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2015年1月

2015年1月17日 (土)

カエルは大海を知らないのか? ことわざ『井の中の蛙―』を考える

いわずもがな現在でも見識が狭い人に対してつかわれることわざである。
しかしなが「『井の中の蛙』は本当に見識が狭いのだろうか?」という疑問がかねてよりあったのでその部分に対して個人的な解釈を考えてみようと思う。

『井の中の蛙』は本当に見識が狭いのか?

広い世界を知っていた方がいろんな知識や世界が広がっている。アクティブな活動もしやすいだろうその考え方が悪いという疑問は一見ないように見える。
しかし、それが絶対的な『善』であると論じるのは間違っていると思う。
間違ってはいないがこのことわざはどちらかと言えば物事を論理的に考えない人ほど使いたがる側面から一部で意図的な詭弁(論理を捻じ曲げて正当化する論)が行われているのが問題である。
執筆しながら「『井の中の蛙』というのは専門性を追求した人との敬意とか過程が含まれていないばかりか、ひいては井の中の蛙で成功した人をも切り捨てる暴論ではないか。」という思いに至った。

後に続く『されど―』

ざっとGoogleで検索するだけでもいくつものパターンが散見され造語として考えたようで、日本側でされど―の文章が後付けされたという事らしい。
・されど空の青さを知る
・されど空の高さを知る
・されど空の深さを知る
何が主な造語の由来になっているかは調べることができないが説得力を持つ内容である。ある人によっては「負け惜しみ」という言葉で否定的に言われている場合があったが違うと思う。(そもそも何に対しての勝ち負けというきもするが)
大海に出ても大きな物を得る人は得るし、井戸の中の蛙でも大きな物を得る人は得ると思うからだ。それを分けるのは結局は人間力だ。

大海を知る事は良いことなのか?

確かにいろいろな目新しい情報や異なる慣習や文化、考え方に触れられるし比較検討する物が多いので大海に出た方がいろいろな選択肢が増えて大きな世界が広がっているように思える。しかし個人が生きる上で把握できる世界というのは限られる。豊かさのなかにあっても個人の中で認知されるはんいでしか世界は広がらないのだ。人間の質によっては文化的業績を高めることもあるだろうが愚か者であれば大海の良さを理解できずに果てるだけだ。

視覚的には異なるものに触れて大きな何かを知ったような気分になるが本質的な精髄をも理解まではもっと突っ込んで考えないと理解することはできない。
大海に出たからとて広く浅く知ることなどはほとんど意味をなさない。では逆に広く深くとなると人間の処理能力の問題でかえって情報過多で埋没してしまう。

実際のところはすでに情報過多の時代で情報に追いつけない人がでて情報格差が生まれているし、ある年代で常識とされていた知識や事柄、倫理、事象等々が若い世代から欠落し始めている気がしている。別にひがみ的にいう気はないが、これを若い世代の台頭というには怠惰さと単なる惰性に溢れすぎている。またこの怠惰と惰性を変に美化しようとする世代が出始めたことに危惧を覚えている。
一部若者の動きに関しては現象的には大海に出たはいいが溺れてしまった上に突然変異で有毒物質に変化してしまったといっていい。^^;
ネットがない時代であれば常識や流行、知識もある程度は収束して一元化されていた。いい意味でも悪い意味でも非常識とされる行為は自重するような空気が存在していた。だが今は情報過多の時代で共通知が失われてしまった。

例えば『恥』、『謙虚』、『努力』などそういった感覚が一部でかけている事が見られることが多くなったのだが、誰かが作った文化的な土台や文物に対して敬意を払うことなく、良い部分をおよそエッセンス的に上澄みを掠め取り(学習と言えなくもないが少し違う)まるで自身の手柄のようにふるまっている行為が散見される。
若者が主導しているインターネットサービスの多くは馴れ合いによって成り立っている。楽しい感情を共有したり褒め合ったり仲間外れにならないように振る舞っている。「楽しけりゃいいじゃん」的な軽さもさることながら、その為なら「ルールとかやり方が間違っていても関係ねぇ」的ないい加減さも伝わってくる。
目立つ事をすれば大胆で破天荒でカッコいい的なノリはツイッターのバイトテロでもよく見られている。

執筆中に思った事だが成人してしまえば我々はすでに大海に出ている。その中で社会的に好ましい人物が形成されているわけではない事を鑑みると大海に出る事はいい事ばかりではないという事だ。
大海で新しい情報が生まれそれを適切に取捨選択できないだけでなく人格形成にまで影響を及ぼしているとしたらネットが発達した情報社会というのは罪深いものではないだろうか。

現代においての『井の中の蛙』から見ることわざの存在意義

先に述べたように無知な人ほどこのことわざは使いたがる傾向がある。というのもこの手の定型句に飛びつく人が必ず存在していておよそファッション感覚で使いたいだけで中身は深く考えようとはしない。多少なりとも論理的に物事の本質を考えたいと思った人であれば、『井の中の蛙―』という言い回しはもったいぶり過ぎて言うのも恥ずかしい。
定型句は非常に使いやすく一定の説得力を持っている事がほとんどだ。とはいえ耳触りがいいだけで中立的とか良い視点が欠けている事もある。
この言葉を使いたがる人は人間関係で上から物を言って上下を作りたがる人で、人を傷つけるにはそれなりに影響のある言葉で使った時点で対人関係で無配慮な人格が見て取れ、当然ながら相手が本当に『井の中の蛙』なのか判断する気などさらさらないのが分かる。ありきたりな『井の中の蛙』という意味以上に解釈を発展させる気もない。上記のことからも他人に言われるのではなく自嘲気味に言うのが適切な言葉である。

またことわざというのが昔以上に形骸化していて、四字熟語的なものはともかく長文ほど使えるシーンは少ない。
初歩的であることわざ、大袈裟で無配慮、なことから使う機会は少ないと思われる。
年齢的な部分でことわざを有り難がっていた年代の人で中高年以上が条件的にも使いたがる年代だろう。
こういう事を書いておいてなんだが『思考の整理学』というロングセラー書籍を出した外山滋比古さんの著書の『わが子に伝える「絶対語感」練習帳』でことわざの良さについても書かれているので興味があれば読んでみてもいいかもしれない。

井の中にありながら宇宙を見る人々

では井の中にあり続けた人は大海を知らないのだろうか?いやそうではない。
けして広くはないが一つの物事を続けることで狭いながらもその中において大海どころか宇宙の高みにすら達した人がたくさんいるではないだろうか?
言い換えればそれは専門を極めるという事であり成功した人はプロフェッショナルとして社会的な敬意が与えられる。
それこそ愚直なまでにやり抜いたからこその成果であり、ことわざでいえば『雨だれ石を穿つ』と言えるのではないか。

日本には現在でも職人として何十年も井戸ほど狭いとは言わないがある種の職人的世界を維持形成し続けている人々がいる。
以前テレビで見た安芸太田町の鍛冶屋宮島のしゃもじ職人などもそうだし、ほかにも和菓子職人や豆腐職人など沢山職人がいるが
言ってみればその世界において“宇宙”を見出したから職人と呼ばれるようになったのだろう。

ちょっと前に漫画『ヒカルの碁』などで囲碁ブームが起こった。この漫画の中で囲碁を宇宙と比喩する場面があった。囲碁を宇宙と形容する慣習というか囲碁人(?)の共通認識としてあるのかはわからないが、検索で出てくる囲碁サロンさいたま新都心様なども宇宙としている。碁盤の目に白黒の碁石を乗せる単純な構造ではあるが囲碁をやっている人の頭の中ではおそらく何通りもの戦術を試行錯誤が行われているのだろうから宇宙と言って過言ではないのだろう。

格闘ゲームにも似た部分が感じられる。私にはストリートファイター4を仕事から帰ったらずっと続けている知人がいるのだが上に上がる為に毎日練習を繰り返している。skypeで会話をしているときなどはいつもジョイスティックの音が聞こえているが努力するのが当たり前。その上で更なる上積みを重ねる必要があるらしい。東京に行ったときには一度だけウメハラを倒せたらしい。

どこそこの大学教授なんていう人々もある意味で井の中にあり続けたからこそだろう。私の在学中の恩師は山口県の歴史に関する書籍など出されているがこれも山口県の歴史を続けてきたからと言えるのだろう。

またこれもテレビからの浅い記憶からだが熊谷守一という画家も言わば井の中で宇宙を持ち続けたといった人らしい。参考文章を見ると30年間も庭の草木や昆虫などの生き物を観察して絵に描き続けたという事だ。

区別されるべき『井の中の蛙』

いわれてもしかたがない『井の中の蛙』というのもある。
10代とかでまだかわいいのであればあれば許せる場合もあるだろうが、多くは目立たなければ問題ないが余りに自分の考えや行為が見えずに排他的で傲慢すぎる場合は仕方ない部分はある。
でも実際のところは相手の考えている部分を理解しないとわからないだろう。言いたい人も言われる人も物事を理解しようとする努力は欠かせない。

子供のころは無知だから問題はない。大人の蛙の中でも物作りや研究的な人でも害にならないし問題はない。
おそらく問題は他人に侮られないよう虚勢とか強がりを拗らせている可能性が高い人々だろう。
自身の無力感とか他者に対して弱みを見せないようにしたりとか、あるいは本当に愚かなケースが想定される。

虚勢・強がりであれば心に余裕を持つように促すことだろう。直接言うのはカドが立つので避けた方がいい。
自分が大人になってそれなりに話を合わせてやんわりと理解してもらうのが近道だろう。
こちらに余裕があればしっかりと受け止めてみるのもいいかもしれない。

私は意図的に井の中の蛙になるのも悪くないと思っている。
普段は気にしない事でも生活の細部の変化に喜びを見出したりすることで小さな事かもしれないが日々の生活がちょっとだけ明るくなるかもしれない。

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2015年1月12日 (月)

人気!? フリーゲーム 『青鬼ver6.23』感想

個人的に大好きなGACKTがYoutubeのネスレ日本公式ページにてフリーゲーム『青鬼』のプレイ動画をきっかけに私がプレイをした感想を書こうと思う。
フリーゲームは大学時代にはフリーソフトの収録されたCD-ROM付属のPC雑誌も結構の頻度で買っていた。パソコンを使い始めのころはフリーソフトの世界に無限のおもしろさが満ち溢れていた気がする。
今は全く興味がなくなってしまったが今回フリーソフトの中で『青鬼』のように見いだされる作品があるのを知り、フリーソフトも捨てた物ではないという気持ちを新たに持つ事が出来た。


何はともあれ実際プレイしてみたのだが、まぁ個人的には少々厳しい見方となった。

全体的に不親切

プレイしてみてわかるのだが全体として悪い意味でプレイヤーを突き放した作りになっている。
プレイのほとんどが真っ暗かそれに近い建物内を探索するのだが通路がまったく見えないので部屋の把握までに苦労する。訳も分からず彷徨っていると青鬼にバンバンやられてしまう。
※上記一部修正:先に感じた画面が暗すぎる点の指摘についてはガメセンテル内では割と通路の様子が見やすかったので削除修正。当方のWindows8環境では起動すらせず不十分な仮想マシンでプレイしたことも影響したようだ。

謎解き部分も通常のRPGなどのゲームの常識外で考える必要がある。というのもRPGとかであれば直接タンスや物置、重要箇所を調べることで重要なアイテム入手やイベントが起こるものだ。
たとえば地下牢の中の落書きの中に番号が紛れ込んでおり牢屋鉄格子の外から見る事で番号が分かる。ヒントも一応あるしおもしろかったが格子の外に立たないとイベントが起こらないのですこしわかりづらかった。作者の狙い通り「縦のラインを消せば良いのでは?」という推測は立てられたがそれでも解読イベント(格子外から見る)を見ないと分からないので動作に作業的な飛躍が生じる。可能なら壁を調べた場面で謎解きを完結させる工夫とか主人公が推論メッセージを流すなりイベント発生地点をわかりやすくする工夫がほしかった。

また驚いたのが椅子や銅像を隣の部屋まで動かせるという点だ。通常のRPGを基本とするとたとえば所定の位置に銅像をうまく数か所置くと扉が開く仕組みが存在する。置き方を間違えた場合はそのエリアに入りなおすことで既定の位置に銅像が元に戻っているという具合。そしてその仕組みはそのエリア内でしか有効にならない事がほとんどだ。
しかし、このゲームはその銅像やイスを隣のエリアに持ち出してそれを壊したり踏み台にする事が可能なのだ。別に可能なら作者が自由に決めてもよいし絶対的なルールではないがどうも調子が狂わされる。

最初に遭遇する作者の不親切はプレイヤー達が最初にスタートした地点の右上に通路があるかどうかは所見では分からず2階のの見取り図によって初めて隣室の存在がわかる。これを意図しているかまでは知らないが作者は意図的に画面の四方を黒枠で覆うことで壁か通路か見難くなっていることがある。
青鬼と狭い部屋を逃げ回る事を考慮してあえて画面を小さくしたのだろう。
青鬼を出してプレイヤーをいちいち脅かす目的のためならゲームとしてのプレイ環境を損なっても良いように感じられやや傲慢な作りに見えないこともない。随所に散見される不親切な作りはゲームに対してのセオリーが欠けているとも考えられる。そこはフリーソフトだから厳しく見過ぎても良くないが私には少なくとも『優れたゲーム』とは思えなかった。

作為的に不親切に作ることでスリルの助けになると考えがあるとしたら私は違うと思う。
ホラーゲームの手さぐり感のスリルはそういう物ではない。いつ怪物が出るかもしれない状況で何をやってどこにいるかプレイヤーが把握して最大限の知恵と神経を研ぎ澄ます環境を十分に与えた上でそれでも一生懸命逃げても追いつめられる事で緊張感が作られるのではないか。
このゲームの青鬼も出たら焦ることは焦るが暗い為に変に通路かと思った壁に引っかかって死んでしまうとか、階段に居るのに廊下部分で隣接しただけで死んでしまうとか理不尽な環境は必要がない。

見せ方はそこそこ

青鬼も初見は結構怖いし、鉄格子をつかむ演出とか多少は凝っている。殺された仲間のカツラをかぶって現れるなど笑い所も用意されている。最後あたりにはいろいろな青鬼を見ることができる。謎解きも不親切だが工夫が見られた。出現のさせ方も異なっているのは楽しい。やられたと思った仲間がステータス画面で変化するなど見せ方は変化があってよかった。2体同時に追いかけられる場面でも自動的に部屋に逃げ込めるよう調整された場面も好印象。キャラ名を変えることでちょっとしたおまけ要素がいくつかあって世界で大人気のサウスパーク風のおまけゲームは短いながら再現が普通に良かった。
上記のような意外性や見せ方は評価できる。

もったいないのが青鬼でビックリさせるという意図は早いうちに達成されてしまっているという事だ。初見は気味の悪い顔だが見慣れると怖くはない。もっと怖いシーンとか入れたりすると怖さも違ってくるだろう。仲間たちの存在も青鬼にどうやって殺されるか演出する程度の役割だったのでこれももう少し内容を盛り込んでも良かったと思う。

まとめ

見せ方とかは悪くなかったがゲームとしては雑と見える部分も多かったので5点満点で点数をつけるとしたら個人的に3点ぐらいだ。
青鬼のキモさに慣れない方は不親切さも手伝って結構楽しむことができるのではないだろうか。

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