カテゴリー「心と体」の記事

2016年12月13日 (火)

論理的思考を唾棄して感情を意思決定の主体とする人々の異常性について

陰湿な女性の集団リンチに遭遇!?

職場において集団の女性の陰湿さに叩かれた事があった。

私は現在ある全国チェーンを行っている大手会社の弁当を作る仕事をしている。その中の作業では例えばゴマやふりかけを手で振りかけたり、昆布を計量して盛り付けたりなどおよそ弁当工場を知らない人は高度に機会化された職場と思われているかもしれないが、毎日アイテム数によるが数千数万もの弁当の数々は実は人海戦術と手作業で行われているのだ。

その職場作業の一端で卵を入れる工程があったのだが私の具材の入れ方が悪いと言われる。なぜかと言えば「投げる様に入れている」風に見えるらしい。
むろん卵、特に生卵に近い状態なので一定の納得はできる。
だがしかし実際はそれで割れることはほぼなかったし、また私の責任で割れた黄身も自覚しているだけで数えるほどしかなかったわけで…
、言うほど問題のある入れ方をしていたわけではないのに批判するというのは、こうなると残った理由は好き嫌いということ以外にはないわけで…。
これからも仕事上の付き合いもあるのにこういう突き上げには困ったものです。(--)

たかが入れ方、されど入れ方


私はこの作業をやるなかで単純に入れればよいという作業ではないという事を十分に自覚していた。もちろん自信もあるが論理自体もずれているのが問題だ。コンベアの脇に立って卵を入れるわけだがこれが入れる向きによって全く出来栄えも何度も異なるのだ。見た目をよくするためには白身が飛び散らないのが適切なのだが不思議とコンベアに向いてやるのと後ろ向きでやるのとでは雲泥の差が出る。
また男女間の体格差も意外とある。工場の機械は比較的女性が作業しやすい高さになっているのが一般的で私はやや体格がいい方だが、高さが異なるので卵のリリース手法が異なるのだ。掌に卵をのせて置く様にという説明は受けた。理想としてはその通りだと思う。
しかし、背が高いと低い位置に置こうとすると高すぎるし、実践してもう一度考えてみると傾斜が付く。傾斜が付いたところから卵を落としたら狙い通りの位置に置くことができない。低い位置に合わせておくにはある程度は5本の指で包み込んで落とすしか方法がない。またそれ以外にもコンベアの奥側に卵を置くか後ろ側に流れてしまったものに置くかでも角度が付くので一定の置き方は実行できない状態にあるのだ。
だが、この論を主張してそれなりに認められたら仕事をする立場を追われることになるので、ここは避けねばならない事情が存在する。

論理的でない人々の支配的空気


私が「違う」と説明するには相手は論理的ではないし、一言(ひとこと)でも反論しようものなら、こちらが子供的な不真面目を振りかざしている風に扱われるか、「私語を慎め!」的な空気で封殺されて釈明する余地は与えられない。

こちらは一言であえて「やってない!」と論理的でないがかつ一言で語気を強調する方法を取らざるを得なかった。
「気を付けます」と言えば済むかといえば単純でもない。それは私自身が構築した仕事方法の否定となり、論理的でない。“およそ主観的にそう見える”類の言に従うのは言ってみれば私の矜持(きょうじ)、プライドとか自尊心的な物を損ねる結果となる。
仕事に対しての自負心にダメージを受けると、苦手意識を植え付けられるだけでなく、仕事そのもののモチベーションを大きく損ねる。その結果にあるのは離職の他はない。

環境の悪さをものともしない敵対的嗜虐者


極論ではなくこの仕事は立地条件の悪さや慢性的な人手不足、少ない人員であらゆる作業をある程度分業しながら人ごとに一定の得意なポジションがメインの役割として与えられている。例えば職場のFさんはご飯を計量すのがメインの作業でほかの作業を人員の空きがあれば適宜配置する。
私としては一つ一つの作業にモラルハラスメントでかつ嗜虐を目的とした人々にいちいち“ケチ”が付けられるのは避けたいことでもある。
おそらく狙っての事だろうと思うが公開処刑のような事も多々あった。
職場は温度管理されているどちらかといえば寒い。寒さには厚着対策でしのげているが良い環境とは言えない。
商品のでき自体は悪くないし指摘する論点も「黄身が割れる」よりは「白身が飛び散る」ほうが優先されるので違う。
そもそもわざわざ指摘されるほど私は卵を無駄にしていないのだが・・・、そうなると個人の好き嫌いの問題になるのだがそういった論理矛盾を指摘する余地は前述のとおりあまりない。

便乗する愉快犯的な大阪おばちゃん


一旦はそれで終わったがその後、
普段であれば明朗快活に話をしている作業現場にいた別の大阪出身のおばさんと少し語を話しながらやっていたが、先ほどの「投げ入れる」的な話題を強引に便乗させて今度は「貴方のそういう態度があかんのよ」と言ってくる状態に。また論点が卵の置き方が悪いから「黄身が割れる」から「白身も飛び散る」と置き方に起因する問題点を追加して攻めてきた。私はこう思った「何という卑怯な畜生―(ピー)が!OMG!」

先日私と趣味の話を話しているのを見咎められたせいか攻撃性が増している。ただこの大阪おばさんの性質として面白おかしく話ができる引き出しを持っていて人当たりの良さからそれなりの人気があるのだが敵対する相手に対して愉快犯的な嗜虐心を持っている。倫理観が欠如しているので自分の都合の良い事の話題を“盛る”習性を持っているので、私のように攻撃する対象となればちょっとした失敗を論い極悪人に仕立て上げられてしまうことだろう。
今回がまさにそれだ。全体としての出来は普通か中の上ぐらいで問題ないレベルだったのだががそこを無視して攻撃に転じた。

危険な大阪おばちゃん


この大阪おばさんは職場のおばさんの意識を束ねることが可能である種のアジテーター(扇動者)としての役割を持つ。人の噂話や話題でメシが3杯おかわりできるタイプの人なので休憩時間に他のおばさん連中にある事ない事を触れ回り、ディスカウント行為をしているようだ。
こちらが何に対して心配し怒っているのか、どう思考して窮屈な中で言葉を選んでいるのか忖度せずに「あの子は態度がでかいからあかん」「プライドが高いから受け入れられへん」とか、おおよそ自分たちの責任は抜きにしてこちらが「大人になりきれない餓鬼」のようなイメージを刷り込ませていく。

反論するとこども?、「それは違う」を言わせないのがおとな?


少し横道にそれるが自分で餓鬼という単語を出してなんだが自認もある。しかし、物事はすべからく正しい理論とか真理によって正しく処理されなければならないという強い想いがある。私の人生は中立客観視できない人間からの迫害の連続である。そういった境遇にいるのは私だけではないが、私自身のやり方として言論でもって抗する方法を選んだ。
一見、合点がいく理由を用意して貴方の方法は間違っているというおよそ教条主義的で融通の利かないモラルハラスメントはどこでも横行しているのではないかと懸念する。特に食品会社においては「衛生的である為に」という金科玉条として安易に従業員の休憩時間までも縛ろうということがある。
私の職場は休憩時間ですら帽子を脱ぐことは許されない。
「ルールを守るのが大人である」という刷り込みが世間では一般化しているのだと思うが、「ルール=全てにおいて正しい」という誤解があるために、このルールというものを疑う時期がいくつかの組織や世間では来ているのではないだろうか。
日本人は倫理的意識が基本的にある人々だ。だからルールを策定する側も倫理が高い人であり間違うはずがないと安心しきっていると思う。その点を論じることを面倒だと考えるきらいもあるように感じられる。なにかしら納得できる理由があればそれで十分という事も多いのではないか。
しかし、個人の行動を大きく制約し自由を奪うというルールというものには異議を唱えなければ、豊かさが組織に収奪され続けてしまうだろう。

気になる商品の出来は…

こういった出来事があって、特に白身に関しては出来栄えを重視し、白身の飛び散りについては置き方でなく手に付着することが原因なので白身を落としてから黄身を置くことにした。白身の見た目に関しては普通~中の上から、最低でも中の上以上の出来栄えになった。置き方は高さは同じように低い位置を維持しつつ基本は変えずに行ったが黄身が割れることは、黄身が指で傷つけたり自覚できることを除いてはほぼなかった。
見た目は悪くないので結果としては良い仕事をできた。

当然ならこの陰湿悪女どもはその結果を褒めることはなかったし、吟味して入れ方の問題ではないという事はしなかった。
彼女らは攻撃性においてはディスカウント的嗜虐心で主張するが利益にならない物をわざわざ褒めたりはしないのだ。
エモーショナル(感情的という意味)な理由で動く人間と理によって動く人間の差は結果に出る。
自分のやり方に自信があると思う人はそのやり方で結果を出すことにより批判を覆してほしい。
そして、結果として誤ったと思った時には間違っていたと認める勇気もあるといい。
(ただ多くは嗜虐的な理由なので論理形成と結果が伴えば誤ることはほぼない。その対象が流動的か固定的かの判断もある)

仕事の難易度や働く人間の品位やタイプは異なるが、こういった卑劣な集団への抵抗予防を怠らないようにしてほしい。
大阪おばちゃんのように仲良くできそうと思っても、付き合いにくい出来事が過去にあったなら注意しておこう。
批判される出来事があったら愉快犯的にフワフワと便乗して復讐を遂げようとしてくる。まず人間的にドライかウェットな人間か見定めて対処するのも良いだろう。

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2015年1月17日 (土)

カエルは大海を知らないのか? ことわざ『井の中の蛙―』を考える

いわずもがな現在でも見識が狭い人に対してつかわれることわざである。
しかしなが「『井の中の蛙』は本当に見識が狭いのだろうか?」という疑問がかねてよりあったのでその部分に対して個人的な解釈を考えてみようと思う。

『井の中の蛙』は本当に見識が狭いのか?

広い世界を知っていた方がいろんな知識や世界が広がっている。アクティブな活動もしやすいだろうその考え方が悪いという疑問は一見ないように見える。
しかし、それが絶対的な『善』であると論じるのは間違っていると思う。
間違ってはいないがこのことわざはどちらかと言えば物事を論理的に考えない人ほど使いたがる側面から一部で意図的な詭弁(論理を捻じ曲げて正当化する論)が行われているのが問題である。
執筆しながら「『井の中の蛙』というのは専門性を追求した人との敬意とか過程が含まれていないばかりか、ひいては井の中の蛙で成功した人をも切り捨てる暴論ではないか。」という思いに至った。

後に続く『されど―』

ざっとGoogleで検索するだけでもいくつものパターンが散見され造語として考えたようで、日本側でされど―の文章が後付けされたという事らしい。
・されど空の青さを知る
・されど空の高さを知る
・されど空の深さを知る
何が主な造語の由来になっているかは調べることができないが説得力を持つ内容である。ある人によっては「負け惜しみ」という言葉で否定的に言われている場合があったが違うと思う。(そもそも何に対しての勝ち負けというきもするが)
大海に出ても大きな物を得る人は得るし、井戸の中の蛙でも大きな物を得る人は得ると思うからだ。それを分けるのは結局は人間力だ。

大海を知る事は良いことなのか?

確かにいろいろな目新しい情報や異なる慣習や文化、考え方に触れられるし比較検討する物が多いので大海に出た方がいろいろな選択肢が増えて大きな世界が広がっているように思える。しかし個人が生きる上で把握できる世界というのは限られる。豊かさのなかにあっても個人の中で認知されるはんいでしか世界は広がらないのだ。人間の質によっては文化的業績を高めることもあるだろうが愚か者であれば大海の良さを理解できずに果てるだけだ。

視覚的には異なるものに触れて大きな何かを知ったような気分になるが本質的な精髄をも理解まではもっと突っ込んで考えないと理解することはできない。
大海に出たからとて広く浅く知ることなどはほとんど意味をなさない。では逆に広く深くとなると人間の処理能力の問題でかえって情報過多で埋没してしまう。

実際のところはすでに情報過多の時代で情報に追いつけない人がでて情報格差が生まれているし、ある年代で常識とされていた知識や事柄、倫理、事象等々が若い世代から欠落し始めている気がしている。別にひがみ的にいう気はないが、これを若い世代の台頭というには怠惰さと単なる惰性に溢れすぎている。またこの怠惰と惰性を変に美化しようとする世代が出始めたことに危惧を覚えている。
一部若者の動きに関しては現象的には大海に出たはいいが溺れてしまった上に突然変異で有毒物質に変化してしまったといっていい。^^;
ネットがない時代であれば常識や流行、知識もある程度は収束して一元化されていた。いい意味でも悪い意味でも非常識とされる行為は自重するような空気が存在していた。だが今は情報過多の時代で共通知が失われてしまった。

例えば『恥』、『謙虚』、『努力』などそういった感覚が一部でかけている事が見られることが多くなったのだが、誰かが作った文化的な土台や文物に対して敬意を払うことなく、良い部分をおよそエッセンス的に上澄みを掠め取り(学習と言えなくもないが少し違う)まるで自身の手柄のようにふるまっている行為が散見される。
若者が主導しているインターネットサービスの多くは馴れ合いによって成り立っている。楽しい感情を共有したり褒め合ったり仲間外れにならないように振る舞っている。「楽しけりゃいいじゃん」的な軽さもさることながら、その為なら「ルールとかやり方が間違っていても関係ねぇ」的ないい加減さも伝わってくる。
目立つ事をすれば大胆で破天荒でカッコいい的なノリはツイッターのバイトテロでもよく見られている。

執筆中に思った事だが成人してしまえば我々はすでに大海に出ている。その中で社会的に好ましい人物が形成されているわけではない事を鑑みると大海に出る事はいい事ばかりではないという事だ。
大海で新しい情報が生まれそれを適切に取捨選択できないだけでなく人格形成にまで影響を及ぼしているとしたらネットが発達した情報社会というのは罪深いものではないだろうか。

現代においての『井の中の蛙』から見ることわざの存在意義

先に述べたように無知な人ほどこのことわざは使いたがる傾向がある。というのもこの手の定型句に飛びつく人が必ず存在していておよそファッション感覚で使いたいだけで中身は深く考えようとはしない。多少なりとも論理的に物事の本質を考えたいと思った人であれば、『井の中の蛙―』という言い回しはもったいぶり過ぎて言うのも恥ずかしい。
定型句は非常に使いやすく一定の説得力を持っている事がほとんどだ。とはいえ耳触りがいいだけで中立的とか良い視点が欠けている事もある。
この言葉を使いたがる人は人間関係で上から物を言って上下を作りたがる人で、人を傷つけるにはそれなりに影響のある言葉で使った時点で対人関係で無配慮な人格が見て取れ、当然ながら相手が本当に『井の中の蛙』なのか判断する気などさらさらないのが分かる。ありきたりな『井の中の蛙』という意味以上に解釈を発展させる気もない。上記のことからも他人に言われるのではなく自嘲気味に言うのが適切な言葉である。

またことわざというのが昔以上に形骸化していて、四字熟語的なものはともかく長文ほど使えるシーンは少ない。
初歩的であることわざ、大袈裟で無配慮、なことから使う機会は少ないと思われる。
年齢的な部分でことわざを有り難がっていた年代の人で中高年以上が条件的にも使いたがる年代だろう。
こういう事を書いておいてなんだが『思考の整理学』というロングセラー書籍を出した外山滋比古さんの著書の『わが子に伝える「絶対語感」練習帳』でことわざの良さについても書かれているので興味があれば読んでみてもいいかもしれない。

井の中にありながら宇宙を見る人々

では井の中にあり続けた人は大海を知らないのだろうか?いやそうではない。
けして広くはないが一つの物事を続けることで狭いながらもその中において大海どころか宇宙の高みにすら達した人がたくさんいるではないだろうか?
言い換えればそれは専門を極めるという事であり成功した人はプロフェッショナルとして社会的な敬意が与えられる。
それこそ愚直なまでにやり抜いたからこその成果であり、ことわざでいえば『雨だれ石を穿つ』と言えるのではないか。

日本には現在でも職人として何十年も井戸ほど狭いとは言わないがある種の職人的世界を維持形成し続けている人々がいる。
以前テレビで見た安芸太田町の鍛冶屋宮島のしゃもじ職人などもそうだし、ほかにも和菓子職人や豆腐職人など沢山職人がいるが
言ってみればその世界において“宇宙”を見出したから職人と呼ばれるようになったのだろう。

ちょっと前に漫画『ヒカルの碁』などで囲碁ブームが起こった。この漫画の中で囲碁を宇宙と比喩する場面があった。囲碁を宇宙と形容する慣習というか囲碁人(?)の共通認識としてあるのかはわからないが、検索で出てくる囲碁サロンさいたま新都心様なども宇宙としている。碁盤の目に白黒の碁石を乗せる単純な構造ではあるが囲碁をやっている人の頭の中ではおそらく何通りもの戦術を試行錯誤が行われているのだろうから宇宙と言って過言ではないのだろう。

格闘ゲームにも似た部分が感じられる。私にはストリートファイター4を仕事から帰ったらずっと続けている知人がいるのだが上に上がる為に毎日練習を繰り返している。skypeで会話をしているときなどはいつもジョイスティックの音が聞こえているが努力するのが当たり前。その上で更なる上積みを重ねる必要があるらしい。東京に行ったときには一度だけウメハラを倒せたらしい。

どこそこの大学教授なんていう人々もある意味で井の中にあり続けたからこそだろう。私の在学中の恩師は山口県の歴史に関する書籍など出されているがこれも山口県の歴史を続けてきたからと言えるのだろう。

またこれもテレビからの浅い記憶からだが熊谷守一という画家も言わば井の中で宇宙を持ち続けたといった人らしい。参考文章を見ると30年間も庭の草木や昆虫などの生き物を観察して絵に描き続けたという事だ。

区別されるべき『井の中の蛙』

いわれてもしかたがない『井の中の蛙』というのもある。
10代とかでまだかわいいのであればあれば許せる場合もあるだろうが、多くは目立たなければ問題ないが余りに自分の考えや行為が見えずに排他的で傲慢すぎる場合は仕方ない部分はある。
でも実際のところは相手の考えている部分を理解しないとわからないだろう。言いたい人も言われる人も物事を理解しようとする努力は欠かせない。

子供のころは無知だから問題はない。大人の蛙の中でも物作りや研究的な人でも害にならないし問題はない。
おそらく問題は他人に侮られないよう虚勢とか強がりを拗らせている可能性が高い人々だろう。
自身の無力感とか他者に対して弱みを見せないようにしたりとか、あるいは本当に愚かなケースが想定される。

虚勢・強がりであれば心に余裕を持つように促すことだろう。直接言うのはカドが立つので避けた方がいい。
自分が大人になってそれなりに話を合わせてやんわりと理解してもらうのが近道だろう。
こちらに余裕があればしっかりと受け止めてみるのもいいかもしれない。

私は意図的に井の中の蛙になるのも悪くないと思っている。
普段は気にしない事でも生活の細部の変化に喜びを見出したりすることで小さな事かもしれないが日々の生活がちょっとだけ明るくなるかもしれない。

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2012年12月15日 (土)

日本昔話のED曲「にんげんっていいな」考察

昔テレビで親しまれていた日本昔話のエンディング曲「にんげんっていいな」という曲なのだが、歌詞の表現が直接的でなかったせいか今でも意味に疑問を持っている方が多いようだ。今回はいくつかの疑問を掘り下げていきたい。

 

「にんげんっていいな」

山口あかり作詞・小林亜星作曲

くまのこ見ていた かくれんぼ
おしりを出したこ いっとうしょう
夕やけこやけで またあした
またあした

いいな いいな
にんげんって いいな
おいしいおやつに ほかほかごはん(注)
こどもの かえりを まってるだろな
ぼくもかえろ おうちへかえろ
でんでん でんぐりかえって
バイ バイ バイ

もぐらが見ていた うんどうかい
びりっこげんきだ いっとうしょう
夕やけこやけで またあした
またあした

いいな いいな
にんげんって いいな
みんなでなかよく ポチャポチャおふろ(注)
あったかい ふとんで ねむるんだろな
ぼくもかえろ おうちへかえろ
でんでん でんぐりかえって
バイ バイ バイ

いいな いいな
にんげんって いいな
みんなでなかよく ポチャポチャおふろ(注)
あったかい ふとんで ねむるんだろな
ぼくもかえろ おうちへかえろ
でんでん でんぐりかえって
バイ バイ バイ

※歌詞は某所から転載しました


『おしりをだしたこいっとうしょう』~1等賞とは?~

誰もが最初に引っかかる部分は多分ここだろう。「かくれんぼでお尻を出した子がなぜ一等賞に?」と思うはず。この事について考えを述べる掲示板では例えばこういう考え方があった。(以下は便宜的に番号を付ける)

1「人間は尻尾が生えていないから1等賞」
2「くまがルールが分からず勘違いしたので1等賞」
3「みんなを驚かせみんなが一斉に出て来させて一気に捕まえたから1等賞」
4「わざと負けて良い引き際を見定める事が(人生では)1等賞」

しかしながら、私は上記の考えはどれも間違っていると考える。1については動物と人間の違いはあっても尻尾の有無については触れていない、2は勘違いするほど熊もモグラも人間について無知ではない。(後述の『動物と人間の関係と社会性』で述べる)3は飛躍しすぎ、4は確かに人生の真理だが妥協を覚えるには早すぎでそもそも歌詞がそこまで深く掘り下げられない。

確かにこの歌詞のみに着目すれば『いっとうしょう(1等賞)』という歌詞が何かしらの比喩など別の解釈を考えてしまう場合もあるようだ。まず1等賞が意味するところが明確になっておらずある程度定義づけが必要だ。そこで2番目の1等賞に該当する歌詞を見て比較してみよう。

1『おしりをだしたこいっとうしょう』
2『びりっこげんきだ いっとうしょう』

という歌詞になっている。この歌詞からは遊びでも競走でもどちらも「負けた子が1等賞」である事と同時に「1等賞の子の性質」が分かる。
昔から子どもの教育的な考え方勉強が出来なくても良い所を見出そうとする見方は確かにあったと思う。あまり無理がない発想ではあるし、少なからず勉強や運動に捉われずできるだけ子供の長所を引き出し伸びていく可能性を信じたい親の希望的観測と子供に対してのおおらかで寛容的な見方を親たちに与えたに違いない。
またこどもたちにとっても我が子の成績に執着する親の気持ちを少しばかり緩衝してくれる役割を果たしているかもしれない。(親の気持ちは子供にとっては重圧になる事もあると思うので )

子どもの性質については2番目の歌詞では『げんき』な子供、1番目の歌詞は直接的ではないもののかくれんぼで尻を出してしまうあたり『ドジ』・『どこか抜けてる』といった子ども像が浮かび上がる。

つまりは“負けてもいいんだよ”という事が言いたいのだと思う。なぜ断定せず思う”かというのは1番目の子に長所が見つけられなかったからだ。2番目の子供は負けたけど元気、1番目の子供は鬼に見つかったけど長所がない。なので決定的な確信に至らなかったためここは直前で留め置く。
しかし、また改めて一歩引いて考えてみると動物の視点から羨ましがられている事を考えると“人間として人間らしい生き方が出来るだけでいいじゃないか”という考え方も見えるので1番の子供に長所がなくても人間として生まれた来ただけでも“いっとうしょう”と言っていいのではないだろうか?

(前述の他者の考えの3番を一応補足すれば“お尻を出す=奇抜な事をした”と考える人がいるがこれは間違いだろう。かくれんぼだから尻を隠さない場面がストンと理解できるのであって、仮に鬼ごっこや缶蹴りなどでは尻を出す場面は理解できない。)

『にんげんっていいな』~人間って素晴らしい~

この歌は熊とモグラの視点から人間を羨ましがる内容となっている。羨ましい事としておやつにごはん、子供の帰りを待つ家族、家族団欒でのお風呂や布団などに触れられている。動物だからこそ人間が良いなと思うわけだが、ただ良いというだけでなく、その前にかくれんぼや運動会で負けた子のエピソードを挟むことで失敗に対してのフォローが入っている。『いっとうしょう』という単語はそういうフォローの象徴的単語と言ってよいだろう。 説得力もより高まる印象となる。
なにはなくともともかく『いっとうしょう』で慰め、(「君は悪くないんだよ」って言い換えても良いかもしれない)そこから「人間らしく生きられるだけでいいじゃないか」という考えにつなげていく訳だろう。

動物と人間の関係と社会性

動物は人間の子供の様子を傍観したり想像して羨ましがっているだけで子どもたちに加わって遊んでいるわけではない。そしてかなり人間の生活に熟知している。かくれんぼ、運動会、お風呂、睡眠方法、おやつとごはんの違いまで理解している。

表現される動物像によってもまた異なる場合も考慮した。作品によってはおよそ人間らしい考え方や動作をするほぼ人間と変わらない擬人化された動物、人間の事をある程度までは理解でき考え方を読者から客観的には読み取れる動物、物語中でも特に意思表示せず全くの動物そのもの等々色々差がある。
童話のごん狐などの『ごん』はその中間的な立場ではないだろうか。

熊とモグラの位置づけから考えると人間の生活様式を知っている分、擬人化的性質は高い段階にあるとみて良い。
なので動物たちは人間についての知識での誤解は少ないとみて良い。

総評

『いっとうしょう』についての歌詞が不足しているので決定的な説得力が不足していたのが気にかかっていたが、勝ち負けにこだわらなくともいっとうしょうになれるという事を言いたいという事に違いないだろう。

ここまでの上記の考えを導き出してまた翻って「動物が『いっとうしょう』を勘違いしたのでは?」と他者の考えおもねる恐れがあったが、そもそもその考えは筋道を立てて考える姿勢とは異なる単純な考え方に依拠しているので自分の考えとは似て非なる物なのだと思い直した。
人間の生活様式を熟知している点もかなり引っかかる。そんな彼らが『いっとうしょう』の意味を誤解するだろうか?
かくれんぼも運動会も理解しているのに直前で『いっとうしょう』だけ誤解している素人のような間違いをするだろうか?これは理解した上で『いっとうしょう』と言っていると見た方が良い。そこでもう一度2番目の歌詞を見直してみると

『びりっこげんきだ いっとうしょう』

間違いない。動物たちは高度な知識を有した上であえていっとうしょうと言っている。
『びりっこ』という単語は明確な最下位を表す。 意味を逆に考えてしまったと言うには知識が豊富すぎるのだ。
どのようにいっとうしょうだったのかは想像する他ないが動物たちには子供たちが生き生きとひときわ輝いて見えた瞬間があったに違いない。
(ここで今度は逆に「「びりっこ=1位・勝負に勝つ」と誤解しているのでは?」と考えるのは論述では限界です。そこまでいくと単なる妄想レベルになってしまうでしょうね。(--))

その他の『いっとうしょう』

私の知っている中で思いついたのは丸大ハムのCM(わんぱくでもいいって言い回しが)や広島に住んでいる人ならたぶんわかると思うが花ソーセージのCMなどもある。どんなCMかというと1点と0点ばかりの子供がテスト用紙を並び替えて100点満点に見せたり、雑巾がけをめんどくさがる子が雑巾に乗ってスケートのように滑って拭く様子などの締めに「がんばる子に花ソーセージ」の一言とよくできましたマークで締めくくるCMだ。 (残念ながら動画が見つかりません)
検索で見つけた童話でも『よーいどんけついっとうしょう』という童話はこれも別の意味で『いっとうしょう』になる過程が描かれているようだ。
多分『いっとうしょう』の形は人それぞれ違う事もあるのではないか。
自分に相応しい『いっとうしょう』を見つけて行きたいものだ。
(2012年12月19日加筆修正)


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2012年7月19日 (木)

「いじめ」について少し考えてみる

大津市のいじめ自殺の話題に関連する記事や報道が過熱している。新事実の発覚や芸能人のブログやツイッターなどの発言もあってか事態が沈静化する気配はまだない。
行き過ぎている面があるかもしれないが、多くの人が広くいじめ問題に目を向けるいい機会になった。
学校・教員らの保身的な隠蔽体質がつぎつぎと露呈(我慢すれば丸く収まる口止め見て見ぬふり)これはどうあっても看過できない事柄だ。


「いじめ」と「いじる」境界

このいじめ騒動に言及している芸能人ではロンドンブーツの田村淳が何かしら述べているという。
感情的な表題で”「いじる事といじめを一緒にしないで欲しい。僕はいじめられた経験はあるがいじめた事はない!」 ”といった具合に言われている。恐らく普段の芸風が激しいらしいのか自身を正当化しているように見えるのだろうか。しかし彼の言っている事全体を見れば言ってる事は間違ってはいない。

芸風により誤解を受けているかもしれないし、発言のまとめをみる限りではいじるいじらないの話題は他の方からの返信であり、自分から言い始めたわけではないので正当化とも違う。今回の事件うんぬんはともかく違いはあるわけだし。

確かに私もお笑い芸人を見て「まるでいじめじゃないか」という感覚を抱くことは確かにあった。お笑い芸人の中には嬉々として(?)体を張ったリアクション芸人という物が存在するし、出川哲郎やダチョウ倶楽部の上島竜平はいじられキャラを確立してる感がある。いわゆる「ヘタレ」がにじみ出ているという点とその反応にどこかしら愛嬌があるからではないだろうか。

しかしながらその中には見ていて気分のいいものばかりではない。笑い所がつかめないただ暴力を振るってるだけにみえる事が下記の動画やナインティナインの番組で見た記憶がある。芸と理解しようとしても集団で恐らく痛いと想像できるバスケットボールを浴びせかけられるのは見ていてこちらまでも痛々しい思いになる。


「いじめ」と「いじる」の境界線は線を引きにくい所がある。相手が不快に思うレベルが度を越してしまうと本当のいじめになってしまうから、いじるにしても多くいじりすぎないようなさじ加減が要求されるし、例えばいじる本人は周囲に目立つ”いじりやすい要素(髪型・仕草・言葉づかいなど)”などがあったとしても相手に配慮して気分を陰鬱にさせたり立場をあまりに悪くしない範囲とどめる必要がある。いじられる相手もそれを半ば了解の上である必要もある。日ごろからお互いの信頼関係を築いておくのもいじめにならない重要な要素と言える。
多分「いじる」事にはそれなりのバランス感覚が必要だという事なのだろう。

粘着テープや鉢巻きで手足を拘束したり、蜂の死骸を食べさせられたり、暴行したりこれら証言が事実でそれを市教育委員会や学校側、教員らが見て見ぬふり(見過ごせるレベルを超えているのでは)をしていたならとんでもない過ちを犯している。

このような方々には教育の現場をぜひとも退いてほしいものだ。教師だからと非の打ちどころのない人格者を求めるつもりはないが、出来る事すらやれなかったのは教育者としても、それ以前に1人の人間として大きな欠陥があるという他ない。

実体験としてのいじめ

私自身も過去にいじめを受けたことがある。やたらと突っかかってくる生徒がいたが、当たらないまでも振り払うように拳を出したためか喧嘩両成敗的な対応をされた事があった。実際はこちらが手を出された方が多かったのに、たった一回の抵抗だった。手数の問題ではないと言えばその通りだが、手を出されるたびに小さく落ち込んでいった気持ちを回復する捌け口を私は用意することはできなかった。その捌け口は今も見つかっていないかもしれない。

私自身、そのことを具体的に対処する事はできなかったし、周りの人間に自分の事をな理解を得られてはいないという思いが残っている。そして強烈に私の事を否定されたという思いも残っている。

自分の気持ちを正直に出せるように生きていきたいと思う。

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2011年3月14日 (月)

災害時に際して人道主義について考えてみる。

今回の地震は大きな爪痕を残してしまった。死者の規模は今後さらに拡大し、原発の崩壊と茨城沖など関東周辺を震源とする地震の多発から2次的、3次的な被害が想定され事態は切迫した状況だ。このような事態では、被災地にメッセージを述べる方、物資や金銭を寄付する方、ボランティアを買って出る方、折鶴を送ろうとする方、色々な人が様々な支援の意思を表明する。

しかし、このような行為には必ずしも好ましくない支援も存在している。救援物資といいつつ実は不用品や扱いに困るものであったり、大量の折鶴など送る側のエゴにより行われる一方的な行為が被災地の悩みの種になっている。こういった行為がよくあるのかWikipediaでも“第2の災害”と定義されているらしい。これは先日起こったタイガーマスク伊達直人の養護施設への連続寄付事件にも通じるものがある。

寄付文化などが育つのは悪いことではないがやはりエゴも強く健全な寄付とは言えない現実もあるようだ。養護施設の方の本音はランドセルなど現物は手間や対応などもありお金の寄付のほうが助かるという。寄付したからと言って感謝を求めすぎてしまう人もいるというのは考え物である。 また不要な寄付や支援は扱いに困ったり半ば廃品処理と化してしまうだろう。

深く掘り下げないが共通点の列記とどういう人達が何を意図しているか考えてみた。基本的には善意からの行為ではあると思うが。

・本当に必要な支援を理解していない。(良かれと思ってやる人、何を寄付しても役立つだろうと思い安易に寄贈する人)
・不自由な境遇の人を思う気持ちより支援したい気持ちが優先している。(上記下記とかぶる。気持ちばかりで空回りする人)
・支援することそのものに意義があると思い込んでいる。(恐らく低所得者、金銭的にケチな人、精神的欲求に比重を置く人、やらない偽善よりやる偽善論者も含む)
・一過性で寄付を習慣としていない人が多数参加している。(流行に便乗する目立ちたがり屋)
・物質的支援が少なく精神的支援が強調されているもの。(低所得者や便乗者、金銭的にケチな人、精神的欲求を求める人、「お金のかかる物は寄付できないが出来る限りの気持ち」を表したいと思われる。)

エゴと正当な支援の境界線

では、エゴと正当な支援にはどれほどの差があるのだろうか?
先にもエゴと言ったが、簡単に言えば人間のすべての行動にはエゴが存在していると考えている。それはどれだけ崇高な意識で奉仕を行う人であっても”自らの奉仕したい気持ちを満たす=エゴ”ではないかと思うからだ。しかし、役に立つ立たないでは雲泥の差がある。
そして本当に助けになる支援者に対しては最大の敬意と感謝を報酬として払うのが支援された者の礼儀というもので、役に立ったと思うならニワカ支援者であっても見返りとして感謝の言葉ぐらいは言ってもいいかもしれない。

単純化すると全てエゴとして考えると、次は支援内容の程度の差に目を向ける必要がある。基本的に支援したい気持ちには差はないと考える。(本来なら支援した量も考慮に入れるべきだが本来個人の支援は微々たるもので量ではなく感謝の気持ちによって評価される性質のものであり、個人や団体など支援した量は相対的には差がないと考える。ただ個人でもまとまった一定量の支援でなければ迷惑になってしまうこともあるだろう。)

しかし、被災者は支援の気持ちだけでは食っていけない。基本的にエゴと正当な支援を分ける境界は”気持ちの差”、すなわち“支援した充足感”と“役に立ちたい気持ち”のどちらが勝っているかによると考えるが、”具体的な支援活動”もセットでなければ全ては独善的なエゴにしかならない。災害支援は個人のお手軽な支援では迷惑にしかならない。

誰のための支援なのか?を考える

折鶴や手紙など気持ちが温まる支援というものもあるが使い所を間違えば迷惑だし実際に役立つ機会もかなり少ない。支援される側にとって必要としているものを最大限生かすように専門の支援団体に寄付を考慮したり、独善的な考えは控えることが肝要だ。

大惨事の前に助けたい気持ちが刺激されるのは良い事だが、特別なことと考えず日常生活においても不幸な出来事が日々起こっていて、そういった不幸な気持ちを当たり前に支えていく意識を育んでもらいたいと思う。 こんな時期だからこそ余力があれば進んで助け合うべきだし、積極的に支えていくべきだが、日常において不幸や困難を支えられる人こそ本当の人道主義者として評価する社会であってほしいと願っている。
本当に役立つ支援ならあえて細かい事はいう必要はないが、支援はまず”自己を満足させるのでもアピールする機会でもなく、被害者の為にあるのだ”ということを念頭に置いて行ってほしいとおもう。

命の尊さについて(3月22日追記)

3月22日時点で警察庁の発表で死者行方不明者2万2885人に上る。本当にわずかな時間に災害における死傷者は類を見ない被害をもたらした。しかし、衝撃的な出来事ではあるが日本で年間3万人の自殺者が出ている状況にも目を向けてほしいと思う。
人が自ら自殺を選択する背景には個人が社会に排除される背景がある。社会は個人が作るものであり、そして個人が集団になると閉鎖的な空気を作りだし、間接的に自殺に追いやってしまう我々なのだという自覚を持たないといけない。

日本人に「命」とは何か、「生きる」とは何かを考える時期が来ているのではないだろうか?

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2010年4月26日 (月)

原付の交通ルール上の立ち位置について考えてみる

先日、原付を運転していると後ろから煽られたので、つい挑発的なポーズ(親指を下向き)を取ってしまったためリアルにGTA3(ゲーム)のような走行妨害されてしまった。なんとか衝突させられずに済んだが、いっそ衝突してくれれば良かったとか、本当は喉を横に引き裂くぐらいの動作をしとけばよかったとか未だに考えたりする。こちらもあまり危ないことばかり考えちゃこちらの責任問題としてもだめだめだ。でもおかげで一応は原付の道交法のあり方について考えるきっかけにはなったのだろう。

私は通常交通手段の方法として専ら原付を利用している。自動車ほど税金がかかる訳でもなく、公共交通機関ほど時間と金銭を浪費するわけでもないのでちょっとした使い易さが大変重宝している。しかし、道路で走行中はなぜか肩身の狭いをしてしまうのが原付である。流れに乗らないと後続車にパッシングで煽られ、流れに乗ると警察に目をつけられてしまう。乗用車が偉いとか誰が決めたわけでもないのに、車の前を走るだけで酷い態度をとられるのである。

また16歳以上が容易に免許を取れてしまう為か運転マナーが悪いと思われたり、軽んじられてしまう傾向があるのではないだろうか。(とは言え身元確認書類として提示を求められる場合、運転免許証ほど立場を問わず使いやすい証明書も他にない)

邪魔と感じるのは原付乗りも同じで、後続車を気にしながらでは落ち着いて走ることができない。またただただ自分が煽りたいという理由で原付などに目をつけてみだりにクラクションを鳴らしたい人もいる。結局は「流れに乗らないから邪魔」、引いては交通ルールなぞ尊重しているわけでもないのにいわば煽る側のルールに則った「同調圧力的な交通ルール(暗黙のルールに近いか)※1」を正しいかのように錯覚し、道交法など関係なしに煽ってるわけだ。およそ個人的感情で重大事故を招くあおり運転をしてる連中に正当性はどこにも無い。
(※1例えば標識や標示等で40km制限の道路が通常50kmで流れているとすると同じ流れに乗ってないのが腹が立って煽る)

あおり運転は一般道ではまだあまり罪としてどうこうという訳ではないらしいが高速道路においては2009年10月1日の道交法改正で”3か月以下の懲役または5万円以下の罰金”となる。また道交法においては以下の条項なども抵触するそうだ。26条の罰則は5万円の罰金。70条の罰則では3月以下の懲役又は5万円以下の罰金。刑法208条には具体的に煽り運転の記載は無いものの(あおり、煽りで文中検索)程度によって暴行罪で立件できるかも。

割り込みや煽り運転、危険な程のスピードを出して事故→危険運転致死傷罪
(7年以下の懲役もしくは禁固又は100万円以下の罰金)
高速・自動車専用道でのあおり行為(車間距離保持義務違反)3ヶ月以下の懲役または5万円以下の罰金
道交法22条1項 最高速度をこえる速度で進行してはならない
第26条 車間距離の保持(罰則 第120条第1項第2号)
第70条 (安全運転の義務)他人に危害を及ぼさないような速度と方法で運転しなければならない。
(罰則 第119条第1項第9号、同条第2項)
刑法208条 煽り運転は、暴行罪に該当する犯罪。
(2年以下の懲役若しくは30万円以下の罰金又は拘留若しくは科料)


また原付に限らず車両に乗っている人に対しては下記の27条のような条項があるので遅い車両であればゆずる義務が生じる。大抵原付が速度は遅い場合があるのでその際は潔く、できれば後続に分かりやすく譲るのが好ましいだろう。しかしだからといって後続車の何らかの優位性を認めるものではなく、道交法に抵触する以上けっしてあおり運転を是認するものではない。

(他の車両に追いつかれた車両の義務)

第27条 車両(道路運送法第9条第1項に規定する一般乗合旅客自動車運送事業者による同法第5条第1項第3号に規定する路線定期運行又は同法第3条第2号に掲げる特定旅客自動車運送事業の用に供する自動車(以下「乗合自動車」という。)及びトロリーバスを除く。)は、第22条第1項の規定に基づく政令で定める最高速度(以下この条において「最高速度」という。)が高い車両に追いつかれたときは、その追いついた車両が当該車両の追越しを終わるまで速度を増してはならない。最高速度か同じであるか又は低い車両に追いつかれ、かつ、その追いついた車両の速度よりもおそい速度で引き続き進行しようとするときも、同様とする。

(最高速度)

第22条 車両は、道路標識等によりその最高速度が指定されている道路においてはその最高速度を、その他の道路においては政令で定める最高速度をこえる速度で進行してはならない。

ダブルスタンダードで身勝手なドライバー達

原付は建前としては30kmまでしか出せないが実際それ以上は出す事が多いので法定速度を守れていない。
しかし逆に乗用車などは速度が出せる代わりに道路の最高速度を違反している事も多いのである。走りやすい道路なら例えば40㎞制限の道路でも大抵は数キロ~10キロメートル以上はオーバーして走る事は多いだろう。
また道路の流れに合わせるという考え方も常識としてあるので速度を多少オーバーしても構わない空気がある。

車を持っている人は試しに制限速度前後で走ってみることをお薦めする。実際に制限速度を守る人々などは高齢ドライバーかよほど法令順守を意識して乗ってる人以外にはほぼ皆無のはずだ。

つまり実際は道路の速度制限を日常的に超過しているであろうドライバー達が「30㎞以上出すな」と言っているのだ。
自らは遵法意識もなく速度超過を繰り返して先に速く走りたいだけであるにもかかわらずルールという建前を利用してわがままを言っているに過ぎない。
道路の流れに合わせるという考え方を都合よく解釈している人も多い。
遵法意識の高いドライバーが多くないのは自ら道路を走れば明確である。

速度超過を繰り返しているドライバーが30㎞制限に口をはさむ資格はない。

低い制限速度の場合は実は速度差がない

道路には様々な最高速度の標識が存在し、これが最高速度が50・60kmぐらいの速度差があるなら理解もできるが、仮に30kmや40kmなどの低い制限ならどうだろう?

原付が30km前後で走行しているなら道交法を守っていることになるし、大抵は40kmぐらいなら原付も流れに乗れている事の方が多いので全く問題ないはずなのだ。煽ったり、乱暴な追い抜きをするにしても非常識だ。

だがしかし実際は原付などを追い抜きたいという感情は存在しており十分自重されているとは言い難く乱暴に追い抜かれる恐れはやはり残る。
制限速度はないに等しく見通しがよく走りやすい道路であれば制限速度など気にせず飛ばせるだけ飛ばしているのが現状だ。

道路は自動車だけのものではない

道交法の観点か道路の利用者側の観点かどちらが正しいかといえば一概に言えない。道交法はあまり柔軟に対応できてない部分があるだろうし、道路の利用者は自動車・バイク・原付・自転車など各々の運転者への配慮や客観性に欠け感情的になるきらいがある。ちなみに余談として自転車は歩道を走るものだと考えている人は自転車も原則車道を走るものだと覚えておくと良いだろう。
邪魔だからといって交通弱者を横へ押しやるような乱暴な運転は本来ならば社会通念上看過できない行為を行っていることに違いないのだ。

運転者の方々には道路は自動車だけのものではないと理解して運転して欲しい。

※一部加筆修正

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2009年9月 7日 (月)

友人と距離をとるという事

先日、月に1・2度程度連絡を取り合っていた友人と距離を置く事を決めた。彼とは以前から大学を卒業してからも何度も連絡を取り合っていた。
私自身は彼とのやり取りの中で感じ始めた事では次第に半端な付き合いや互いに感謝する姿勢が欠けていっている事、彼自身が安定的思考(無難な保守的思考と思っている)に私自身の方向性が噛み合わなくなってきたという事、彼自身の性格や態度のずるいと思う部分が露呈し、正直に話をやり取りを交わす可能性が開けない事などが理由としてあった。

関係を改善したいという気はあったが、違う考え方を許容していける可能性がない訳ではないが、どうしても個人の考え方には踏み越えられない壁が存在する気がしている。“個人の自由”とか“思想信条の自由”と言ったものだ。

彼との付き合いの中で個人を尊重する意識が欠如しているとは思ってはいないが、とやかく言えば上記のような“個人の自由”を持ち出される面倒くささもあったし、彼自身の気になる点としては責任転嫁する癖や知ったかぶりをする癖など正直さ(誠実さとは書かない)に欠ける点が散見されるようになってきた。このようなおよそ感情的な部分で不快感が残る事がある。

彼自身は仕事の中でバランス感覚(協調性)を高めてきているようだが、仕事に意義を見出した事により、これまで受動的な協調性が能動的な協調性として高める事ができるようになったようだ。その為に自由な発想も抑える結果になったのではとも思う。
私自身は逆に安定や協調を良しとしない意識を持っているのだが、いまだに無意識に相手の考え方に同調しようとする癖が抜けない。親しい間柄であればそれだけ相手の傾向に傾いてしまう。

これまでやりたいと思っている事でも周りの目を気にしては、納得のできる結果を残せなかったり、
自虐的なことを考えては自分から無難な方向へ進む事が多かった。だから少しでも自分が信じる道に精力を傾けなければ何をやっても身にならない。

友人には不満や言いたいことがあれば言ってくれと何度かお願いしていたが、何かあろうと本当のことを口に出す事はない。会話をする際はいつも相当な時間を費やすことが多く、時計が午前を回る事がよくあった。互いに話のまとめ方や流れを掴むのが上手でない事も長くなる理由にあるだろう。それでも友人が仕事の話をしてくれる度に付き合いが負担になってはいないだろうかと心配する事が多くなった。

時間的な制約や楽しみを共有できる機会があまり取れなかったのも理由にある。漫画やアニメ、政治などの話などをよくするが、結局は情報が共有されていないので、深い内容に発展しにくく表面的で無難な一般論程度に落ち着いてしまう事が多い。せっかく互いに話題を提供しても話題を汲み取る努力も欠けている事もあっただろう。

友人関係にどのような点に重点を置いて付き合うかは人次第だが、距離が近すぎると有り難さを忘れてしまいがちになる。
関係を改善する可能性は残されていると思うが、時間を置いたり、場合によっては決別する事も考える事があるかもしれない。親しい人が自分自身にとって先に進むのに障害になってしまうと考えてしまうのは悲しい事だが無い話ではない。
進むべき道が違うなら今まで通りでは駄目な事もあるのかもしれない。
互いに先に進んで行ける良い関係でありたいものだ。

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2009年6月10日 (水)

別の概念を受け入れる必要性

人が生きる意味は始めから存在しない。生物学的な種の繁栄と存続や宗教的に考えれば意味はあるのだろうが、これも後付けで人間が作り出した概念に過ぎない。生きている中で様々な事に努力して、没頭する事で価値のあることを見出しながら生きていく事になる。

人生を生きる上で必要な物は一言で言えばほとんど“快楽”に集約されると思う。その先に楽しい事が待っているから人は生きていける。無くても別に生きていけるが快楽を得られる希望を失った人は長い人生の中で途方も無い絶望感をいだきながらすごす事になる。

私自身が実践できているかは自信が無いが実は快楽を得られる事は見つけることが出来る。いつも通る道端に花が咲いて綺麗に思う、晴れた日に気分が良い、いつも使っている物を別の物に変えてみる、普段と違う事をやってみる、自分にとって色々な引き出しを作って楽しい気持ちを絶やさないようにすれば人生は豊かな物になるだろう。

人生が幸せそうな人と不幸に思っている人の違いはこの引き出しの数と、許容量、物の入れやすさ(吸収力)などの違いではないだろうか。何でもない事を楽しいと思う人もいるのに、人間関係や貧困で思いつめて自殺してしまう人もいる。
好きな物があるなら追求していけばよいが、思ったほど気持ちが満たされないことがある。満たすためには色々な物を入れる必要がある。

生きていく基本は勉強にある。違う考え方や知識を入れたりしながら、新しい発想やアイデアを産み出したりして生きていく。喩えれば欠陥の有るパソコンと言った所だ。パソコンは使っていく中で色々なプログラムをインストールして利用する。利用していくと欠陥が頻発するので整備が必要だが、新しい物を作り出せる可能性は常に持っている。
でもまずはパソコンに何か入れることが出来なければ始まらない。無から何かを創造することはできない。既存の物を活かして創造を繰り返すのが普通だ。

別の考え方を拒絶する人はよくいる。正当な理由があり考え方を退けるならまだ分かる。しかし、ただ押し付けのように感じ不快だから、自説を曲げたくないから、嫌悪感があるから、と何でもかんでも感情論で退けることしかしない人に対しては機能不全を起こしているとしか言いようが無い。ハードディスクに不良セクタが発生しているようなものだ。

拒絶する事ばかりでは何もはじまらない。新しい概念を受け入れるだけの下地を作っておくのは誰にとっても損な事ではない。許容できるように物事を吟味する事も覚えなければならないだろう。

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2009年6月 3日 (水)

確かな信頼を備えた情報とは

先日、Youtubeで少し面白い動画を見たので関連して情報の正確性について触れてみたい。

QVCというショッピングチャンネルで平賀さんがイタリア製の保証書(証明書?)がないことに対して怒っている。
確かに安っぽいし、映像では光沢などは嘘臭い演出でゴールドカードなんて何の証明にもならない。

しかし、実際にイタリアの証明書と言う物が付いていたらそれが本物であると言う証明は誰ができるのだろう。
訳分からんイタリア語でいかにも権威がありそうな認証マークでもついていたら騙される事もあるだろう。
写真を添付したところで画像編集や関係のない画像を使うことも出来る。結局証明するには製造工程をわざわざ調べ上げるしか方法はないわけだ。

信頼性を演出している商品などは農業生産者で実名や写真を乗せたり、リフォーム業者のチラシでは担当者の似顔絵を乗せるなどして信頼とそれを補う親近感のようなものを演出したりしている。その他にも色々なマークが付けて分かりやすく良いイメージを持ってもらおうとしている。かといって商品の品質の証明になるかと言えばそうはならない。
偽造する余地は生産・流通や宣伝などにもいくらでも存在させられる。

商品を購入するのはその時のイメージを優先して購入する場合が圧倒的に多いだろう。それはサービスや食品などでいちいち十分な確認をしながら購入する事など現実問題難しいからだ。
いい加減な物を売っていいとは思わないが確かな証明が出来ない以上は不確かな面で信頼性を補うのはしかたがないところがある。

 

その他情報媒体などについて

情報には当事者達が直接的に関わる一次的な情報とそこから人づてにあらゆる手段で入ってくる二次的な情報がある。私達の周りには色々な情報が溢れているが情報の確かさは実はあるようでない。
誰もが一次情報に触れる機会があればよいのだが世の中で見聞きするあらゆる情報、新聞・インターネット・書籍などほとんどは他者の仕入れた情報を色々なフィルターを通して得ることしか出来ない。その情報をより確かなものにするのは受け手の知識と判断能力、情報がどこから入手されどのような団体や機関、著者から出されているかなどの信頼性に掛かっている。

インターネットがない時代、主要な情報源としてテレビや新聞が機能していた。しかし、現在は信頼を損なう姿勢しか見られなくなり、かつての信頼は失墜した。これはネットの台頭のみが問題ではないと思う。それは得られる情報が限られていた為に無条件の信頼に胡坐をかいていた企業側の見通し不足もあるだろう。

実感として説明できないながらもテレビや新聞は主要な情報源としての価値があると漠然と思っていることがあった。そんな目に見えないあやふやな信頼にこれまで支えられてきのだとしたら、現状の信頼不足は致命的だ。
どの番組を見てもバラエティー色が強くなり、確かな情報を期待を持てるのは辛うじてNHKぐらい。政治に関してはとっつきやすさは増したものの、まるで見世物のように軽くなってしまった。一般の関心も観客のように軽薄な意識を蔓延させてしまっている。

情報は確かな情報と培われた信頼こそを味方にするべきなのは言うまでもないだろう。不確かな情報など価値があるはずがないからだ。たった何度かの偽装や捏造により築かれてきた信頼を放棄するのは意味がない。

私たち自身も数ある情報を振り分ける能力が求められている。不確かな物に価値を見出すのは良い事もあるので一概には言えないが、印象だけで物の良し悪しを決めずに、実質的で確かな部分にも目を向けて見ても良いことも多いのではないだろうか。

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2009年5月 8日 (金)

友人とのメールのやり取りについて

友人に対してメールでやり取りをすると色々不便な事が多かったりする、こと友人関係においてはメールは欠点が多いようだ。

メールと言うのはなかなか便利であるのは間違いが無い。人に対して想いを伝える方法には口頭で直接相手に伝える方法と文章で伝える方法がある。メールは後者になるだろう。
伝えられる情報量や即時性、文字の入力の手間が劣るものの、話す内容を整理しやすく、話の密度を高めやすいと言う利点があるのでメールを利用する事が多かった。

しかし、利用していく度に別の欠点が出てきた。メールに返信されないと虚しさを感じてしまうのだ。それはメールの内容について密度を高めた時ほど虚しい物は無い。ただ相手に一定の反応を期待して連絡をすると、相手が無反応だった時の無視されたような落ち着かなさ、話をしたい内容をそらされた時の脱力感というのは相当な物だ。
もちろん相手は制約された時間の中、文章入力に熟練していないかもしれないのに、連絡を返してくれるだけでも十分礼を尽くしているはずだ。付き合ってくれるだけで有り難い。
相手に一定の反応を期待して話題を振るのも一つの“甘え”の発想からくる行動だろう。

もっとも私は相手に何かを期待して行う行為全般は須らく“甘え”と言えるのという思いを持っている。この点は土居健郎氏の著書『甘えの構造』に詳しい説明がされていると思われる。最もまだ読んではいないが人づてで“甘え”について考えさせられたのでこの事について少し触れてみたい。

甘えの重要性、行き過ぎた自由(甘え)の行き着くところ

甘えられる状況にあるということはある大きな枠組みの中で許容されているから成立するのだと思う。
甘えにも一定の対応と秩序が必要で、一方的に甘える形だと我々が不利益を被ることもある。

例えばゴミのポイ捨てや不法投棄は見ていて腹が立つが、一定の秩序やルールを守る人々、その行為を許容する(黙認する)人々、法律の罰則規定の緩さに甘えている。あと個人の自由という考え方にも甘えているのではないだろうか。もし多くの人がゴミを投棄すれば街の景観は乱れ、莫大な税金が投入され、罰則規定も強化される。

ゴミに関連すると私は先日マツダスタジアムに行ってきた。球場内には沢山の飲食店が出店しているが、弁当の持ち込みは可能、ペットボトル・ビン・缶は持ち込み禁止になっている。もしゴミを散らかす人々ばかりなら、一切の飲食物の持ち込みは出来なくなっているだろう。(最もカープには風船を飛ばす慣習があるみたいなのである程度許容されているかも知れないが・・・)しかし極端な状況になれば持ち込み禁止もありうる話だ。

「人に迷惑を掛けなければいいじゃないか」と言う人がいるが、これは違う。関係の無い人々に意味の無い規則や罰則を課する行為で、日常生活の利便性を大きく阻害する物だ。一定の規律やルールは必要だが余計なルールは生活する人々の窮屈さや複雑さを増すばかりで良い事はない。
公共サービスでも救急車の目的外利用による代金徴収議論、生活保護の不正受給による制度的機能不全(改良の余地はあるかも知れないが)、など何かしら制限されていることはないだろうか。(サービス提供側が費用や手間を惜しんだ口実作りとも取れる場合があるかも)

良い仕組みがあっても利用者のモラルが欠けていれば周りに迷惑を掛ける結果を起こす場合があるのだ。せめて人に言われなくても守れる事ぐらいは守ってほしい物だ。 一言で表すなら勝谷誠彦氏が以前テレビで言っていた“馬鹿基準”と言ったところだ。

話を戻すと私のメールも友人との関係性という枠組みの中に甘えを求めていたからだと言える。
この点で互いの歩み寄りが出来ずに甘えについて良い関係が保てなくなっていたのだろう。

ただ“甘え”は悪い事ではなく甘える余地を残す事で人々に心理的余裕と安定を生むのも確かだと思う。
甘えを許されず他者を頼れず個人に対しての結果と責任を求められる時代になった今、甘えられる環境も必要なのだ。
そして、幸運にも甘えられる人々はその事に感謝しなければいけない。甘やかす側も甘える側に少なくとも何かを期待して甘えさせてくれている。お互いに甘え、甘やかされながら許し、感謝しあえる関係を作る事が好ましいと言えるだろう。両者の関係のどちらかが欠けても良い甘えは成立しない。

私には社会に寛容の精神が欠けていれば、世の中はとても息苦しくまるで地獄のように思える。
欠点ばかり指摘され、それをお前の自助努力が足りないのだ甘えるなと言われる事もある。それが個人の価値観を土足で入って否定した上に悪とされ、あまつさえ個人の存在価値をも喪失されることすらある。(あまりセンチメンタル過ぎても困ってしまうが)
挫けた気持ちを立ち直し前進していくためには膿を出さなければならない。気持ちを回復する方法として甘える行為は一つの方法としてあってよい事と思う。

心を痛めることばかり習熟しても得をする人はほとんどいない。小さい視点で言えば罵倒した側に心理的優越感を与えるだけにしかならない。ひとりひとりが学校や会社という集団の中で他者を傷つける行為が繰り返されれば、社会は暗い物になってしまうだろう。それは私は社会はひとりひとりによって作られていくと思っているからだ。

大げさに考える必要は無いが自分自身がすこしでも社会を構成している一員と思って生きたいものだ。
よりよい未来は自分が少しでも動かないと得がたいのもまた事実なのだから。

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