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2009年2月

2009年2月28日 (土)

クレヨンしんちゃん 『またまた しんこちゃんだゾ』 考察 (2009年2月27日放送)

前回のしんこちゃんの記事はこちらになります。
通常のクレヨンしんちゃんは一話完結ですが去年から3度も回が続くのは珍しいですね。製作スタッフのテロップが最後に流れますが、どの作品でも脚本を中弘子さんが担当されています。Googleで調べたところ『ガタピシ』・『陽あたり良好!』・『D・N・ANGEL』・『きんぎょ注意報』・『魔人英雄伝ワタル』などその他色々な作品で脚本をされているようです。

今回見て個人的に気になった所は以下になります。括弧はそのように考えた簡単な理由となります。

・不特定多数の人間としんこが接触している(未来から来たと仮定すれば軽率で気にする様子もありません)
・未来を知っているかのような発言をするしんこ(同上)
・しんこが登場する場所の近くにはトイレがある(公園や人が集まる所なら大抵はありますが一応)
・トイレと思われる場所から画面がズームアウトする(下記画像①参考 位置関係など分かりませんが恐らくトイレでしょう)
・排泄する場面が多い(この作品では日常的ですが、幼稚園に遅れた主な理由の一つです)
・おもちゃの露出が少ない(前・前々回の作品と比べてあまり重要には見えませんでした)
・「過去の女は忘れて」発言をするしんのすけ(彼らしい自然な発言ですが、一応はしんこの話題に関連していそうです)
・しんのすけの絵を注視するしんこ(意味ありげな場面が気になります。)
・前・前々回と同様しんのすけと似た発言が目立つ(今回は園児達との会話でしんのすけらしさがかなり出ています)
・前・前々回と異なり言い間違えがない(園児らとの会話でも言葉を選ぶ様子がないので)

※・みさえの「あたしだよぉ~」発言(関係ないと思いますが芸人のにしおかすみこのパロディーのようです)
画像①(左は映画『クレヨンしんちゃんヘンダーランドの大冒険』:右は今回の作品)
snapshot20090228005911

まとめると以下のようなことがあります。(以下文中でしんこを彼女と記述します。)

今回のしんこの目的

少なくとも前回ではひろしを助ける為と言う説明ができました。しかし今回に至っては大きな意味が感じられる分かりやすい出来事は殆どありませんでした。

彼女が今回やってきてやった事と言えばいきなりしんのすけの幼稚園にやってきて遊んで、そして園児達に疑念を残して去っていただけです。大したことはしていませんが、特にしんのすけの絵に興味を持っていた場面は気になりました。見ただけで多分持ち帰ってもいないでしょうし、ただの絵にすぎません。無理やり無茶な設定を考えれば絵に特別な価値を持たせられますが、自分の作品でなければ行き過ぎは邪道でしょうね。いえ、返って邪道的の方がいい場合もあるのかもしれませんね。

絵を見ることのみで良ければ絵を描いたしんのすけに特別の感情を持っていたために注視したのだと思います。しんのすけと会う機会は当然なかった彼女は一体何を思いながら見たのかと思います。

立派な目標があるのではと考えてしまうと簡単な理由で来た可能性が考えられなくなります。意外としんのすけの作品を見るついでに幼稚園を楽しみたいと言う気持ちでやってきたなんてこともあるのかもしれません。

トイレの関係

いつものようにしんのすけはバスに遅れます、ひまわりも便意をもよおすのも珍しい事では有りません。しかし、今回はただの生理的現象だけではなかった気がします。偶然が重なった事も考えられますが、そういえば1話目ではトイレの水が流れるとで姿を消していました。おかしな場面なのに結論づける機会を逸していました。2話目でもトイレの音がして現れましたし、3話目だとトイレの音がしてから出てくることはないものの彼女自身がトイレに行ったり、排泄に関する表現も多かったです。
トイレに関連する表現を3話も続けてきたのは偶然ではなく必然であり有力な共通点となるでしょう。最後にトイレと思しき場所からズームアウトしたのは重要性を示す効果がありました。

タイムパラドックスについて

Wikipedia:タイムパラドックス→時間旅行による過去の改変により現代の事象も影響を受けること。

時間移動するには過去に戻ると過去を変えてしまう危険性を考えて、過去の人間に会わないように未来人が気遣うのをどこかの漫画で読んだ覚えがあります。彼女は幼稚園に来てわざわざそのような危険ともとれる行動をとったのは何故でしょうか。
作品を作る事を考えると未来人が過去に影響を与えると未来が壊れると考えると作品としては物語の広げようはなくなり、逆に運命を切り開いてくれる物と考えたほうが考えも広がりやすいのではないでしょうか。
相変わらずしんのすけと会うことがありませんがそれほどに影響を神経質に捉えない方向で作品が進んでるのではないかと思います。

しんのすけの孫や子供などは可能性は別に考えていた所がありますが、自由度が高いとなると可能性は高まります。以前読んだ『パタリロ!』と言う作品ではパタリロの孫や先祖は髪型や服装の違いだけで姿かたちはそっくりでした。性格も小銭集めまでは似てるかは分かりませんが、そこそこ似てたかもしれません。もっと単純で良いなら『おそまつくん』みたいに大量生産してもいいでしょう。
今回彼女はしんのすけ的な傾向を強めた事もありそこまで行かないのではとも思ってもいます。少し話はずれますがしんのすけらしいと断定できる部分では風間君に息を吹きかけたり、耳をあま噛みすればよりしんのすけである決定的な理由となったでしょう。

詳しくはないのですが『ドラえもん』でも未来から来たネコ型ロボットやのび太の子供や孫達が出てきます。無数に有る漫画やアニメの中で過去に関わる出来事はあったはずです。と言いいますかドラえもんは積極的に過去を変える目的でやって来ている訳ですが。作品によって影響を考えすぎない物もあったりするようです。

作品を作る側は少なくとも見る側を考えて作品を作ると考えています。クレヨンしんちゃんが広く親しまれている作品である以上は極めて一部にしか分からないヒントや表現は避ける場合があるかもしれません。ですので極端に一般とかけ離れすぎることはないのではないでしょうか。この辺は作り手のバランス感覚によるんでしょうけど。
クレヨンしんちゃんはその点で親しみやすく色々考えるには良い作品だと思います。

演出上の観点

  押井守監督はラジオで演出は“引き算”(いくつかの例えの一つ)と言っていました。演出家は色々な演出を作品に盛り込みたがると尺が足りなくなり作業量が増えるので必要の無い演出はどんどんカットしていくとの事です。銃を抜いて決闘するシーンや容疑者が取調室で尋問を受ける場面などを例に用いて説明していました。 確かに銃で決闘する場面を考えてみると動きをスローにしたり、アクション一つを細かく描いたり、視点を変えたりと1秒間を10秒にする事だって出来ますね。 そう考えるとしんこの動作の数々は演出に分類されるのではないかと思います。

昔は無駄が多く情報量をあまり詰め込めなかったと言う事を言われていましたが。あらゆる作品の演出や定番の設定などにより演出量が軽減されたと言う事は実際あると思います。
例えば何かの作品で両手の人差し指を舌につけて頭の上でクルクル回すと『一休さん』のパロディだと分かりますし、格闘家が「あたた」と言えば『北斗の拳』とかブルース・リーのパロディだと分かります。剣士が対決して同時に一閃した後どちらかが倒れるか体や衣服に切れ目が出来て時間を置いて血しぶきを発生させたり、遺言を語らせたりと想像できたりします。
断崖絶壁で男女が話し合いの場面を見ればそれがサスペンス番組で、被疑者が犯罪を自白してそろそろ警察がやってきて逮捕されるか、自殺しようとするかもと考える事が出来ます。そこで安っぽい命の尊さを説くのもいいでしょう。
視聴者側もいつのまにか色々な演出の蓄積が出来ているおかげで演出の手間が省けるわけですね。

単純に考えて演出が意図する意味に導けなければでは演出とは言えないのでしょう。逆に関係の無い演出を連続する事で結末に到達させない演出もあるのではないでしょうか。話が変わりますが、過去実際にあった『三億円事件』では多くの意味の無い遺留品を残す事で決定的な証拠を見誤らせたと言う事があります。作品ではありませんがこれも演出という点で成功をおさめた例ですね。

今作でももちろんそのような演出的な意味を持たせるために意味ありげな映像表現をしていると考えてよいでしょう。しんこちゃんの話はしんこちゃんの正体を明かさない事で視聴者を引き付ける目的があるのだと思われます。作品中に意味のありげな表現を多く含ませる事で作品を盛り上げているのかもしれません。

正体を“謎”にして魅力としている作品と言えば、特撮物で窮地を助けてくれる謎の戦士だとか、『機動戦士ガンダム』のシャア、また少し種類が違いますが『水戸黄門』の水戸光圀、『美少女戦士セーラームーン』でもタキシード仮面、キャッツアイの怪盗姉妹などがあります。
前者であれば正体を判断すると生き別れの兄弟、クローン人間、サイボーグ、いつも喧嘩している知人等が思いつくのではないでしょうか。後者については見る側にとっての説明の必要はありませんが作中で正体が判明した時に何かしらの波乱を期待させます。
このように“謎”と言う部分を魅力的に見せるにもそれが“見る側に対して謎”なのか“作品の人物に対して謎”であるかで盛り上げ方は違ってくるようです。直ぐに思いつけばそれほど定着している演出方法や設定ということが言えると思います。

しんこちゃんに対しての多くの人が抱く最もな関心事は彼女の正体ですから、彼女の素性を判断する演出が行われている筈です。その点に限れば不可解な言葉やいかにも既知のように未来の発言を連発したり、野原家との接し方で彼女がどのような立場にあるか判断できます。目的を判断するにはしんのすけの絵を見る場面や作品の結果・場面の見せ方など、手段を考えるとひろしを喫茶に誘導したり、雲の出現やトイレの描写に分けることが出来ます。

分類方法として5W1Hで分類すると正体・出自(誰が)・目的(何を・どうして)・手段(どのように)・時間帯(いつ)・場所(どこで)のように相当すると思うのですが、場面のひとつひとつをどのように分類するかで整理する事ができるのではないでしょうか。分類できる項目も多いのでこの際一々細かく分類はしませんが演出方法を考えてみるのも作品の伝える意義を見出す方法ではないでしょうか。

次回予告に見る予想(3月20日更新)

3月13日の放送の予告にて4月3日の放送のシーンをいくつか見る事が出来ました。以下の次回放送の予告などを参考にしながら次回の予測を立てて見ようと思います。

クレヨンしんちゃん3月13日放送予告


またテレビ朝日のクレヨンしんちゃんの公式ページではこのように書かれています。

さいごの?しんこちゃんだゾ

突然しんのすけの前に現れた、謎の少女しんこちゃん!
しんこちゃんは、ひまわりが野原家の子供ではないのではと言い出し、
しんのすけと一緒にその真相をつかもうとする……!?

いくつか注目する点は以下になります。括弧は個人的な気付きなどです。
3月13日の予告(下記画像②参照)
・しんのすけとしんこが会っている(しんのすけと会う事自体に問題は無いと思われる。)
・雲が発生している場面が映る(トイレのある場所の近くであればトイレから出てきていると考えられる。)
・しんこが悲しそうに話をしている(シリアスな展開を予想させる。)
・おもちゃの場面が映る(おもちゃの重要性に含みを残している。)
公式ページ
・「ひまわりが野原家の子供ではないのでは」説明文(ひまわりに対して何かを知っているが確信的ではない。)
・「しんのすけと一緒にその真相を~(中略)~」説明文(しんこも真相については詳しくない部分がある。)
・“さいごの?”タイトルの付け方(終わるようでいてまだしんこちゃんの話が続くような含みが若干残っている。)

画像②
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3月13日の予告では重要な場面が出てきますが、悲しそうなしんこの様子は何か重大な出来事を知っていると予想できます。真面目なフリをして実はボケを狙う事もクレヨンしんちゃんには有りますが、今回は長く回が進んでいる事も有り多分シリアスな場面だと考えてもよさそうな気がします。おもちゃの重要性の余地もまだ残させているようです。

公式ページの説明では物語に重要な文言が並びます。ひまわりに関連する出来事で、しんこは或る真相について何かを知っているが完全に知っている訳ではない。しんことしんのすけの協力が予想されます。
ひまわりが野原家の子供ではないと言うのはどこから来るのでしょうか。みさえがひまわりを生んだ記憶が間違っているのか、改ざんされているのか、分娩で取り違えられたのか、誰かに赤ん坊を取り替えられたのか、それとももう少しスピリチュアルな意味で中身が違ってしまっているのかなど、いくつかの種類が考えられます。

しんこが時間を移動できる能力があると仮定すると過去に戻って自分で見に行く事ができます。真相を知るだけなら野原家と関わる必要はありません。それでも野原家に関わろうとするのは野原家の協力がなければ不可能な出来事があるか、しんこの心情的に野原家の人々に会いたいという想いも少なからず有るのではないかと思います。

細部にこだわらず個人的に少し大胆な予想をしていくとしんこは本当は生まれるはずだったひまわりであり、今のひまわりと本来のひまわりが入れ替わって育てられてしまう事態が発生したのではと考えます。(病院側の失敗や意図して取り替えたなどの人為的な事例か霊的・精神的な理由で間違って生まれてしまったかのどちらかではないかと考えています。)
未来から来たひまわりというのが定説化していますが、ただ個人的に違う点として現在とは別のひまわりではと考えているので、別の未来から来て、家族構成も違うかも知れないひまわりではないだろうかと考えたりもしています。
「おつむ入れ替える」と言う場面を指摘されていた方がいたと思うのですが、しんのすけが別の回で同じ事を言うのを見たような覚えがあり、演出上のヒントとうがった見方もできますが、普通に考えられる線としてはしんのすけのギャグの延長として捉える事柄ではないかと思います。

しんこが来た目的は回に分けて便宜的に仮定して考えると
“おもちゃ・事故・しんのすけの絵を見る事と様子見・ひまわりが野原家の子供ではない真相を探る”
と言った目的が考えられます。これらの回での出来事は個別の事柄であるものの多くは最終的な結末に繋がっていると考えられます。それぞれの理由を少し考えて見ます。

個人的におもちゃの役割はそれが特別な機能を持っているか、重要な出来事のきっかけを作る道具になるのではと考えています。ひまわりのおもちゃと事故に遭う時に買おうとしたおもちゃが同じ物と考えると話がまとまりやすくなります。 
おもちゃとガチャポンのサイズ的な誤差は最近のガチャポンの種類の多さやクレヨンしんちゃんの作品の性質が分かっていれば説明は不要になります。確かクレヨンしんちゃんの別の回でしんのすけがかなり大きなジャンボチョコビを食べていたり、みさえの頭ほどの大きさのあるスーパーカップを食べていた事があると記憶しています。

しんこがしんのすけの幼稚園に来た理由は不明ですが、ただしんのすけの友達に会いに来ただけだと作品全体の繋がりが希薄になってしまうので、しんのすけの絵や友達と接する事で何らかの事実確認を行ったのではないかと考えられます。この時しんこはネネちゃんに対して変な様子を見せていたので、4月3日の放送との繋がりを考えるとネネちゃんの桜田家と野原家と間違って生まれてきたという予想も成り立つ気がします。前回のしんこちゃん考察でも触れていますが、しんのすけ達が別の家族に生まれたらと仮定した話が実際にありました。

4月3日の放送でしんこが現れる目的についてはしんこの話がこれで結末を迎えるとするならば、もう答えが出てしまうので、これまでの放送の中で与えられた情報を取捨選択して考えてみる他は方法がないでしょう。

『さいごの? しんこちゃんだゾ』のについて(4月3日更新)

前回の予告ではひまわりが野原家で無いのではという衝撃の内容だったのですが、どうやら彼女の思い違いでそのように思ってしまったようです。とかく母親の叱り方は過激になりがちなものです。小さい時なら愛情を疑う事もあるんでしょう。彼女の目的は愛情を確かめる事にあったようです。今度は成長したひまわりが赤ん坊のひまわりに会いに行く事でしょう。

別の展開を予想していたのですが子供ならではの素朴な理由と言う事には気が回りませんでした。それはもう未来の危機に関連する事やしんのすけと共に未来や過去を行き来するちょっとした冒険物語だったりとおよそ希望的観測を盛り込んだ事など考えていたりしました。気になる所など何箇所も有り、長じれば別の話はいくつか作れる気がしました。今回はいくつか解消できない疑問点が残りましたが、なかなか良い終わり方が出来たのだと思います。

ひまわりが帰るしんこに人形を投げ返してしまいますが、ひろしが人形を買ってきてくれたことで未来のしんこ(もうひまわりと断定して良いでしょう)に繋がっていきます。トイレから出る場面については水場から出てくる事も一応考えていましたが、これも今回でトイレから出てくる物と断定して良いでしょう。

クレヨンしんちゃんも放映が17年と長いですね。放送当初の不安をよそにいつのまにやら国民的な作品になったものです。ここは是非ともサザエさん並に話が続いていって欲しいものですね。

今回は話のまとまりも良く謎を残した状態で終わったかと思っていたのですがまたしんこちゃんが出てきたようです。考察と言うほどではありませんが少しばかり気付いた点などについて考えてみました。拙い文章ですがよろしければご覧ください。

 クレヨンしんちゃん 『しんこちゃんたびたび登場だゾ』考察(2009年10月30日放送) 

 

 

 

 

 

 

 

※せっかくなのでその場の勢いで展開を予想した下手な絵を描いてみました。自分が考えたイメージとちょっと違います。ゴミ取りもなにもなしです。微妙な表情はちょっと難しいですね。適当に気が向けば適当にご笑覧ください。世の中はそこそこ適当が良いのです。実際そうだと思っています。はい。
miraikikizikuikikau

 

 

 

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2009年2月11日 (水)

空気の影響について考えてみる

私達が物事を判断して処理する為に重要な要素としているのは何であろうか。それが本人にとってのみの問題で明確な目的や動機があれば良い。しかし、集団の中で何か決定をしなければならない時、物事を判断する重要な部分は度々2次的、3次的な理由として片付けられる事がある。

それは個人個人の気分や形作られる空気に他ならない。気持ちの上では別のことを考えていてもその時の空気が大勢を占めていれば理由も無く意見を述べる機会を損ねてしまう。また少数意見を大勢(おおぜい)で誤っていると断じて排除しようとしたり、その場の空気だけで押し切られることがある。

不真面目な集団と議論して(その機会も無いかもしれないが)何かを決定させるのは骨が折れるのではないだろうか。柔軟性を失い意味無くカタブツに徹している人ばかりではなお辛い。

個人個人の意識が低ければ大抵は大勢に意識は傾く。議論の意識が高い人を標準とは考えないが一言で言えば怠慢が原因だろう。この場合はその場の人々にわざわざ意識を喚起した上で論調を変える必要がある。

状況によっては何かの考え方に固執している人や自己陶酔に陥っている人もいる。理想主義者に現実主義を説く場合や自身の思想や美学遂行を目的にしている人、行為そのものに満足する人などが考えた範囲では含まれるだろう。そのほかにも個人的な感情や印象が優先したり、議論の自由性が低い場合、特定の人物が幅を利かせている場合など、物事を決定する本来の理由をよそに追い出してしまう事が沢山ある。

物事を処理するために重要な部分と行うべき事が明白でありながら決定する事ができない場合にはその集団の中に何かしらの空気が議論を左右している。

しかし実は空気はなんでもない行動一つ一つでも影響を与えるものである。
山本七平の著書「空気の研究」では空気の性質をこのように述べている。以下は例示と本文の引用部分

        
  • 三菱重工爆破事件では人々は重傷者を傍観し、介抱していた人々の全ては会社の同僚を介抱しており、知人・非知人の差別をしている。
  • 戦艦大和の出撃
  • 若い母親が赤ん坊を気遣って保育器に懐炉を入れて殺してしまう。感情が絶対化し、障害を悪として排除した結果による臨在感。
  • 文芸春秋「自動車ははたして有罪か・米国よりも厳しい日本版マスキー法の真意は」に見る徴税を意図した人工空気醸成、物神論。
  • イタイイタイ病とカドミウムの関係について取材した記者が無害のカドミウムを目の前でみせると逃げ出した様。臨在感。

“「空気」とはまことに大きな絶対権をもった妖怪である。一種の「超能力」かも知れない。~~中略(戦艦大和の出撃を例に挙げて)~~こうなると、統計も資料も分析も、またそれに類する科学的手段や論理的論証も、一切は無駄であってそういうものをいかに精緻に組み立てておいても、いざというときは、それらが一切消し飛んで、すべてが「空気」に決定される事になるかも知れぬ。”

“一体、以上に記した「空気」とは何であろうか。それは非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ「判断の基準」であり、それに抵抗する者を異端として、「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力をもつ超能力であることは明らかである。以上の諸例は、われわれが「空気」に順応して判断しているのではないことを示している。だが通常この基準は口にされない。それは当然であり、論理の積み重ねで説明することができないから「空気」と呼ばれているのだから。”

“従ってわれわれは一種の二重基準(ダブルスタンダード)のもとに生きているわけである。そしてわれわれが通常口にするのは論理的判断の基準だが、本当の決断の基準となっているのは、「空気が許さない」という空気的判断の基準である。”

“現実にはこの二つの基準は、そう截然(せつぜん)と分かれていない。ある種の論理的判断の積み重ねが空気的判断の基準を醸成していくという形で、両者は、一体となっているからである。”

空気について考えた私観など

築地市場の出来事について

このあいだ築地市場の外国人(日本人もでしょうが)立ち入り禁止の話がありました。これを例に考えてみると市場の空気、観光客の空気、この出来事を知った人々の空気がある。以下にそれぞれの人々が占めている空気について仮定してみる。

市場からすれば築地市場を知ってもらいたいが、仕事の邪魔になる事はしてもらいたくない。好意的に見る反面、仕事という空気を優先させている。仕事の邪魔であれば外国人を問わず観光客に対しては強い態度で怒ることもあるだろう。築地市場は基本的に見学者を排除はしていないが、見学を可能にしている以上むやみに邪魔者扱いする矛盾が生じる恐れがある。
マナーが悪い外国人観光客という空気も出来ており、特に“外国人”観光客を注視して好ましくないという空気が形成されている。感情的には外国人は日本人観光客に比べると若干厳しい目が向けられる事になる不公平が生じる場合があるだろう。しかしながら原則的には外国人は日本に詳しくないと考えるべきで、観光客として日本人観光客と相対的に扱う姿勢が足りなくなってくる。
“仕事が重要という空気”と“マナーの悪い外国人観光客という空気”が形成されていると思われる。また“外国人”と報じられているので“日本人”とは基本的に別物扱いしている所があるのではないだろうか。

観光客としては日本の文化や築地市場の様子に興味がある一方であまり邪魔をしてはいけないという気持ちは多かれ少なかれあると考えられる。中には度を越えたことをする者もいる。
観光する以上は気持ちが高揚している観光客も相当いると思われる。市場で注意を受ける事に対しては申し訳ないと思う人、元々意に介さない人、市場のやり方に反感を抱く人等色々。また集団になれば個人個人の道徳意識(と言うより個人なりの規範意識)は希薄になると思われる。この点は日本人でも同じ所がある。実際に身の処し方が分からなかった為に非常識とされる行為をした場合があるのではないだろうか。怒られる自覚が無かった為ににかえって迷惑になる事をしたという事もあるかもしれない。
大きな空気としては“観光客としての空気”、“迷惑を自重する空気”、“興味本位の空気”、“反発の空気”といったところだろうか。

出来事を知ったその他の空気はテレビ、ニュースの記事や個人のブログなどで色々なところでその情報を見聞きし、“一つの問題”としての意識が喚起される。問題に対してはネット上の記事やコメントを残す事である程度気持ちを消化する人、他の人に話す話題程度に捉える人、問題意識を持続させて継続的に意見をのべたり活動する人など意識の差により様々に分かれる。
先の2者のように問題意識が薄い人々が多くを占めていれば流されている表面的な情報を気軽に信じてしまうことがあるだろう。それでも“外国人観光客はマナーが悪い”という空気自体は広まるので、問題を解決するのに安易な姿勢をとれば良いと考える。今回の出来事では“外国人”と呼ばれているために、表面的な情報を受け入れた日本人にとっては外国人=マナーが悪い→外国人自体が問題である→安易に治安など含めた外国人排除、客観性の低下を促進するという流れも出来るかもしれない。築地の出来事などを一つの既成事実として認識した為に外国人を“悪”として厳しい態度で臨むことが“正義”であるという論調が持ちあがる一助となりうる場合がある。問題意識が高い人は積極的に自分の意見を広める事によりある種の空気を形成しようとする。テレビなどは何かを意図して問題意識を喚起し、空気を広めようとするだろう。
安易に形成された空気に集まる人々は怒りの感情ばかりで攻撃的側面においては異常な鋭さがあるが、違いを許容することはできなくなるだろう。不特定多数ではあるが占めている空気は基本的に大別して“怒りに依存する空気”、“許容に依存する空気”でしょうか。その中に、“外国人の認識に対する空気”、“築地の認識に対する空気”“責任の所在を問う空気”などがネット上の人々が集まる記事などを媒介して空気として広がっていくのではないか。

このように考えてみると空気というものは常に存在しており、目に見えない空気同士の勢力争いが知らないうちに行われているように見える。

また最近では京都の舞妓に対しての“外国人観光客のマナー”が悪いという印象の放送をしている。確かに迷惑の掛け方が日本人と比べるとひどい場合があるようだが、違いを受け入れた上で受け入れ態勢を作る必要があるだろう。大挙してカメラを向けている様子は異様な雰囲気はあるが、日本人も同じ事はよく行っている。

 

テレビの政治報道や麻生、官僚批判について

麻生さんが郵政民営化に反対だったといった事を批難するのもこれも空気だ。でも別に以前から小泉政権と距離を置いている様でもあり、言った事に問題があるとは思えない。テレビでは「民主党と選挙で戦う前に結束力(空気)を低下させてけしからん」と言うわけだ。以前民主党で小沢氏が代表に選ばれたのも結束力を優先した空気の影響だ。意見が分かれるのが当たり前でそれをいまさら本音を言ったからと蒸し返してわめくほどの事もない。
歯に衣着せぬ所も麻生太郎の一つの欠点でもあり、また魅力でもある。

安倍晋三が総理になっている時にも“KY”という言葉がよく目にするようになった。この言葉の意味はその場の空気が読めない人に対して注意、批難したりする際に使われる。中立的な言葉ではなくKY=悪い事という意味合いで和を乱す者をマイノリティーとして議論無く排除しようとする。

しかし、小泉さんにいたっては変人と言われるほどの人で今までにないパフォーマンスを連続して行っているのにKYと言われないは何故だろう。小泉氏の事を内心ではやりすぎと思っていても好ましくないとは考えずそれもまたご愛嬌程度にしか受け取らなかった。国民にとってはハッキリ物を言う姿勢は変革者であるかのように演出して小泉氏の支持を支えた。郵政解散が行われた当時はテレビの行っていた調査では郵政民営化の優先順位はもう少し低い位置に占められていたと思うが、その目的の為にどちらかと言えば常識はずれな解散をしたのはKYと呼ぶ人はいない。

このように歴代の総理の行為についても相対化が図られていない。

また自民党の批判ばかり報道するのに何故か民主党や公明党の批判はされる事はない。小沢さんが無投票再選したのももちろんだが、公明党は代表選を行っていないし、それに定額給付金を要請したのは公明党だ。自民党は公明党のおかげで与党を維持できているという側面もあるだろう。
自民党が国民の信を問わずして何度も首相が変わったことを批判するなら無投票再選をした党派は民主的と言えるだろうか。

公明党についてはニュースでは太田昭宏代表が何度か顔を見せる程度だ。テレビが一丸となって麻生氏の単純な批判を繰り替えしながら、民主党その他の野党を立てるようなコメンテーターや批評家には非常な違和感を覚える。批判する中身は表面的、形式的な部分ばかりなのに“反麻生の空気”を作ろうとする意図は露骨に示されている。

先日の公務員の労働権を肩代わりする人事院の話にしても官僚批判という空気によって、人事院が解体させられるかもしれなかったのだ。谷公士氏のインタビューを見たが本人の弁では人事院は独立性が高く、内閣や国会にも意見を出来る立場にある。人事院に対しての議論も無いまま解体して人事局を作るのは違うのではないか。という旨を語った。独立性という部分は今の官僚批判の中では“渡り”の斡旋をしていると簡単に結びつける事も出来るが、人事局になれば何がよくなるのかはよく分からない。それに独立性が高いという事は逆に利権などの癒着とも縁が薄く、公徳心を持って自立的に動いているならけして悪いとは言えない。官僚が本当に“悪”であるのかという部分でも疑問を持たなければならないような気がしている。
なぜ普段はマスゴミと言われる事があるテレビが揃って官僚批判をするのも疑問が残る。テレビというのは言ってみれば空気の発生装置と捉えてもいいものだ。

空気を主導している意識とは

山本氏は空気の作られる過程にはある種の論理的判断の積み重ねが有り、論理的判断基準と分かれている訳ではないとしている。
空気自体が発生する背景にはそれなりに納得の出来る一定の認識が形成されている。麻生批判は麻生総理の資質不足という認識、外国人のマナー批判は築地などの事実認識、官僚批判は渡りや居酒屋タクシー、作文などの認識、貧困問題は派遣切りに代表されるリストラや難民、企業の横暴、貧困ビジネスの認識が形成されている。

空気を基準とする際には積極的な意識の高さにより空気が形成されるのが好ましいと考えるが、空気が生じた時に高い意欲を持っている人は大抵少数派だろう。問題意識が高いという事は問題解決に対する能力もまた優れており、その時々の空気などで簡単に意識を変える事も無い。またその意識を持続させていくのもそれなりに大変な事だ。だから自然と意識の低い人々の空気の力が強くなる。

山本氏の著書に参考にしたりなどして考えていた事でもあるが空気を動かしている大半は不純な動機が多い事に気付く。他罰的、差別的、感情の性善的認識、相対性の欠如、主体性の欠如など個人の意識の低さに起因する事などいろいろである。

当たり前に人と話し物を買い生活を営むだけでも空気は生まれる。一見意味の無い事でも空気を発生させているのだ。

例えばある消費者が物を買う過程を例に考えてみる。
まず購入するお店をどこにするか考える。不便でも個人商店で購入するか便利な大型スーパーで買うか検討する。消費者にとっては当然商品が安く品質の高いものを望む。車でスーパーに到着してちょうどバナナダイエットの放送をしていたのでバナナを購入して帰宅する。

以上の例で発生した空気は気付くだけでも4点ある。
・1.便利さを優先する空気
・2.良い物を買おうとする空気
・3.流行に便乗する空気
・4.一定の手段を常態化する空気

それではこのような空気を発生させた為に起こる結果や影響を考えてみる。

事例1ではお店を選択する段階で大型スーパーで購入する流れが作られる。個人商店は地元の人間の購入が頼りで値下げ攻勢も難しく、品揃えも少ないと考えられる。大型スーパーを利用が増えれば小規模店舗は客を奪われ倒産してしまう。

事例2では消費者が物を選ぶ基準はまずか品質と価格になる。品質を取れば国産、価格を取れば外国産を選ぶ。国産を選べば日本の産業を支援する事にも繋がる、地元の物は地場企業の促進に繋がる。外国産の食品などは安く量的な満足度も高い。安い食品に慣れた人は国産食品に価格や量的にも旨みを感じず、品質を多少は排除しても良いと考えるようになる。食品偽装や中国食品で神経質になっている事があり、日本の企業は価格的にも量的にも品質的にも要望が高まり、企業体力を疲弊させるだろう。

事例3ではお店などで急激に品薄になる為に通常の消費者の購入を妨げる。安易に流行に飛びつく空気が醸成される。健康グッズは気軽に使って健康になれる物の消費が促進される。儲かる企業がある一方で悪徳商法も頻発させる。基本的に楽をしたい気持ちがあるので継続して続けられない為意味が無い事も多く、実質的な健康にも結びつかない。健康に対しての危機感をテレビで煽られている事もあり、安易に病院に駆け込む人が増え医療現場を圧迫させる。

事例4ではスーパーの消費や車が必要な物として常態化する。必要という意識が強まれば自動車業界や石油業界を下支えする事になる。消費の固定化が進むと産業の流動性や消費の分配が損なわれる場合がある。ある種の空気が常態化すると無意識に秩序としての役割を担う、知らない内に空気に従う人が増える事で結果的にその空気を支持する事になる。

最終的には各個人の目的と意識を強める事が良い結果に繋がり、不純な動機ではなく正当な理由によって考えて行動する事は、少なくとも我々が生きやすい空気を形成していくものだと考えている。しかし、正論ばかりでは世の中は生き難い。だから感情の通う温かみも必要ではないかと思っている。

私からすると大抵の空気とは妥協(怠慢や堕落とも)した精神の総体であると考えている。また特に何かをしなくても日常のちょっとした内的な判断でも空気を作る事に繋がっている。

精神的に独立した個人を気取る事は簡単に出来るが、個人的な感情で他者を排除する詭弁に用いられる事が多い。誰かから何かしらの要請をされた際にプライバシーや個人の思想の問題などと言って突っぱねる事などがそうだ。自らの望む空気(社会)を作るためには客観的な中立を保ちながら考え、行動していく事が求められているのではないだろうか。

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