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2015年11月11日 (水)

怒り新党に疑問。シチューかけご飯について考える

「有吉マツコの怒り新党」にてシチューにご飯をかける事に対して、肯定的・否定的な意見がとりあげたサイトの各所で寄せられた。そのご11月中にドリアが出た会でまたシチューの話題がでる。まだちょっと思うところがあってまた焚き付けられた感じだが、一般人もまだモヤモヤ感が残っているのではないだろうか。
決着をつける必要はないし答えはないが、強硬に許せないという意見には目を丸くするばかりである。

ビーフシチューならスープっぽい仕上がりだしごはんと合わないというのはわかる気がするがクリームシチューやホワイトシチューを理解できないだけでなく許せないというのは分からない。

日本人はご飯と一緒に食べる食文化がたくさんある。

日本にはご飯に合う食べ物が沢山ある。それが許すか許さないといっていること自体が偏狭というほかないあ。食文化というのは豊かな下地や正当な系譜において確立するものばかりではない。
庶民向けにはおいしいご飯と何かと食べ合わせレベルのものも多いかもしれないが支持されている食べ方があったり、一部の職業(漁師や飲食店)に限られた漁師飯やまかない飯などにも独自のご飯が存在しているのではないだろうか。

豊かな食文化を許容する土壌にある日本人がそういったことを考えると許さないだけでなく人に非ずという感覚は異常極まりない。冗談や大げさで「許さん」と言っているとしても笑えない。
ある種のISISなどの宗教とか原理主義者と同じである。

汁物と食べる米食

シチューにご飯をかけないまでも、日本には汁物とご飯を食べる食文化がある。まず断っておくが料理として確立されていない正統派ではない、下品であるという言い分はおよそ個人的な感情が入っているものなので庶民の食文化という観点から排除しないこととする。

例えば「お粥」。味はあっさりした塩味で多少の菜っ葉か梅干しを具にするぐらいの淡白な食べ物である。

お鍋の汁が残った場合は「雑炊・おじや」(以後雑炊と表記)にする。これも鍋という観点からして淡泊な食べ物である。これにご飯を足すことで飯(めし)が水分を吸って粘度を増すので食感はシャバシャバていない。具とだし汁に卵を入れるとシメの食べ物にもかかわらずあっさりしているのに食べ応えがある食べ物に変化する。ご飯ものでガッツリ食べる系の人は雑炊こそがメインディッシュではなかろうか。
「お茶漬け」も汁物と食べる米食といえるが、これもあっさりしている方だろう。

品がないがご飯に味噌汁をかける「ねこまんま」(正式な名称は知らない)もある。ごはんに対して味噌汁のだしと具がよく合う。直接かけないまでも、ご飯を口に含ませて食べた後に汁で流し込む食べ方をする人も根本的にはねこまんま的な食べ方を表向きはマナーとして拒絶しても、潜在的には許容しているともいえる。違和感がないのはやはりごはんと味噌汁は食べ合わせがいい食べ物と言えるからだろう。
だしの味がおいしいもそうだがジャガイモ、玉ねぎ、ねぎ、油揚げ、豆腐、と豊富な具を口にほおばる多幸感は、具だくさんの雑炊やシチューかけごはんと通じるものがある。焼き肉とご飯を食べる多幸感もおなじようなものだろう。

そういった汁物による米食を考えてみると、お粥などは控えめすぎるが
味が淡泊で多少粘土のある洋風の雑炊・おじやという位置づけになるのではないだろうか。

ソースと食べる米食

ここでは、汁以上に粘度のあるソースにかけて食べる米食について考える。
代表的な食べ物として「カレー」がある。旨味と辛さのバランスがよく、粘りのあるルーがご飯によく絡みおいしさが引き出されている。どんな具を入れても外れることがなく、チーズを入れたり、カツカレーにしたり、自由。基本の味覚として甘さと辛さに頼りがちなので味の繊細さは豊かではない。具材のバリエーションは何にでも合うが、悪く言えば何もかもカレー味になるなので素材の旨味を活かすのは十分ではない。大味な食べ物ではあるが国民食として誰でも作りやすく食べやすく、具によって様々な多幸感を演出することができるのが強みだろう。
最近出てきたタイカレーなどは汁物の分類にしたかったが味はしっかり辛さのパンチも利いている。

これもよく似ているが「ハヤシライス」がある。一般的に甘味が強い感じだがドミグラスソースとかワインとか使ってきちんと作ると洋食っぽさが出てコクや深みも演出できる潜在力がある。
個人的に作ることはないがチーズとか乳製品を炒める「リゾット」という食べ物もある。

「ドリア」もご飯がよく合う食べ物である。表面のチーズがおいしい、良く熱を通したパリパリになった表面を食べるのはおいしさ以上の喜びがある。エビやミートソースを入れたりイタリアン風に仕立てるものもあれば、シチューのようなグラタンなどあるが、具だくさんの多幸感が素晴らしい。

今回、有吉マツコの番組では両社ともドリアに対しての愛着がない感じだった。考えてみるとドリアとシチューをご飯にかける行為は焼いたのと鍋で煮込んだものと違うが、内容はほとんど変わらない
あまったシチューを耐熱皿でご飯を入れて焼いたら「これドリアじゃね?」と思うことはよくある。

ドリアとシチュー(厳密にはクリームシチュー)の違いについては「シチュー グラタン 違い」で検索してみると、「調理法が違い」、「グラタンは焦げ目という意味なので焼けばグラタンです」というのもあれば、真面目に答えている方は「ベシャメルソースから作るときに白ワインを入れてアルコールを飛ばせばグラタンになります」という回答がみられた。
アルコールを飛ばすのはよくある手法だし、なるほど納得という気がする。お酒の旨味とかコクが添加されるのだろう。まぁでもホワイトシチュー自体はすぐにグラタンに早変わりできる点を見ると結局は味覚的にはほぼ大差がないのが実態のようだ。市販のグラタンもシチューもホワイトソースを謳っていることが多いのでソースの差もないだろう。

つまりクリームシチューをご飯にかける行為を否定することはドリアを否定する事とほぼ同義なのだ。

その他の米食

どんぶり物としての米食はもちろんのこと、おかずとして食べる米食など沢山あるが、炭水化物レベルで考えると、味の濃淡は問わないし形態の違いだけだと気づくはずだ。
炭水化物あっての食べ物。世界の食は炭水化物で回っているのではないか。
主食を炭水化物とするとそこにあらゆる食べ方や味付け、料理ができるのは当然の結果といえる。

そういえば社会科の時間にならったキャッサバ、タロイモとか芋で炭水化物だし。アラン島などは土壌が悪い中で石垣を築いて作っていたのがジャガイモである。

「日本のお米」は「西欧のパン」?

日本人であればご飯があるが、海外ではご飯の代わりにパンを食べていてそういった文化があるのではと漠然と思うことがあった。パンをシチューにつけて食べるような古いイメージが浮かび上がった。
マナーでもフランス式、イギリス式、など色々あるようで、パンくず落としてもいいとか、スープにつけるのはダメとか、ソースをつけるのは料理人に敬意を払う意味でOKとかいろいろ細かい。

日本のお米料理はどんぶり飯とかがつがつ食べるようなものも多いが、海外だとがっつかない引いた食べ方をしているのかもしれない。お米がない地域は日本の米食のようにパンを使った料理が豊富にあったりするのかもしれない。この辺の比較は想像の域を出ない。

結論:ごはん(もとい炭水化物)は何にでも合う。

基本的においしいと思うものをおいしく食べればいいのだ。伝統を汚されない限りは海外の人がラーメンの汁に麺以外のものをつけて食べてもいいし、醤油を何にかけてもいい。
誰かが言っていたが「食べるということは救われてないといけない。」

ことシチューをかけるかけない程度のことで正当性を主張することは何もない。
正統な系譜に従って築き上げられた日本料理などを汚しているインチキ日本料理を出しているとかなら許してはならないが、普段の有吉マツコなら広い間口でいろんな話題も無難にこなしているが、正直今回の有吉とマツコはコメントはレベルが低かった。

今回のシチューご飯については少しがっかりした出来事だった。

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