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2009年5月

2009年5月19日 (火)

新型インフルエンザによる休校 一体何のための休校か?

日々日本の新型インフルエンザ感染が増加していく中、水際対策の時期も過ぎ、感染拡大を防ぐ段階に入ってきた。大阪・兵庫の小中学校、高校などは同県の感染者増加を懸念して休校が相次いでいる。
しかし、この臨時休校がまったく意味がなくなっている。休みをもらった小中高生が街に遊びに出ているのだ。一体何の為の休校なのだろうか。

繁華街、目立つ中高生=「自宅待機」徹底されず-一斉休校の生徒ら・大阪、兵庫
「感染したら自業自得」。新型インフルエンザの影響で一斉休校が続く中、大阪府や兵庫県の繁華街では19日、普段の平日以上に中高生らの姿が目に付いた。自宅待機が徹底されない状況に、両府県の教育委員会は「ほかの人にウイルスを感染させないことが目的。『自己責任』は通用しない」と呼び掛けている。
若者が集まる大阪・ミナミのアメリカ村。友人と待ち合わせをしていた大阪市立中学3年の女子生徒(14)は「地元でも外出している友達をよく見掛ける。家でおとなしくしている子は少ない」と話す。体調不良で欠席している同学年の生徒が20人以上いるというが、「手洗い、うがいをすれば大丈夫だと思う。感染したら自業自得という感じ」と笑った。
同日朝に休校を告げられた専門学校の男子生徒(18)は、友人と制服姿でカラオケ店前で開店待ち。「一斉休校でも結局、友達と会うから意味がない」と話していたが、カラオケ店員に「休校中の学校の生徒は入店できない」と断られ、「一時間待ったのに」と嘆いていた。
JR三ノ宮駅(神戸市中央区)前の繁華街を歩いていた高校1年の女子生徒2人=いずれも(15)=は「ちょっとその辺なら大丈夫かなと思って」と悪びれた様子はない。「外に遊びに行く子は半分くらい。ブログを書いたりDVDを借りて家にこもる子もいるけど、家にいても暇過ぎる」。休校中の生徒でも入れるゲームセンターを探して立ち去った。
学校側は家庭訪問などで在宅確認しているが、大阪府教委は「高校は通学区域が広く、連日の訪問は不可能。両親が働いている家庭で、外食に出ることまでは止められない」と頭を悩ませている。

感染力が強く、若年層に広く拡大すると言われており、感染拡大防止において休校は最大限効果を発揮する方法であるのは言うまでも無い。しかし、家庭と子供たちの危機感が薄い為にかえって蔓延を拡大させている。

現在のところ弱毒性で過剰反応だと見る向きもあるが、最も心配されるべきは感染拡大による変異だろう。タミフルに耐性をもつ場合や強毒性に変異した場合の緊急性は計り知れない。感染が広まっていくほどその脅威に至る可能性が形作られるのは想像に難くはない。今後の感染者増加により経済的にも医療的にも迅速な対応を迫られることになるだろう。

学校側は社会的責任と面目を守る為に休校させるのは当然だろうが、学校側が行動を制限するにも限界があり、学生ひとりひとりに対しての有効な活動制限には殆ど至っていない。
ウィルスの感染に対しての危機感がないのは仕方が無い部分があるにせよ、ウィルスにまで自己責任論を持ち出すのは論点がずれすぎている。ウィルスが意思を持って広まっているわけではなし、感染したくてなるわけではないのだから自己責任ではないのは普通は分かりそうな物だが・・・。

もし事態が深刻化した際には小中高生らの行動などで責任の所在を問う声が出てくるかもしれない。これで子供が死亡したとなれば、学校の対応が徹底していない、行政の対応悪い、医療機関の対応が悪いなど親達からまた身勝手な責任転嫁が起こったりしないだろうかと少し心配している。

時に“個人の自由”という発想は集団的行動の一貫性や集団のまとまりを著しく損ない、周囲に迷惑を掛ける行いに繋がる事を留意しておきたい。

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2009年5月14日 (木)

とらドラ!視聴後の感想など

当初この作品について全くの知識がなかったのだがニコニコ動画で見たインコと女の子(櫛枝)の動画のインパクトが強かったので、アニメ作品に興味を持った。実際にその印象を裏切らない出来だった。
前半の明るいムードから変わって後半は少しばかり修羅場を迎える。常に明るい櫛枝の態度の変化は緊張感を高めていった。

個人的な人物に対しての印象や短評

とらドラの登場人物にはいくつかの人物設定がされているが、主として作品の中核をなす人物設定はないように思う。豊かな人物設定を作る上で数ある設定の一部か後々の伏線を張る保険的な意味で利用されているのではないだろうか。

展開について
青春時代の愚かさや未熟と向き合い、将来を選択していく大事な時期が高校生活だ。大学に行けば猶予期間が得られるものの、脆くも甘酸っぱい感覚というのは多くの人々が体験する高校時代において最も共感を得られる時期だ。学生時代と恋心の締めくくりとして“本当の気持ちから逃げない”“人生を逃げない”といったメッセージとして最後に繋げている。
学生時代を舞台にした作品でリアリティーを出すには友人達との日常関係の積み重ねが重要だが、そのような馬鹿馬鹿しくも不器用な日常がよく出ていたのではないだろうか。
生活感有る現実的な場面も適度に盛り込まれており良い話になっている。一言では言えないが言葉の的確さとか、場面の色使いとか絵作り、現実的な問題などリアルな要素を入れるほど作品に奥行きが出るものだと考えている。

執筆中急に思いついた言葉だが、高校生活とは“夢と現実の狭間”にある空間ではないだろうか。
社会に出て分かる事だがこれほど賑やかな空間で共感を分かち合える場もない。決して学校生活いい事ばかりではないがこの感覚は得がたい。

恋文よって高須と逢坂の接点が出来たは良いが両者の付き合いが異常に緊密だったと言う印象を受ける。序盤の竜児の「虎と並び立つものは昔から龍と~」というセリフには会って間もない筈なのでかなり違和感を覚える。恋の告白と受け取ってもおかしくない発言だ。
福男大会の展開はとちょっと急すぎたし、雪山救出の場面はその場で見つけられなかったのか?という少し疑問に残る場面など少しある。小説からアニメ化する際の兼ね合いとか時間の長さの問題などが幾分あるのかもしれない。

プレゼントの髪留めを逢坂がいつのまにか渡してしまったのは少し良く分からない。プレゼントを渡すなら竜児本人の手によって渡さないと気持ちが伝わらないからだ。プレゼントを渡す時期を過ぎてもプレゼントに関連する話を続けられるので、一つの保険的な役割のようにも見えた。

■高須竜児
家事全般が得意で父親譲りの人相の悪さで不良扱いされているが、優しく世話好きな側面もある。櫛枝に対して恋心を抱いている。

友人やパートナーとするならかなり大変頼りになる存在、何でもできる上に優しく真面目なので安定感は相当なものだろう。
当初から大河とかなり緊密な付き合いをし始める。不良と思われることでであまり浮いている感じがなく、恐れられる背景が少し薄い。それぞれの家庭の抱える一事情としてはありなのだと思うが、大した意味の有る設定なのかは疑問。櫛枝との恋愛感情を発展させる付き合いが不足していたように見える。

■逢坂大河
通称“手乗りタイガー”として周囲に恐れられており、広いマンションの一室を親からあてがわれ一人で暮らしている。父親に対しては寂しさと怒りを持ちつつも、家族としての愛情を求めている。

竜児ら高須家との親しい付き合いが良い。近すぎるとは思いつつも遠慮なく物を言い合える関係はいいものだと思った。
上記同様あまり浮いていない。北村に告白された事は意外性があり生徒会長の話と合わせる事で重要な意味を持たせられたと思う。また上記同様で北村との接点は何度か作られるものの竜児との場面が多く、北村との関係の進展が見られない。

■櫛枝実乃梨
豪快でハイテンション、暗いところなど微塵も感じられない底抜けに明るい不思議キャラ。学校とアルバイト、二足のわらじもきっちりこなす責任感を持っている。ある目標を持っているために努力している。

とにかく面白い。こういったキャラいいですね。作中1・2を争う脇役ではないかと思う。こういう笑いのセンスは正直うらやましい。ムードを引っ張るだけあって弱気な所や普段見せない顔をみせるとちょっといい意味でビックリする。
彼女の明るさは暗い部分を覆い隠す演技が含まれている様に見え、まだ作中でドロドロした過去を出し切れてない印象がある。
大河の父親が来る事を知った時に彼女の知られざる過去が見えた気がしたが、以前同様の出来事があった為と言う事で当てが外れた。竜児と喧嘩した後で大河に対して父親に対しての注意を促せたのか気になる。

■川嶋亜美
高校生でありながらモデル業をこなし、他の登場人物に比べ大人びたところがある。北村とは幼馴染み。

姉さんみたいな存在がいるといいものだ。身近に頼れる人間が何人か要るだけで安心感が違う。顔つきが生徒会長とよく似ているので、始めは同一人物だと思ってしまった。北村と幼馴染みという設定があまり意味がなかった様に思うので、無反応な北村を叱ったり、揺さぶる役割が少しはあっていいのではと思った。

■北村祐作
見た目も悪くなく頭も良いので女子に評判が良い。だからと言って静かにすました態度を取るのではなく馬鹿騒ぎも得意。イベントなどでも積極的に場を盛り上げる。露出好き。

彼は最も無責任を決め込んでいたんじゃなかろうか。序盤から大河を振って良い友達宣言をしたので役割は終わったと言えば終わっているが、片思いしている女の子達へはきちんとした態度は示せてない。大河に告白したエピソードは意味が無いと感じていたが一応繋がったのではないだろうか。

ところどころ気になる所があったのは確かだが、総合的に見ると見るべき点が多かった。特に櫛枝実乃梨のキャラは相当に面白いので一見の価値はあるだろう。

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2009年5月 8日 (金)

友人とのメールのやり取りについて

友人に対してメールでやり取りをすると色々不便な事が多かったりする、こと友人関係においてはメールは欠点が多いようだ。

メールと言うのはなかなか便利であるのは間違いが無い。人に対して想いを伝える方法には口頭で直接相手に伝える方法と文章で伝える方法がある。メールは後者になるだろう。
伝えられる情報量や即時性、文字の入力の手間が劣るものの、話す内容を整理しやすく、話の密度を高めやすいと言う利点があるのでメールを利用する事が多かった。

しかし、利用していく度に別の欠点が出てきた。メールに返信されないと虚しさを感じてしまうのだ。それはメールの内容について密度を高めた時ほど虚しい物は無い。ただ相手に一定の反応を期待して連絡をすると、相手が無反応だった時の無視されたような落ち着かなさ、話をしたい内容をそらされた時の脱力感というのは相当な物だ。
もちろん相手は制約された時間の中、文章入力に熟練していないかもしれないのに、連絡を返してくれるだけでも十分礼を尽くしているはずだ。付き合ってくれるだけで有り難い。
相手に一定の反応を期待して話題を振るのも一つの“甘え”の発想からくる行動だろう。

もっとも私は相手に何かを期待して行う行為全般は須らく“甘え”と言えるのという思いを持っている。この点は土居健郎氏の著書『甘えの構造』に詳しい説明がされていると思われる。最もまだ読んではいないが人づてで“甘え”について考えさせられたのでこの事について少し触れてみたい。

甘えの重要性、行き過ぎた自由(甘え)の行き着くところ

甘えられる状況にあるということはある大きな枠組みの中で許容されているから成立するのだと思う。
甘えにも一定の対応と秩序が必要で、一方的に甘える形だと我々が不利益を被ることもある。

例えばゴミのポイ捨てや不法投棄は見ていて腹が立つが、一定の秩序やルールを守る人々、その行為を許容する(黙認する)人々、法律の罰則規定の緩さに甘えている。あと個人の自由という考え方にも甘えているのではないだろうか。もし多くの人がゴミを投棄すれば街の景観は乱れ、莫大な税金が投入され、罰則規定も強化される。

ゴミに関連すると私は先日マツダスタジアムに行ってきた。球場内には沢山の飲食店が出店しているが、弁当の持ち込みは可能、ペットボトル・ビン・缶は持ち込み禁止になっている。もしゴミを散らかす人々ばかりなら、一切の飲食物の持ち込みは出来なくなっているだろう。(最もカープには風船を飛ばす慣習があるみたいなのである程度許容されているかも知れないが・・・)しかし極端な状況になれば持ち込み禁止もありうる話だ。

「人に迷惑を掛けなければいいじゃないか」と言う人がいるが、これは違う。関係の無い人々に意味の無い規則や罰則を課する行為で、日常生活の利便性を大きく阻害する物だ。一定の規律やルールは必要だが余計なルールは生活する人々の窮屈さや複雑さを増すばかりで良い事はない。
公共サービスでも救急車の目的外利用による代金徴収議論、生活保護の不正受給による制度的機能不全(改良の余地はあるかも知れないが)、など何かしら制限されていることはないだろうか。(サービス提供側が費用や手間を惜しんだ口実作りとも取れる場合があるかも)

良い仕組みがあっても利用者のモラルが欠けていれば周りに迷惑を掛ける結果を起こす場合があるのだ。せめて人に言われなくても守れる事ぐらいは守ってほしい物だ。 一言で表すなら勝谷誠彦氏が以前テレビで言っていた“馬鹿基準”と言ったところだ。

話を戻すと私のメールも友人との関係性という枠組みの中に甘えを求めていたからだと言える。
この点で互いの歩み寄りが出来ずに甘えについて良い関係が保てなくなっていたのだろう。

ただ“甘え”は悪い事ではなく甘える余地を残す事で人々に心理的余裕と安定を生むのも確かだと思う。
甘えを許されず他者を頼れず個人に対しての結果と責任を求められる時代になった今、甘えられる環境も必要なのだ。
そして、幸運にも甘えられる人々はその事に感謝しなければいけない。甘やかす側も甘える側に少なくとも何かを期待して甘えさせてくれている。お互いに甘え、甘やかされながら許し、感謝しあえる関係を作る事が好ましいと言えるだろう。両者の関係のどちらかが欠けても良い甘えは成立しない。

私には社会に寛容の精神が欠けていれば、世の中はとても息苦しくまるで地獄のように思える。
欠点ばかり指摘され、それをお前の自助努力が足りないのだ甘えるなと言われる事もある。それが個人の価値観を土足で入って否定した上に悪とされ、あまつさえ個人の存在価値をも喪失されることすらある。(あまりセンチメンタル過ぎても困ってしまうが)
挫けた気持ちを立ち直し前進していくためには膿を出さなければならない。気持ちを回復する方法として甘える行為は一つの方法としてあってよい事と思う。

心を痛めることばかり習熟しても得をする人はほとんどいない。小さい視点で言えば罵倒した側に心理的優越感を与えるだけにしかならない。ひとりひとりが学校や会社という集団の中で他者を傷つける行為が繰り返されれば、社会は暗い物になってしまうだろう。それは私は社会はひとりひとりによって作られていくと思っているからだ。

大げさに考える必要は無いが自分自身がすこしでも社会を構成している一員と思って生きたいものだ。
よりよい未来は自分が少しでも動かないと得がたいのもまた事実なのだから。

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