子供?、そんな時間も責任もお金のかかることに現役世代が気を払う余裕は寸分もない。これが貧困にあえぐ多数の現役世代の現状である。   
このままいけば現役世代が年金をもらう頃には受給年齢は引き上げられ、今よりもっと受給額が減っているはずだ。   
   
ただ食欲や性欲というものは厳然として存在しているので、昔とは違う形で欲望を満たす産業に対して金を払う構造ができ始めている。経済的な理由がかなり強いのは間違いないが価値観の変化が起こっている。ただこれも現役世代の懐が潤わなければ商売が成り立たない。   
お金がなくても、SNSでイラストを見せたり、ワイワイガヤガヤ馴れ合うだけで楽しいという層が多すぎるのも問題で、対価に金銭を払うという段階を踏む必要がある。インターネット・ウェブ内に無数に広がる精神的感情的なよろこびを満たすサービス群も沢山の作り手の努力によって成り立っているのだ。

 

年金だけじゃない国民健康保険

 

高齢者の病院をサロン代わりにしたり、飲まない薬を大量にもらって医療費を高騰させ、健康保険の負担は増えるばかり、健康保険は良いサービスには違いないが医療費の高騰はなんとかしてほしいものだ。

 

不祥事組織 日本年金機構(社会保険庁)への不信

 

直接的な出費のみならず、年金を運用しているのが消えた年金問題やグリーンピアなど不正流用を起こした社会保険庁(現在の日本年金機構)が運用していることだ。最近では日本年金機構が大規模な個人情報流出が発生している。

 

焼身事件の社会的影響

 

何か事件が起こると、急激に規制を強め硬直がするのが我が国の方針で危険物の持ち込みに大幅な検査や警備等人手を割くことで費用が増大するおそれがある。安全対策には設備投資によって補う部分もあるだろうが、それが出来ない場合は人的な負担として業務が増える事があるだろう。

 

国民の税金は打ち出の小槌ではない。現在の苦しい経済状況は長い目で見て子孫繁栄の途を絶ち、大きな禍根を残すのは疑いようがない。   
現役世代には大幅に税負担を軽くしないと家庭を成り立たせるぐらいの余裕は生まれない。   
税金をいいカッコのために景気良く海外にばら撒くぐらいなら、デフレ対策のために役立てて欲しい。

 

日本政府や日本人はお金の使い方を間違っていないだろうか?

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2015年1月17日 (土)

カエルは大海を知らないのか? ことわざ『井の中の蛙―』を考える

いわずもがな現在でも見識が狭い人に対してつかわれることわざである。
しかしなが「『井の中の蛙』は本当に見識が狭いのだろうか?」という疑問がかねてよりあったのでその部分に対して個人的な解釈を考えてみようと思う。

『井の中の蛙』は本当に見識が狭いのか?

広い世界を知っていた方がいろんな知識や世界が広がっている。アクティブな活動もしやすいだろうその考え方が悪いという疑問は一見ないように見える。
しかし、それが絶対的な『善』であると論じるのは間違っていると思う。
間違ってはいないがこのことわざはどちらかと言えば物事を論理的に考えない人ほど使いたがる側面から一部で意図的な詭弁(論理を捻じ曲げて正当化する論)が行われているのが問題である。
執筆しながら「『井の中の蛙』というのは専門性を追求した人との敬意とか過程が含まれていないばかりか、ひいては井の中の蛙で成功した人をも切り捨てる暴論ではないか。」という思いに至った。

後に続く『されど―』

ざっとGoogleで検索するだけでもいくつものパターンが散見され造語として考えたようで、日本側でされど―の文章が後付けされたという事らしい。
・されど空の青さを知る
・されど空の高さを知る
・されど空の深さを知る
何が主な造語の由来になっているかは調べることができないが説得力を持つ内容である。ある人によっては「負け惜しみ」という言葉で否定的に言われている場合があったが違うと思う。(そもそも何に対しての勝ち負けというきもするが)
大海に出ても大きな物を得る人は得るし、井戸の中の蛙でも大きな物を得る人は得ると思うからだ。それを分けるのは結局は人間力だ。

大海を知る事は良いことなのか?

確かにいろいろな目新しい情報や異なる慣習や文化、考え方に触れられるし比較検討する物が多いので大海に出た方がいろいろな選択肢が増えて大きな世界が広がっているように思える。しかし個人が生きる上で把握できる世界というのは限られる。豊かさのなかにあっても個人の中で認知されるはんいでしか世界は広がらないのだ。人間の質によっては文化的業績を高めることもあるだろうが愚か者であれば大海の良さを理解できずに果てるだけだ。

視覚的には異なるものに触れて大きな何かを知ったような気分になるが本質的な精髄をも理解まではもっと突っ込んで考えないと理解することはできない。
大海に出たからとて広く浅く知ることなどはほとんど意味をなさない。では逆に広く深くとなると人間の処理能力の問題でかえって情報過多で埋没してしまう。

実際のところはすでに情報過多の時代で情報に追いつけない人がでて情報格差が生まれているし、ある年代で常識とされていた知識や事柄、倫理、事象等々が若い世代から欠落し始めている気がしている。別にひがみ的にいう気はないが、これを若い世代の台頭というには怠惰さと単なる惰性に溢れすぎている。またこの怠惰と惰性を変に美化しようとする世代が出始めたことに危惧を覚えている。
一部若者の動きに関しては現象的には大海に出たはいいが溺れてしまった上に突然変異で有毒物質に変化してしまったといっていい。^^;
ネットがない時代であれば常識や流行、知識もある程度は収束して一元化されていた。いい意味でも悪い意味でも非常識とされる行為は自重するような空気が存在していた。だが今は情報過多の時代で共通知が失われてしまった。

例えば『恥』、『謙虚』、『努力』などそういった感覚が一部でかけている事が見られることが多くなったのだが、誰かが作った文化的な土台や文物に対して敬意を払うことなく、良い部分をおよそエッセンス的に上澄みを掠め取り(学習と言えなくもないが少し違う)まるで自身の手柄のようにふるまっている行為が散見される。
若者が主導しているインターネットサービスの多くは馴れ合いによって成り立っている。楽しい感情を共有したり褒め合ったり仲間外れにならないように振る舞っている。「楽しけりゃいいじゃん」的な軽さもさることながら、その為なら「ルールとかやり方が間違っていても関係ねぇ」的ないい加減さも伝わってくる。
目立つ事をすれば大胆で破天荒でカッコいい的なノリはツイッターのバイトテロでもよく見られている。

執筆中に思った事だが成人してしまえば我々はすでに大海に出ている。その中で社会的に好ましい人物が形成されているわけではない事を鑑みると大海に出る事はいい事ばかりではないという事だ。
大海で新しい情報が生まれそれを適切に取捨選択できないだけでなく人格形成にまで影響を及ぼしているとしたらネットが発達した情報社会というのは罪深いものではないだろうか。

現代においての『井の中の蛙』から見ることわざの存在意義

先に述べたように無知な人ほどこのことわざは使いたがる傾向がある。というのもこの手の定型句に飛びつく人が必ず存在していておよそファッション感覚で使いたいだけで中身は深く考えようとはしない。多少なりとも論理的に物事の本質を考えたいと思った人であれば、『井の中の蛙―』という言い回しはもったいぶり過ぎて言うのも恥ずかしい。
定型句は非常に使いやすく一定の説得力を持っている事がほとんどだ。とはいえ耳触りがいいだけで中立的とか良い視点が欠けている事もある。
この言葉を使いたがる人は人間関係で上から物を言って上下を作りたがる人で、人を傷つけるにはそれなりに影響のある言葉で使った時点で対人関係で無配慮な人格が見て取れ、当然ながら相手が本当に『井の中の蛙』なのか判断する気などさらさらないのが分かる。ありきたりな『井の中の蛙』という意味以上に解釈を発展させる気もない。上記のことからも他人に言われるのではなく自嘲気味に言うのが適切な言葉である。

またことわざというのが昔以上に形骸化していて、四字熟語的なものはともかく長文ほど使えるシーンは少ない。
初歩的であることわざ、大袈裟で無配慮、なことから使う機会は少ないと思われる。
年齢的な部分でことわざを有り難がっていた年代の人で中高年以上が条件的にも使いたがる年代だろう。
こういう事を書いておいてなんだが『思考の整理学』というロングセラー書籍を出した外山滋比古さんの著書の『わが子に伝える「絶対語感」練習帳』でことわざの良さについても書かれているので興味があれば読んでみてもいいかもしれない。

井の中にありながら宇宙を見る人々

では井の中にあり続けた人は大海を知らないのだろうか?いやそうではない。
けして広くはないが一つの物事を続けることで狭いながらもその中において大海どころか宇宙の高みにすら達した人がたくさんいるではないだろうか?
言い換えればそれは専門を極めるという事であり成功した人はプロフェッショナルとして社会的な敬意が与えられる。
それこそ愚直なまでにやり抜いたからこその成果であり、ことわざでいえば『雨だれ石を穿つ』と言えるのではないか。

日本には現在でも職人として何十年も井戸ほど狭いとは言わないがある種の職人的世界を維持形成し続けている人々がいる。
以前テレビで見た安芸太田町の鍛冶屋宮島のしゃもじ職人などもそうだし、ほかにも和菓子職人や豆腐職人など沢山職人がいるが
言ってみればその世界において“宇宙”を見出したから職人と呼ばれるようになったのだろう。

ちょっと前に漫画『ヒカルの碁』などで囲碁ブームが起こった。この漫画の中で囲碁を宇宙と比喩する場面があった。囲碁を宇宙と形容する慣習というか囲碁人(?)の共通認識としてあるのかはわからないが、検索で出てくる囲碁サロンさいたま新都心様なども宇宙としている。碁盤の目に白黒の碁石を乗せる単純な構造ではあるが囲碁をやっている人の頭の中ではおそらく何通りもの戦術を試行錯誤が行われているのだろうから宇宙と言って過言ではないのだろう。

格闘ゲームにも似た部分が感じられる。私にはストリートファイター4を仕事から帰ったらずっと続けている知人がいるのだが上に上がる為に毎日練習を繰り返している。skypeで会話をしているときなどはいつもジョイスティックの音が聞こえているが努力するのが当たり前。その上で更なる上積みを重ねる必要があるらしい。東京に行ったときには一度だけウメハラを倒せたらしい。

どこそこの大学教授なんていう人々もある意味で井の中にあり続けたからこそだろう。私の在学中の恩師は山口県の歴史に関する書籍など出されているがこれも山口県の歴史を続けてきたからと言えるのだろう。

またこれもテレビからの浅い記憶からだが熊谷守一という画家も言わば井の中で宇宙を持ち続けたといった人らしい。参考文章を見ると30年間も庭の草木や昆虫などの生き物を観察して絵に描き続けたという事だ。

区別されるべき『井の中の蛙』

いわれてもしかたがない『井の中の蛙』というのもある。
10代とかでまだかわいいのであればあれば許せる場合もあるだろうが、多くは目立たなければ問題ないが余りに自分の考えや行為が見えずに排他的で傲慢すぎる場合は仕方ない部分はある。
でも実際のところは相手の考えている部分を理解しないとわからないだろう。言いたい人も言われる人も物事を理解しようとする努力は欠かせない。

子供のころは無知だから問題はない。大人の蛙の中でも物作りや研究的な人でも害にならないし問題はない。
おそらく問題は他人に侮られないよう虚勢とか強がりを拗らせている可能性が高い人々だろう。
自身の無力感とか他者に対して弱みを見せないようにしたりとか、あるいは本当に愚かなケースが想定される。

虚勢・強がりであれば心に余裕を持つように促すことだろう。直接言うのはカドが立つので避けた方がいい。
自分が大人になってそれなりに話を合わせてやんわりと理解してもらうのが近道だろう。
こちらに余裕があればしっかりと受け止めてみるのもいいかもしれない。

私は意図的に井の中の蛙になるのも悪くないと思っている。
普段は気にしない事でも生活の細部の変化に喜びを見出したりすることで小さな事かもしれないが日々の生活がちょっとだけ明るくなるかもしれない。

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2012年12月15日 (土)

日本昔話のED曲「にんげんっていいな」考察

昔テレビで親しまれていた日本昔話のエンディング曲「にんげんっていいな」という曲なのだが、歌詞の表現が直接的でなかったせいか今でも意味に疑問を持っている方が多いようだ。今回はいくつかの疑問を掘り下げていきたい。

 

「にんげんっていいな」

山口あかり作詞・小林亜星作曲

くまのこ見ていた かくれんぼ
おしりを出したこ いっとうしょう
夕やけこやけで またあした
またあした

いいな いいな
にんげんって いいな
おいしいおやつに ほかほかごはん(注)
こどもの かえりを まってるだろな
ぼくもかえろ おうちへかえろ
でんでん でんぐりかえって
バイ バイ バイ

もぐらが見ていた うんどうかい
びりっこげんきだ いっとうしょう
夕やけこやけで またあした
またあした

いいな いいな
にんげんって いいな
みんなでなかよく ポチャポチャおふろ(注)
あったかい ふとんで ねむるんだろな
ぼくもかえろ おうちへかえろ
でんでん でんぐりかえって
バイ バイ バイ

いいな いいな
にんげんって いいな
みんなでなかよく ポチャポチャおふろ(注)
あったかい ふとんで ねむるんだろな
ぼくもかえろ おうちへかえろ
でんでん でんぐりかえって
バイ バイ バイ

※歌詞は某所から転載しました


『おしりをだしたこいっとうしょう』~1等賞とは?~

誰もが最初に引っかかる部分は多分ここだろう。「かくれんぼでお尻を出した子がなぜ一等賞に?」と思うはず。この事について考えを述べる掲示板では例えばこういう考え方があった。(以下は便宜的に番号を付ける)

1「人間は尻尾が生えていないから1等賞」
2「くまがルールが分からず勘違いしたので1等賞」
3「みんなを驚かせみんなが一斉に出て来させて一気に捕まえたから1等賞」
4「わざと負けて良い引き際を見定める事が(人生では)1等賞」

しかしながら、私は上記の考えはどれも間違っていると考える。1については動物と人間の違いはあっても尻尾の有無については触れていない、2は勘違いするほど熊もモグラも人間について無知ではない。(後述の『動物と人間の関係と社会性』で述べる)3は飛躍しすぎ、4は確かに人生の真理だが妥協を覚えるには早すぎでそもそも歌詞がそこまで深く掘り下げられない。

確かにこの歌詞のみに着目すれば『いっとうしょう(1等賞)』という歌詞が何かしらの比喩など別の解釈を考えてしまう場合もあるようだ。まず1等賞が意味するところが明確になっておらずある程度定義づけが必要だ。そこで2番目の1等賞に該当する歌詞を見て比較してみよう。

1『おしりをだしたこいっとうしょう』
2『びりっこげんきだ いっとうしょう』

という歌詞になっている。この歌詞からは遊びでも競走でもどちらも「負けた子が1等賞」である事と同時に「1等賞の子の性質」が分かる。
昔から子どもの教育的な考え方勉強が出来なくても良い所を見出そうとする見方は確かにあったと思う。あまり無理がない発想ではあるし、少なからず勉強や運動に捉われずできるだけ子供の長所を引き出し伸びていく可能性を信じたい親の希望的観測と子供に対してのおおらかで寛容的な見方を親たちに与えたに違いない。
またこどもたちにとっても我が子の成績に執着する親の気持ちを少しばかり緩衝してくれる役割を果たしているかもしれない。(親の気持ちは子供にとっては重圧になる事もあると思うので )

子どもの性質については2番目の歌詞では『げんき』な子供、1番目の歌詞は直接的ではないもののかくれんぼで尻を出してしまうあたり『ドジ』・『どこか抜けてる』といった子ども像が浮かび上がる。

つまりは“負けてもいいんだよ”という事が言いたいのだと思う。なぜ断定せず思う”かというのは1番目の子に長所が見つけられなかったからだ。2番目の子供は負けたけど元気、1番目の子供は鬼に見つかったけど長所がない。なので決定的な確信に至らなかったためここは直前で留め置く。
しかし、また改めて一歩引いて考えてみると動物の視点から羨ましがられている事を考えると“人間として人間らしい生き方が出来るだけでいいじゃないか”という考え方も見えるので1番の子供に長所がなくても人間として生まれた来ただけでも“いっとうしょう”と言っていいのではないだろうか?

(前述の他者の考えの3番を一応補足すれば“お尻を出す=奇抜な事をした”と考える人がいるがこれは間違いだろう。かくれんぼだから尻を隠さない場面がストンと理解できるのであって、仮に鬼ごっこや缶蹴りなどでは尻を出す場面は理解できない。)

『にんげんっていいな』~人間って素晴らしい~

この歌は熊とモグラの視点から人間を羨ましがる内容となっている。羨ましい事としておやつにごはん、子供の帰りを待つ家族、家族団欒でのお風呂や布団などに触れられている。動物だからこそ人間が良いなと思うわけだが、ただ良いというだけでなく、その前にかくれんぼや運動会で負けた子のエピソードを挟むことで失敗に対してのフォローが入っている。『いっとうしょう』という単語はそういうフォローの象徴的単語と言ってよいだろう。 説得力もより高まる印象となる。
なにはなくともともかく『いっとうしょう』で慰め、(「君は悪くないんだよ」って言い換えても良いかもしれない)そこから「人間らしく生きられるだけでいいじゃないか」という考えにつなげていく訳だろう。

動物と人間の関係と社会性

動物は人間の子供の様子を傍観したり想像して羨ましがっているだけで子どもたちに加わって遊んでいるわけではない。そしてかなり人間の生活に熟知している。かくれんぼ、運動会、お風呂、睡眠方法、おやつとごはんの違いまで理解している。

表現される動物像によってもまた異なる場合も考慮した。作品によってはおよそ人間らしい考え方や動作をするほぼ人間と変わらない擬人化された動物、人間の事をある程度までは理解でき考え方を読者から客観的には読み取れる動物、物語中でも特に意思表示せず全くの動物そのもの等々色々差がある。
童話のごん狐などの『ごん』はその中間的な立場ではないだろうか。

熊とモグラの位置づけから考えると人間の生活様式を知っている分、擬人化的性質は高い段階にあるとみて良い。
なので動物たちは人間についての知識での誤解は少ないとみて良い。

総評

『いっとうしょう』についての歌詞が不足しているので決定的な説得力が不足していたのが気にかかっていたが、勝ち負けにこだわらなくともいっとうしょうになれるという事を言いたいという事に違いないだろう。

ここまでの上記の考えを導き出してまた翻って「動物が『いっとうしょう』を勘違いしたのでは?」と他者の考えおもねる恐れがあったが、そもそもその考えは筋道を立てて考える姿勢とは異なる単純な考え方に依拠しているので自分の考えとは似て非なる物なのだと思い直した。
人間の生活様式を熟知している点もかなり引っかかる。そんな彼らが『いっとうしょう』の意味を誤解するだろうか?
かくれんぼも運動会も理解しているのに直前で『いっとうしょう』だけ誤解している素人のような間違いをするだろうか?これは理解した上で『いっとうしょう』と言っていると見た方が良い。そこでもう一度2番目の歌詞を見直してみると

『びりっこげんきだ いっとうしょう』

間違いない。動物たちは高度な知識を有した上であえていっとうしょうと言っている。
『びりっこ』という単語は明確な最下位を表す。 意味を逆に考えてしまったと言うには知識が豊富すぎるのだ。
どのようにいっとうしょうだったのかは想像する他ないが動物たちには子供たちが生き生きとひときわ輝いて見えた瞬間があったに違いない。
(ここで今度は逆に「「びりっこ=1位・勝負に勝つ」と誤解しているのでは?」と考えるのは論述では限界です。そこまでいくと単なる妄想レベルになってしまうでしょうね。(--))

その他の『いっとうしょう』

私の知っている中で思いついたのは丸大ハムのCM(わんぱくでもいいって言い回しが)や広島に住んでいる人ならたぶんわかると思うが花ソーセージのCMなどもある。どんなCMかというと1点と0点ばかりの子供がテスト用紙を並び替えて100点満点に見せたり、雑巾がけをめんどくさがる子が雑巾に乗ってスケートのように滑って拭く様子などの締めに「がんばる子に花ソーセージ」の一言とよくできましたマークで締めくくるCMだ。 (残念ながら動画が見つかりません)
検索で見つけた童話でも『よーいどんけついっとうしょう』という童話はこれも別の意味で『いっとうしょう』になる過程が描かれているようだ。
多分『いっとうしょう』の形は人それぞれ違う事もあるのではないか。
自分に相応しい『いっとうしょう』を見つけて行きたいものだ。
(2012年12月19日加筆修正)


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2012年7月19日 (木)

「いじめ」について少し考えてみる

大津市のいじめ自殺の話題に関連する記事や報道が過熱している。新事実の発覚や芸能人のブログやツイッターなどの発言もあってか事態が沈静化する気配はまだない。
行き過ぎている面があるかもしれないが、多くの人が広くいじめ問題に目を向けるいい機会になった。
学校・教員らの保身的な隠蔽体質がつぎつぎと露呈(我慢すれば丸く収まる口止め見て見ぬふり)これはどうあっても看過できない事柄だ。


「いじめ」と「いじる」境界

このいじめ騒動に言及している芸能人ではロンドンブーツの田村淳が何かしら述べているという。
感情的な表題で”「いじる事といじめを一緒にしないで欲しい。僕はいじめられた経験はあるがいじめた事はない!」 ”といった具合に言われている。恐らく普段の芸風が激しいらしいのか自身を正当化しているように見えるのだろうか。しかし彼の言っている事全体を見れば言ってる事は間違ってはいない。

芸風により誤解を受けているかもしれないし、発言のまとめをみる限りではいじるいじらないの話題は他の方からの返信であり、自分から言い始めたわけではないので正当化とも違う。今回の事件うんぬんはともかく違いはあるわけだし。

確かに私もお笑い芸人を見て「まるでいじめじゃないか」という感覚を抱くことは確かにあった。お笑い芸人の中には嬉々として(?)体を張ったリアクション芸人という物が存在するし、出川哲郎やダチョウ倶楽部の上島竜平はいじられキャラを確立してる感がある。いわゆる「ヘタレ」がにじみ出ているという点とその反応にどこかしら愛嬌があるからではないだろうか。

しかしながらその中には見ていて気分のいいものばかりではない。笑い所がつかめないただ暴力を振るってるだけにみえる事が下記の動画やナインティナインの番組で見た記憶がある。芸と理解しようとしても集団で恐らく痛いと想像できるバスケットボールを浴びせかけられるのは見ていてこちらまでも痛々しい思いになる。


「いじめ」と「いじる」の境界線は線を引きにくい所がある。相手が不快に思うレベルが度を越してしまうと本当のいじめになってしまうから、いじるにしても多くいじりすぎないようなさじ加減が要求されるし、例えばいじる本人は周囲に目立つ”いじりやすい要素(髪型・仕草・言葉づかいなど)”などがあったとしても相手に配慮して気分を陰鬱にさせたり立場をあまりに悪くしない範囲とどめる必要がある。いじられる相手もそれを半ば了解の上である必要もある。日ごろからお互いの信頼関係を築いておくのもいじめにならない重要な要素と言える。
多分「いじる」事にはそれなりのバランス感覚が必要だという事なのだろう。

粘着テープや鉢巻きで手足を拘束したり、蜂の死骸を食べさせられたり、暴行したりこれら証言が事実でそれを市教育委員会や学校側、教員らが見て見ぬふり(見過ごせるレベルを超えているのでは)をしていたならとんでもない過ちを犯している。

このような方々には教育の現場をぜひとも退いてほしいものだ。教師だからと非の打ちどころのない人格者を求めるつもりはないが、出来る事すらやれなかったのは教育者としても、それ以前に1人の人間として大きな欠陥があるという他ない。

実体験としてのいじめ

私自身も過去にいじめを受けたことがある。やたらと突っかかってくる生徒がいたが、当たらないまでも振り払うように拳を出したためか喧嘩両成敗的な対応をされた事があった。実際はこちらが手を出された方が多かったのに、たった一回の抵抗だった。手数の問題ではないと言えばその通りだが、手を出されるたびに小さく落ち込んでいった気持ちを回復する捌け口を私は用意することはできなかった。その捌け口は今も見つかっていないかもしれない。

私自身、そのことを具体的に対処する事はできなかったし、周りの人間に自分の事をな理解を得られてはいないという思いが残っている。そして強烈に私の事を否定されたという思いも残っている。

自分の気持ちを正直に出せるように生きていきたいと思う。

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2011年3月14日 (月)

災害時に際して人道主義について考えてみる。

今回の地震は大きな爪痕を残してしまった。死者の規模は今後さらに拡大し、原発の崩壊と茨城沖など関東周辺を震源とする地震の多発から2次的、3次的な被害が想定され事態は切迫した状況だ。このような事態では、被災地にメッセージを述べる方、物資や金銭を寄付する方、ボランティアを買って出る方、折鶴を送ろうとする方、色々な人が様々な支援の意思を表明する。

しかし、このような行為には必ずしも好ましくない支援も存在している。救援物資といいつつ実は不用品や扱いに困るものであったり、大量の折鶴など送る側のエゴにより行われる一方的な行為が被災地の悩みの種になっている。こういった行為がよくあるのかWikipediaでも“第2の災害”と定義されているらしい。これは先日起こったタイガーマスク伊達直人の養護施設への連続寄付事件にも通じるものがある。

寄付文化などが育つのは悪いことではないがやはりエゴも強く健全な寄付とは言えない現実もあるようだ。養護施設の方の本音はランドセルなど現物は手間や対応などもありお金の寄付のほうが助かるという。寄付したからと言って感謝を求めすぎてしまう人もいるというのは考え物である。 また不要な寄付や支援は扱いに困ったり半ば廃品処理と化してしまうだろう。

深く掘り下げないが共通点の列記とどういう人達が何を意図しているか考えてみた。基本的には善意からの行為ではあると思うが。

・本当に必要な支援を理解していない。(良かれと思ってやる人、何を寄付しても役立つだろうと思い安易に寄贈する人)
・不自由な境遇の人を思う気持ちより支援したい気持ちが優先している。(上記下記とかぶる。気持ちばかりで空回りする人)
・支援することそのものに意義があると思い込んでいる。(恐らく低所得者、金銭的にケチな人、精神的欲求に比重を置く人、やらない偽善よりやる偽善論者も含む)
・一過性で寄付を習慣としていない人が多数参加している。(流行に便乗する目立ちたがり屋)
・物質的支援が少なく精神的支援が強調されているもの。(低所得者や便乗者、金銭的にケチな人、精神的欲求を求める人、「お金のかかる物は寄付できないが出来る限りの気持ち」を表したいと思われる。)

エゴと正当な支援の境界線

では、エゴと正当な支援にはどれほどの差があるのだろうか?
先にもエゴと言ったが、簡単に言えば人間のすべての行動にはエゴが存在していると考えている。それはどれだけ崇高な意識で奉仕を行う人であっても”自らの奉仕したい気持ちを満たす=エゴ”ではないかと思うからだ。しかし、役に立つ立たないでは雲泥の差がある。
そして本当に助けになる支援者に対しては最大の敬意と感謝を報酬として払うのが支援された者の礼儀というもので、役に立ったと思うならニワカ支援者であっても見返りとして感謝の言葉ぐらいは言ってもいいかもしれない。

単純化すると全てエゴとして考えると、次は支援内容の程度の差に目を向ける必要がある。基本的に支援したい気持ちには差はないと考える。(本来なら支援した量も考慮に入れるべきだが本来個人の支援は微々たるもので量ではなく感謝の気持ちによって評価される性質のものであり、個人や団体など支援した量は相対的には差がないと考える。ただ個人でもまとまった一定量の支援でなければ迷惑になってしまうこともあるだろう。)

しかし、被災者は支援の気持ちだけでは食っていけない。基本的にエゴと正当な支援を分ける境界は”気持ちの差”、すなわち“支援した充足感”と“役に立ちたい気持ち”のどちらが勝っているかによると考えるが、”具体的な支援活動”もセットでなければ全ては独善的なエゴにしかならない。災害支援は個人のお手軽な支援では迷惑にしかならない。

誰のための支援なのか?を考える

折鶴や手紙など気持ちが温まる支援というものもあるが使い所を間違えば迷惑だし実際に役立つ機会もかなり少ない。支援される側にとって必要としているものを最大限生かすように専門の支援団体に寄付を考慮したり、独善的な考えは控えることが肝要だ。

大惨事の前に助けたい気持ちが刺激されるのは良い事だが、特別なことと考えず日常生活においても不幸な出来事が日々起こっていて、そういった不幸な気持ちを当たり前に支えていく意識を育んでもらいたいと思う。 こんな時期だからこそ余力があれば進んで助け合うべきだし、積極的に支えていくべきだが、日常において不幸や困難を支えられる人こそ本当の人道主義者として評価する社会であってほしいと願っている。
本当に役立つ支援ならあえて細かい事はいう必要はないが、支援はまず”自己を満足させるのでもアピールする機会でもなく、被害者の為にあるのだ”ということを念頭に置いて行ってほしいとおもう。

命の尊さについて(3月22日追記)

3月22日時点で警察庁の発表で死者行方不明者2万2885人に上る。本当にわずかな時間に災害における死傷者は類を見ない被害をもたらした。しかし、衝撃的な出来事ではあるが日本で年間3万人の自殺者が出ている状況にも目を向けてほしいと思う。
人が自ら自殺を選択する背景には個人が社会に排除される背景がある。社会は個人が作るものであり、そして個人が集団になると閉鎖的な空気を作りだし、間接的に自殺に追いやってしまう我々なのだという自覚を持たないといけない。

日本人に「命」とは何か、「生きる」とは何かを考える時期が来ているのではないだろうか?

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2009年6月10日 (水)

別の概念を受け入れる必要性

人が生きる意味は始めから存在しない。生物学的な種の繁栄と存続や宗教的に考えれば意味はあるのだろうが、これも後付けで人間が作り出した概念に過ぎない。生きている中で様々な事に努力して、没頭する事で価値のあることを見出しながら生きていく事になる。

人生を生きる上で必要な物は一言で言えばほとんど“快楽”に集約されると思う。その先に楽しい事が待っているから人は生きていける。無くても別に生きていけるが快楽を得られる希望を失った人は長い人生の中で途方も無い絶望感をいだきながらすごす事になる。

私自身が実践できているかは自信が無いが実は快楽を得られる事は見つけることが出来る。いつも通る道端に花が咲いて綺麗に思う、晴れた日に気分が良い、いつも使っている物を別の物に変えてみる、普段と違う事をやってみる、自分にとって色々な引き出しを作って楽しい気持ちを絶やさないようにすれば人生は豊かな物になるだろう。

人生が幸せそうな人と不幸に思っている人の違いはこの引き出しの数と、許容量、物の入れやすさ(吸収力)などの違いではないだろうか。何でもない事を楽しいと思う人もいるのに、人間関係や貧困で思いつめて自殺してしまう人もいる。
好きな物があるなら追求していけばよいが、思ったほど気持ちが満たされないことがある。満たすためには色々な物を入れる必要がある。

生きていく基本は勉強にある。違う考え方や知識を入れたりしながら、新しい発想やアイデアを産み出したりして生きていく。喩えれば欠陥の有るパソコンと言った所だ。パソコンは使っていく中で色々なプログラムをインストールして利用する。利用していくと欠陥が頻発するので整備が必要だが、新しい物を作り出せる可能性は常に持っている。
でもまずはパソコンに何か入れることが出来なければ始まらない。無から何かを創造することはできない。既存の物を活かして創造を繰り返すのが普通だ。

別の考え方を拒絶する人はよくいる。正当な理由があり考え方を退けるならまだ分かる。しかし、ただ押し付けのように感じ不快だから、自説を曲げたくないから、嫌悪感があるから、と何でもかんでも感情論で退けることしかしない人に対しては機能不全を起こしているとしか言いようが無い。ハードディスクに不良セクタが発生しているようなものだ。

拒絶する事ばかりでは何もはじまらない。新しい概念を受け入れるだけの下地を作っておくのは誰にとっても損な事ではない。許容できるように物事を吟味する事も覚えなければならないだろう。

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2009年6月 3日 (水)

確かな信頼を備えた情報とは

先日、Youtubeで少し面白い動画を見たので関連して情報の正確性について触れてみたい。

QVCというショッピングチャンネルで平賀さんがイタリア製の保証書(証明書?)がないことに対して怒っている。
確かに安っぽいし、映像では光沢などは嘘臭い演出でゴールドカードなんて何の証明にもならない。

しかし、実際にイタリアの証明書と言う物が付いていたらそれが本物であると言う証明は誰ができるのだろう。
訳分からんイタリア語でいかにも権威がありそうな認証マークでもついていたら騙される事もあるだろう。
写真を添付したところで画像編集や関係のない画像を使うことも出来る。結局証明するには製造工程をわざわざ調べ上げるしか方法はないわけだ。

信頼性を演出している商品などは農業生産者で実名や写真を乗せたり、リフォーム業者のチラシでは担当者の似顔絵を乗せるなどして信頼とそれを補う親近感のようなものを演出したりしている。その他にも色々なマークが付けて分かりやすく良いイメージを持ってもらおうとしている。かといって商品の品質の証明になるかと言えばそうはならない。
偽造する余地は生産・流通や宣伝などにもいくらでも存在させられる。

商品を購入するのはその時のイメージを優先して購入する場合が圧倒的に多いだろう。それはサービスや食品などでいちいち十分な確認をしながら購入する事など現実問題難しいからだ。
いい加減な物を売っていいとは思わないが確かな証明が出来ない以上は不確かな面で信頼性を補うのはしかたがないところがある。

 

その他情報媒体などについて

情報には当事者達が直接的に関わる一次的な情報とそこから人づてにあらゆる手段で入ってくる二次的な情報がある。私達の周りには色々な情報が溢れているが情報の確かさは実はあるようでない。
誰もが一次情報に触れる機会があればよいのだが世の中で見聞きするあらゆる情報、新聞・インターネット・書籍などほとんどは他者の仕入れた情報を色々なフィルターを通して得ることしか出来ない。その情報をより確かなものにするのは受け手の知識と判断能力、情報がどこから入手されどのような団体や機関、著者から出されているかなどの信頼性に掛かっている。

インターネットがない時代、主要な情報源としてテレビや新聞が機能していた。しかし、現在は信頼を損なう姿勢しか見られなくなり、かつての信頼は失墜した。これはネットの台頭のみが問題ではないと思う。それは得られる情報が限られていた為に無条件の信頼に胡坐をかいていた企業側の見通し不足もあるだろう。

実感として説明できないながらもテレビや新聞は主要な情報源としての価値があると漠然と思っていることがあった。そんな目に見えないあやふやな信頼にこれまで支えられてきのだとしたら、現状の信頼不足は致命的だ。
どの番組を見てもバラエティー色が強くなり、確かな情報を期待を持てるのは辛うじてNHKぐらい。政治に関してはとっつきやすさは増したものの、まるで見世物のように軽くなってしまった。一般の関心も観客のように軽薄な意識を蔓延させてしまっている。

情報は確かな情報と培われた信頼こそを味方にするべきなのは言うまでもないだろう。不確かな情報など価値があるはずがないからだ。たった何度かの偽装や捏造により築かれてきた信頼を放棄するのは意味がない。

私たち自身も数ある情報を振り分ける能力が求められている。不確かな物に価値を見出すのは良い事もあるので一概には言えないが、印象だけで物の良し悪しを決めずに、実質的で確かな部分にも目を向けて見ても良いことも多いのではないだろうか。

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