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2009年9月 7日 (月)

友人と距離をとるという事

先日、月に1・2度程度連絡を取り合っていた友人と距離を置く事を決めた。彼とは以前から大学を卒業してからも何度も連絡を取り合っていた。
私自身は彼とのやり取りの中で感じ始めた事では次第に半端な付き合いや互いに感謝する姿勢が欠けていっている事、彼自身が安定的思考(無難な保守的思考と思っている)に私自身の方向性が噛み合わなくなってきたという事、彼自身の性格や態度のずるいと思う部分が露呈し、正直に話をやり取りを交わす可能性が開けない事などが理由としてあった。

関係を改善したいという気はあったが、違う考え方を許容していける可能性がない訳ではないが、どうしても個人の考え方には踏み越えられない壁が存在する気がしている。“個人の自由”とか“思想信条の自由”と言ったものだ。

彼との付き合いの中で個人を尊重する意識が欠如しているとは思ってはいないが、とやかく言えば上記のような“個人の自由”を持ち出される面倒くささもあったし、彼自身の気になる点としては責任転嫁する癖や知ったかぶりをする癖など正直さ(誠実さとは書かない)に欠ける点が散見されるようになってきた。このようなおよそ感情的な部分で不快感が残る事がある。

彼自身は仕事の中でバランス感覚(協調性)を高めてきているようだが、仕事に意義を見出した事により、これまで受動的な協調性が能動的な協調性として高める事ができるようになったようだ。その為に自由な発想も抑える結果になったのではとも思う。
私自身は逆に安定や協調を良しとしない意識を持っているのだが、いまだに無意識に相手の考え方に同調しようとする癖が抜けない。親しい間柄であればそれだけ相手の傾向に傾いてしまう。

これまでやりたいと思っている事でも周りの目を気にしては、納得のできる結果を残せなかったり、
自虐的なことを考えては自分から無難な方向へ進む事が多かった。だから少しでも自分が信じる道に精力を傾けなければ何をやっても身にならない。

友人には不満や言いたいことがあれば言ってくれと何度かお願いしていたが、何かあろうと本当のことを口に出す事はない。会話をする際はいつも相当な時間を費やすことが多く、時計が午前を回る事がよくあった。互いに話のまとめ方や流れを掴むのが上手でない事も長くなる理由にあるだろう。それでも友人が仕事の話をしてくれる度に付き合いが負担になってはいないだろうかと心配する事が多くなった。

時間的な制約や楽しみを共有できる機会があまり取れなかったのも理由にある。漫画やアニメ、政治などの話などをよくするが、結局は情報が共有されていないので、深い内容に発展しにくく表面的で無難な一般論程度に落ち着いてしまう事が多い。せっかく互いに話題を提供しても話題を汲み取る努力も欠けている事もあっただろう。

友人関係にどのような点に重点を置いて付き合うかは人次第だが、距離が近すぎると有り難さを忘れてしまいがちになる。
関係を改善する可能性は残されていると思うが、時間を置いたり、場合によっては決別する事も考える事があるかもしれない。親しい人が自分自身にとって先に進むのに障害になってしまうと考えてしまうのは悲しい事だが無い話ではない。
進むべき道が違うなら今まで通りでは駄目な事もあるのかもしれない。
互いに先に進んで行ける良い関係でありたいものだ。

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