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2009年5月 8日 (金)

友人とのメールのやり取りについて

友人に対してメールでやり取りをすると色々不便な事が多かったりする、こと友人関係においてはメールは欠点が多いようだ。

メールと言うのはなかなか便利であるのは間違いが無い。人に対して想いを伝える方法には口頭で直接相手に伝える方法と文章で伝える方法がある。メールは後者になるだろう。
伝えられる情報量や即時性、文字の入力の手間が劣るものの、話す内容を整理しやすく、話の密度を高めやすいと言う利点があるのでメールを利用する事が多かった。

しかし、利用していく度に別の欠点が出てきた。メールに返信されないと虚しさを感じてしまうのだ。それはメールの内容について密度を高めた時ほど虚しい物は無い。ただ相手に一定の反応を期待して連絡をすると、相手が無反応だった時の無視されたような落ち着かなさ、話をしたい内容をそらされた時の脱力感というのは相当な物だ。
もちろん相手は制約された時間の中、文章入力に熟練していないかもしれないのに、連絡を返してくれるだけでも十分礼を尽くしているはずだ。付き合ってくれるだけで有り難い。
相手に一定の反応を期待して話題を振るのも一つの“甘え”の発想からくる行動だろう。

もっとも私は相手に何かを期待して行う行為全般は須らく“甘え”と言えるのという思いを持っている。この点は土居健郎氏の著書『甘えの構造』に詳しい説明がされていると思われる。最もまだ読んではいないが人づてで“甘え”について考えさせられたのでこの事について少し触れてみたい。

甘えの重要性、行き過ぎた自由(甘え)の行き着くところ

甘えられる状況にあるということはある大きな枠組みの中で許容されているから成立するのだと思う。
甘えにも一定の対応と秩序が必要で、一方的に甘える形だと我々が不利益を被ることもある。

例えばゴミのポイ捨てや不法投棄は見ていて腹が立つが、一定の秩序やルールを守る人々、その行為を許容する(黙認する)人々、法律の罰則規定の緩さに甘えている。あと個人の自由という考え方にも甘えているのではないだろうか。もし多くの人がゴミを投棄すれば街の景観は乱れ、莫大な税金が投入され、罰則規定も強化される。

ゴミに関連すると私は先日マツダスタジアムに行ってきた。球場内には沢山の飲食店が出店しているが、弁当の持ち込みは可能、ペットボトル・ビン・缶は持ち込み禁止になっている。もしゴミを散らかす人々ばかりなら、一切の飲食物の持ち込みは出来なくなっているだろう。(最もカープには風船を飛ばす慣習があるみたいなのである程度許容されているかも知れないが・・・)しかし極端な状況になれば持ち込み禁止もありうる話だ。

「人に迷惑を掛けなければいいじゃないか」と言う人がいるが、これは違う。関係の無い人々に意味の無い規則や罰則を課する行為で、日常生活の利便性を大きく阻害する物だ。一定の規律やルールは必要だが余計なルールは生活する人々の窮屈さや複雑さを増すばかりで良い事はない。
公共サービスでも救急車の目的外利用による代金徴収議論、生活保護の不正受給による制度的機能不全(改良の余地はあるかも知れないが)、など何かしら制限されていることはないだろうか。(サービス提供側が費用や手間を惜しんだ口実作りとも取れる場合があるかも)

良い仕組みがあっても利用者のモラルが欠けていれば周りに迷惑を掛ける結果を起こす場合があるのだ。せめて人に言われなくても守れる事ぐらいは守ってほしい物だ。 一言で表すなら勝谷誠彦氏が以前テレビで言っていた“馬鹿基準”と言ったところだ。

話を戻すと私のメールも友人との関係性という枠組みの中に甘えを求めていたからだと言える。
この点で互いの歩み寄りが出来ずに甘えについて良い関係が保てなくなっていたのだろう。

ただ“甘え”は悪い事ではなく甘える余地を残す事で人々に心理的余裕と安定を生むのも確かだと思う。
甘えを許されず他者を頼れず個人に対しての結果と責任を求められる時代になった今、甘えられる環境も必要なのだ。
そして、幸運にも甘えられる人々はその事に感謝しなければいけない。甘やかす側も甘える側に少なくとも何かを期待して甘えさせてくれている。お互いに甘え、甘やかされながら許し、感謝しあえる関係を作る事が好ましいと言えるだろう。両者の関係のどちらかが欠けても良い甘えは成立しない。

私には社会に寛容の精神が欠けていれば、世の中はとても息苦しくまるで地獄のように思える。
欠点ばかり指摘され、それをお前の自助努力が足りないのだ甘えるなと言われる事もある。それが個人の価値観を土足で入って否定した上に悪とされ、あまつさえ個人の存在価値をも喪失されることすらある。(あまりセンチメンタル過ぎても困ってしまうが)
挫けた気持ちを立ち直し前進していくためには膿を出さなければならない。気持ちを回復する方法として甘える行為は一つの方法としてあってよい事と思う。

心を痛めることばかり習熟しても得をする人はほとんどいない。小さい視点で言えば罵倒した側に心理的優越感を与えるだけにしかならない。ひとりひとりが学校や会社という集団の中で他者を傷つける行為が繰り返されれば、社会は暗い物になってしまうだろう。それは私は社会はひとりひとりによって作られていくと思っているからだ。

大げさに考える必要は無いが自分自身がすこしでも社会を構成している一員と思って生きたいものだ。
よりよい未来は自分が少しでも動かないと得がたいのもまた事実なのだから。

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