« 人気!? フリーゲーム 『青鬼ver6.23』感想 | トップページ | 元経産官僚 古賀茂明の「I am not Abe」発言について考えてみる »

2015年1月17日 (土)

カエルは大海を知らないのか? ことわざ『井の中の蛙―』を考える

いわずもがな現在でも見識が狭い人に対してつかわれることわざである。
しかしなが「『井の中の蛙』は本当に見識が狭いのだろうか?」という疑問がかねてよりあったのでその部分に対して個人的な解釈を考えてみようと思う。

『井の中の蛙』は本当に見識が狭いのか?

広い世界を知っていた方がいろんな知識や世界が広がっている。アクティブな活動もしやすいだろうその考え方が悪いという疑問は一見ないように見える。
しかし、それが絶対的な『善』であると論じるのは間違っていると思う。
間違ってはいないがこのことわざはどちらかと言えば物事を論理的に考えない人ほど使いたがる側面から一部で意図的な詭弁(論理を捻じ曲げて正当化する論)が行われているのが問題である。
執筆しながら「『井の中の蛙』というのは専門性を追求した人との敬意とか過程が含まれていないばかりか、ひいては井の中の蛙で成功した人をも切り捨てる暴論ではないか。」という思いに至った。

後に続く『されど―』

ざっとGoogleで検索するだけでもいくつものパターンが散見され造語として考えたようで、日本側でされど―の文章が後付けされたという事らしい。
・されど空の青さを知る
・されど空の高さを知る
・されど空の深さを知る
何が主な造語の由来になっているかは調べることができないが説得力を持つ内容である。ある人によっては「負け惜しみ」という言葉で否定的に言われている場合があったが違うと思う。(そもそも何に対しての勝ち負けというきもするが)
大海に出ても大きな物を得る人は得るし、井戸の中の蛙でも大きな物を得る人は得ると思うからだ。それを分けるのは結局は人間力だ。

大海を知る事は良いことなのか?

確かにいろいろな目新しい情報や異なる慣習や文化、考え方に触れられるし比較検討する物が多いので大海に出た方がいろいろな選択肢が増えて大きな世界が広がっているように思える。しかし個人が生きる上で把握できる世界というのは限られる。豊かさのなかにあっても個人の中で認知されるはんいでしか世界は広がらないのだ。人間の質によっては文化的業績を高めることもあるだろうが愚か者であれば大海の良さを理解できずに果てるだけだ。

視覚的には異なるものに触れて大きな何かを知ったような気分になるが本質的な精髄をも理解まではもっと突っ込んで考えないと理解することはできない。
大海に出たからとて広く浅く知ることなどはほとんど意味をなさない。では逆に広く深くとなると人間の処理能力の問題でかえって情報過多で埋没してしまう。

実際のところはすでに情報過多の時代で情報に追いつけない人がでて情報格差が生まれているし、ある年代で常識とされていた知識や事柄、倫理、事象等々が若い世代から欠落し始めている気がしている。別にひがみ的にいう気はないが、これを若い世代の台頭というには怠惰さと単なる惰性に溢れすぎている。またこの怠惰と惰性を変に美化しようとする世代が出始めたことに危惧を覚えている。
一部若者の動きに関しては現象的には大海に出たはいいが溺れてしまった上に突然変異で有毒物質に変化してしまったといっていい。^^;
ネットがない時代であれば常識や流行、知識もある程度は収束して一元化されていた。いい意味でも悪い意味でも非常識とされる行為は自重するような空気が存在していた。だが今は情報過多の時代で共通知が失われてしまった。

例えば『恥』、『謙虚』、『努力』などそういった感覚が一部でかけている事が見られることが多くなったのだが、誰かが作った文化的な土台や文物に対して敬意を払うことなく、良い部分をおよそエッセンス的に上澄みを掠め取り(学習と言えなくもないが少し違う)まるで自身の手柄のようにふるまっている行為が散見される。
若者が主導しているインターネットサービスの多くは馴れ合いによって成り立っている。楽しい感情を共有したり褒め合ったり仲間外れにならないように振る舞っている。「楽しけりゃいいじゃん」的な軽さもさることながら、その為なら「ルールとかやり方が間違っていても関係ねぇ」的ないい加減さも伝わってくる。
目立つ事をすれば大胆で破天荒でカッコいい的なノリはツイッターのバイトテロでもよく見られている。

執筆中に思った事だが成人してしまえば我々はすでに大海に出ている。その中で社会的に好ましい人物が形成されているわけではない事を鑑みると大海に出る事はいい事ばかりではないという事だ。
大海で新しい情報が生まれそれを適切に取捨選択できないだけでなく人格形成にまで影響を及ぼしているとしたらネットが発達した情報社会というのは罪深いものではないだろうか。

現代においての『井の中の蛙』から見ることわざの存在意義

先に述べたように無知な人ほどこのことわざは使いたがる傾向がある。というのもこの手の定型句に飛びつく人が必ず存在していておよそファッション感覚で使いたいだけで中身は深く考えようとはしない。多少なりとも論理的に物事の本質を考えたいと思った人であれば、『井の中の蛙―』という言い回しはもったいぶり過ぎて言うのも恥ずかしい。
定型句は非常に使いやすく一定の説得力を持っている事がほとんどだ。とはいえ耳触りがいいだけで中立的とか良い視点が欠けている事もある。
この言葉を使いたがる人は人間関係で上から物を言って上下を作りたがる人で、人を傷つけるにはそれなりに影響のある言葉で使った時点で対人関係で無配慮な人格が見て取れ、当然ながら相手が本当に『井の中の蛙』なのか判断する気などさらさらないのが分かる。ありきたりな『井の中の蛙』という意味以上に解釈を発展させる気もない。上記のことからも他人に言われるのではなく自嘲気味に言うのが適切な言葉である。

またことわざというのが昔以上に形骸化していて、四字熟語的なものはともかく長文ほど使えるシーンは少ない。
初歩的であることわざ、大袈裟で無配慮、なことから使う機会は少ないと思われる。
年齢的な部分でことわざを有り難がっていた年代の人で中高年以上が条件的にも使いたがる年代だろう。
こういう事を書いておいてなんだが『思考の整理学』というロングセラー書籍を出した外山滋比古さんの著書の『わが子に伝える「絶対語感」練習帳』でことわざの良さについても書かれているので興味があれば読んでみてもいいかもしれない。

井の中にありながら宇宙を見る人々

では井の中にあり続けた人は大海を知らないのだろうか?いやそうではない。
けして広くはないが一つの物事を続けることで狭いながらもその中において大海どころか宇宙の高みにすら達した人がたくさんいるではないだろうか?
言い換えればそれは専門を極めるという事であり成功した人はプロフェッショナルとして社会的な敬意が与えられる。
それこそ愚直なまでにやり抜いたからこその成果であり、ことわざでいえば『雨だれ石を穿つ』と言えるのではないか。

日本には現在でも職人として何十年も井戸ほど狭いとは言わないがある種の職人的世界を維持形成し続けている人々がいる。
以前テレビで見た安芸太田町の鍛冶屋宮島のしゃもじ職人などもそうだし、ほかにも和菓子職人や豆腐職人など沢山職人がいるが
言ってみればその世界において“宇宙”を見出したから職人と呼ばれるようになったのだろう。

ちょっと前に漫画『ヒカルの碁』などで囲碁ブームが起こった。この漫画の中で囲碁を宇宙と比喩する場面があった。囲碁を宇宙と形容する慣習というか囲碁人(?)の共通認識としてあるのかはわからないが、検索で出てくる囲碁サロンさいたま新都心様なども宇宙としている。碁盤の目に白黒の碁石を乗せる単純な構造ではあるが囲碁をやっている人の頭の中ではおそらく何通りもの戦術を試行錯誤が行われているのだろうから宇宙と言って過言ではないのだろう。

格闘ゲームにも似た部分が感じられる。私にはストリートファイター4を仕事から帰ったらずっと続けている知人がいるのだが上に上がる為に毎日練習を繰り返している。skypeで会話をしているときなどはいつもジョイスティックの音が聞こえているが努力するのが当たり前。その上で更なる上積みを重ねる必要があるらしい。東京に行ったときには一度だけウメハラを倒せたらしい。

どこそこの大学教授なんていう人々もある意味で井の中にあり続けたからこそだろう。私の在学中の恩師は山口県の歴史に関する書籍など出されているがこれも山口県の歴史を続けてきたからと言えるのだろう。

またこれもテレビからの浅い記憶からだが熊谷守一という画家も言わば井の中で宇宙を持ち続けたといった人らしい。参考文章を見ると30年間も庭の草木や昆虫などの生き物を観察して絵に描き続けたという事だ。

区別されるべき『井の中の蛙』

いわれてもしかたがない『井の中の蛙』というのもある。
10代とかでまだかわいいのであればあれば許せる場合もあるだろうが、多くは目立たなければ問題ないが余りに自分の考えや行為が見えずに排他的で傲慢すぎる場合は仕方ない部分はある。
でも実際のところは相手の考えている部分を理解しないとわからないだろう。言いたい人も言われる人も物事を理解しようとする努力は欠かせない。

子供のころは無知だから問題はない。大人の蛙の中でも物作りや研究的な人でも害にならないし問題はない。
おそらく問題は他人に侮られないよう虚勢とか強がりを拗らせている可能性が高い人々だろう。
自身の無力感とか他者に対して弱みを見せないようにしたりとか、あるいは本当に愚かなケースが想定される。

虚勢・強がりであれば心に余裕を持つように促すことだろう。直接言うのはカドが立つので避けた方がいい。
自分が大人になってそれなりに話を合わせてやんわりと理解してもらうのが近道だろう。
こちらに余裕があればしっかりと受け止めてみるのもいいかもしれない。

私は意図的に井の中の蛙になるのも悪くないと思っている。
普段は気にしない事でも生活の細部の変化に喜びを見出したりすることで小さな事かもしれないが日々の生活がちょっとだけ明るくなるかもしれない。

|

« 人気!? フリーゲーム 『青鬼ver6.23』感想 | トップページ | 元経産官僚 古賀茂明の「I am not Abe」発言について考えてみる »

コメント

私には排外主義島国根性日本人の負け惜しみとしかとれないです。一種の精神的な逃げですね。
外の世界なんか知らなくていい、自分だけの深い(客観的根拠はない)世界があればいいという考えの興隆は
日本の歴史上、何度も繰り返し現れる幽霊みたいなものかと。

雨垂れ石を穿つといいますが、井戸の中の蛙は石に穴を開けるには雨だれを待つしかできませんが、
大海を知る亀は滝の下に置くなりするでしょうし、いずれ電気ドリルでも使うようになるでしょう。
蛙職人が美食倶楽部あたりでつかう1つの卵を作る間に、亀職人は一般人が安く買える卵を1万人分作れるでしょう。
そしてやはりいずれは蛙職人と亀職人の卵の味の差は目隠ししたらわからないレベルになるでしょうね。

元々の荘氏の意図としては蛙は自分の経験しか持ち得ないのに対し、亀は自分の経験に対する他人の評価・他人の経験や過去の歴史をも参考にできるということだと捉えています。
井戸の中の蛙は外を拒否した自分の小さな完全な世界にいつまでも閉じこもるでしょうが、大海の亀はより高み、例えば宇宙から見れば大海も一種の井戸のようなものかも知れないと知ったとしても、そのことを受け入れて更に高みを目指す意志も持てるでしょう。

そして得られる金銭というある意味残酷な他者からの評価は、亀であろうとする人達と蛙でいいやとする人達の間に深い溝を作っているのではないでしょうか?

投稿: ゆう | 2015年5月 8日 (金) 15時20分

どうもゆうさん。
それは一般的な見解としては理解できますが、それは一面的であり消極的な部分に寄りすぎていますね。
「広い世界を知るのも重要、狭い世界を追求するのも重要」ということです。
蛙=何事も狭い見識、亀=何事も広い見識、という二極論は現実に即していないでしょう。

現実はもっと細分化されています。
広い世界に身を置いていても本質的には浅いと言う事や日々の生活に忙殺され何かしら大局観を損ねている人が居ます。こういった人を亀と呼ぶことは出来ないでしょう?
狭い世界においても、狭い人は狭いし広い人は広い。それは個人の資質か、広い世界で修練を積んだ後自己の世界を開拓していく事もあるでしょう。没頭する分野に『道』があれば世界どころか宇宙を見出すこともあるやもしれません。

まず前提条件から誤っているのですが『勝ち負け』は問題では無いということです。
雨だれをドリル化するには機械の知識を学んだ方がいいでしょうね。少なくとも効率という面では…。(笑)
穴を穿った雨だれには年月歳月の厚みという叙情的なロマンとか感動がありますし、『蟻の一穴』ともいえるでしょう。
美食倶楽部とは『美味しんぼ』でしょうか?そこで念入りに卵を美味しくするということでしょうか?
であればこれも同じです。生産が効率化された食品でも人は満足させられますが、味以外の感動は皆無です。
一方で念入りに手間を掛けたものは作った当人へ感謝の気持ちや食に対する感謝をも喚起させることもあります。雄山先生ほどの理解者も重要です。
日本で高級な料亭など存在できるのも言わば有り体に言えば精神的な「おもてなし」が人を感動させているからでしょう。これは大量生産の既成品では出来ないことです。
たしか司馬遼太郎の小説で触れた気がしますが「飛騨の匠」にも100円の仕事に1000円2000円と儲けの出ない仕事をする「粋」(いき)というものがかつてはあったのかもしれません。

蛙や亀たちが立ち位置の自覚、向上意欲、ある種の執念を持つことで社会一般において金銭や名誉において差は出るに違いありません。「怠惰な蛙と勤勉な蛙」、または「怠惰な亀と勤勉な亀」ということでも差が生じるでしょう。

まぁ人間が社会的な生き物である以上は承認欲求が存在するので社会的に認められる勤勉な亀を選んだ方が無難ではあります。しかしながら、それを金銭と名誉を放棄する勤勉な蛙があえて困難な道に身を置く(単に認められず燻っているだけの場合も)という事も有るのかもしれません。

結局はどこに身を置いても本人が何を求めるか次第です。

投稿: ASH1803 | 2015年5月 9日 (土) 17時41分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1142280/58607515

この記事へのトラックバック一覧です: カエルは大海を知らないのか? ことわざ『井の中の蛙―』を考える:

« 人気!? フリーゲーム 『青鬼ver6.23』感想 | トップページ | 元経産官僚 古賀茂明の「I am not Abe」発言について考えてみる »