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2012年12月

2012年12月15日 (土)

日本昔話のED曲「にんげんっていいな」考察

昔テレビで親しまれていた日本昔話のエンディング曲「にんげんっていいな」という曲なのだが、歌詞の表現が直接的でなかったせいか今でも意味に疑問を持っている方が多いようだ。今回はいくつかの疑問を掘り下げていきたい。

 

「にんげんっていいな」

山口あかり作詞・小林亜星作曲

くまのこ見ていた かくれんぼ
おしりを出したこ いっとうしょう
夕やけこやけで またあした
またあした

いいな いいな
にんげんって いいな
おいしいおやつに ほかほかごはん(注)
こどもの かえりを まってるだろな
ぼくもかえろ おうちへかえろ
でんでん でんぐりかえって
バイ バイ バイ

もぐらが見ていた うんどうかい
びりっこげんきだ いっとうしょう
夕やけこやけで またあした
またあした

いいな いいな
にんげんって いいな
みんなでなかよく ポチャポチャおふろ(注)
あったかい ふとんで ねむるんだろな
ぼくもかえろ おうちへかえろ
でんでん でんぐりかえって
バイ バイ バイ

いいな いいな
にんげんって いいな
みんなでなかよく ポチャポチャおふろ(注)
あったかい ふとんで ねむるんだろな
ぼくもかえろ おうちへかえろ
でんでん でんぐりかえって
バイ バイ バイ

※歌詞は某所から転載しました


『おしりをだしたこいっとうしょう』~1等賞とは?~

誰もが最初に引っかかる部分は多分ここだろう。「かくれんぼでお尻を出した子がなぜ一等賞に?」と思うはず。この事について考えを述べる掲示板では例えばこういう考え方があった。(以下は便宜的に番号を付ける)

1「人間は尻尾が生えていないから1等賞」
2「くまがルールが分からず勘違いしたので1等賞」
3「みんなを驚かせみんなが一斉に出て来させて一気に捕まえたから1等賞」
4「わざと負けて良い引き際を見定める事が(人生では)1等賞」

しかしながら、私は上記の考えはどれも間違っていると考える。1については動物と人間の違いはあっても尻尾の有無については触れていない、2は勘違いするほど熊もモグラも人間について無知ではない。(後述の『動物と人間の関係と社会性』で述べる)3は飛躍しすぎ、4は確かに人生の真理だが妥協を覚えるには早すぎでそもそも歌詞がそこまで深く掘り下げられない。

確かにこの歌詞のみに着目すれば『いっとうしょう(1等賞)』という歌詞が何かしらの比喩など別の解釈を考えてしまう場合もあるようだ。まず1等賞が意味するところが明確になっておらずある程度定義づけが必要だ。そこで2番目の1等賞に該当する歌詞を見て比較してみよう。

1『おしりをだしたこいっとうしょう』
2『びりっこげんきだ いっとうしょう』

という歌詞になっている。この歌詞からは遊びでも競走でもどちらも「負けた子が1等賞」である事と同時に「1等賞の子の性質」が分かる。
昔から子どもの教育的な考え方勉強が出来なくても良い所を見出そうとする見方は確かにあったと思う。あまり無理がない発想ではあるし、少なからず勉強や運動に捉われずできるだけ子供の長所を引き出し伸びていく可能性を信じたい親の希望的観測と子供に対してのおおらかで寛容的な見方を親たちに与えたに違いない。
またこどもたちにとっても我が子の成績に執着する親の気持ちを少しばかり緩衝してくれる役割を果たしているかもしれない。(親の気持ちは子供にとっては重圧になる事もあると思うので )

子どもの性質については2番目の歌詞では『げんき』な子供、1番目の歌詞は直接的ではないもののかくれんぼで尻を出してしまうあたり『ドジ』・『どこか抜けてる』といった子ども像が浮かび上がる。

つまりは“負けてもいいんだよ”という事が言いたいのだと思う。なぜ断定せず思う”かというのは1番目の子に長所が見つけられなかったからだ。2番目の子供は負けたけど元気、1番目の子供は鬼に見つかったけど長所がない。なので決定的な確信に至らなかったためここは直前で留め置く。
しかし、また改めて一歩引いて考えてみると動物の視点から羨ましがられている事を考えると“人間として人間らしい生き方が出来るだけでいいじゃないか”という考え方も見えるので1番の子供に長所がなくても人間として生まれた来ただけでも“いっとうしょう”と言っていいのではないだろうか?

(前述の他者の考えの3番を一応補足すれば“お尻を出す=奇抜な事をした”と考える人がいるがこれは間違いだろう。かくれんぼだから尻を隠さない場面がストンと理解できるのであって、仮に鬼ごっこや缶蹴りなどでは尻を出す場面は理解できない。)

『にんげんっていいな』~人間って素晴らしい~

この歌は熊とモグラの視点から人間を羨ましがる内容となっている。羨ましい事としておやつにごはん、子供の帰りを待つ家族、家族団欒でのお風呂や布団などに触れられている。動物だからこそ人間が良いなと思うわけだが、ただ良いというだけでなく、その前にかくれんぼや運動会で負けた子のエピソードを挟むことで失敗に対してのフォローが入っている。『いっとうしょう』という単語はそういうフォローの象徴的単語と言ってよいだろう。 説得力もより高まる印象となる。
なにはなくともともかく『いっとうしょう』で慰め、(「君は悪くないんだよ」って言い換えても良いかもしれない)そこから「人間らしく生きられるだけでいいじゃないか」という考えにつなげていく訳だろう。

動物と人間の関係と社会性

動物は人間の子供の様子を傍観したり想像して羨ましがっているだけで子どもたちに加わって遊んでいるわけではない。そしてかなり人間の生活に熟知している。かくれんぼ、運動会、お風呂、睡眠方法、おやつとごはんの違いまで理解している。

表現される動物像によってもまた異なる場合も考慮した。作品によってはおよそ人間らしい考え方や動作をするほぼ人間と変わらない擬人化された動物、人間の事をある程度までは理解でき考え方を読者から客観的には読み取れる動物、物語中でも特に意思表示せず全くの動物そのもの等々色々差がある。
童話のごん狐などの『ごん』はその中間的な立場ではないだろうか。

熊とモグラの位置づけから考えると人間の生活様式を知っている分、擬人化的性質は高い段階にあるとみて良い。
なので動物たちは人間についての知識での誤解は少ないとみて良い。

総評

『いっとうしょう』についての歌詞が不足しているので決定的な説得力が不足していたのが気にかかっていたが、勝ち負けにこだわらなくともいっとうしょうになれるという事を言いたいという事に違いないだろう。

ここまでの上記の考えを導き出してまた翻って「動物が『いっとうしょう』を勘違いしたのでは?」と他者の考えおもねる恐れがあったが、そもそもその考えは筋道を立てて考える姿勢とは異なる単純な考え方に依拠しているので自分の考えとは似て非なる物なのだと思い直した。
人間の生活様式を熟知している点もかなり引っかかる。そんな彼らが『いっとうしょう』の意味を誤解するだろうか?
かくれんぼも運動会も理解しているのに直前で『いっとうしょう』だけ誤解している素人のような間違いをするだろうか?これは理解した上で『いっとうしょう』と言っていると見た方が良い。そこでもう一度2番目の歌詞を見直してみると

『びりっこげんきだ いっとうしょう』

間違いない。動物たちは高度な知識を有した上であえていっとうしょうと言っている。
『びりっこ』という単語は明確な最下位を表す。 意味を逆に考えてしまったと言うには知識が豊富すぎるのだ。
どのようにいっとうしょうだったのかは想像する他ないが動物たちには子供たちが生き生きとひときわ輝いて見えた瞬間があったに違いない。
(ここで今度は逆に「「びりっこ=1位・勝負に勝つ」と誤解しているのでは?」と考えるのは論述では限界です。そこまでいくと単なる妄想レベルになってしまうでしょうね。(--))

その他の『いっとうしょう』

私の知っている中で思いついたのは丸大ハムのCM(わんぱくでもいいって言い回しが)や広島に住んでいる人ならたぶんわかると思うが花ソーセージのCMなどもある。どんなCMかというと1点と0点ばかりの子供がテスト用紙を並び替えて100点満点に見せたり、雑巾がけをめんどくさがる子が雑巾に乗ってスケートのように滑って拭く様子などの締めに「がんばる子に花ソーセージ」の一言とよくできましたマークで締めくくるCMだ。 (残念ながら動画が見つかりません)
検索で見つけた童話でも『よーいどんけついっとうしょう』という童話はこれも別の意味で『いっとうしょう』になる過程が描かれているようだ。
多分『いっとうしょう』の形は人それぞれ違う事もあるのではないか。
自分に相応しい『いっとうしょう』を見つけて行きたいものだ。
(2012年12月19日加筆修正)


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