2030年11月27日 (水)

管理人のPixiv投稿画像

※一部アダルトな作品や個人的な性的嗜好が含まれる場合がありますので閲覧にはご注意ください。

せっかくブログを開設しているので私が描いたCGを公開します。ブログを更新したい気持ちもあるのですが今後はこちらの方に軸足を移して行く予定です。
興味がある方だけ閲覧ください。

一応同人誌を作ったりしてみたいという希望があります。当方広島在住ですがなにかしら同人誌の共同製作や何か良いお話があればできるだけ参加したいと思います。(他力本願ではいけないのですが一応) 
Pixivは宣伝と自己研鑽と割り切って漫画作成の方を検討しています。

↓一応見えないように高さ調整してます。 ブックマークや評価していただけると感謝で涙が出ます。荒らしはご遠慮ください。m(_ _)m

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2016年12月13日 (火)

論理的思考を唾棄して感情を意思決定の主体とする人々の異常性について

陰湿な女性の集団リンチに遭遇!?

職場において集団の女性の陰湿さに叩かれた事があった。

私は現在ある全国チェーンを行っている大手会社の弁当を作る仕事をしている。その中の作業では例えばゴマやふりかけを手で振りかけたり、昆布を計量して盛り付けたりなどおよそ弁当工場を知らない人は高度に機会化された職場と思われているかもしれないが、毎日アイテム数によるが数千数万もの弁当の数々は実は人海戦術と手作業で行われているのだ。

その職場作業の一端で卵を入れる工程があったのだが私の具材の入れ方が悪いと言われる。なぜかと言えば「投げる様に入れている」風に見えるらしい。
むろん卵、特に生卵に近い状態なので一定の納得はできる。
だがしかし実際はそれで割れることはほぼなかったし、また私の責任で割れた黄身も自覚しているだけで数えるほどしかなかったわけで…
、言うほど問題のある入れ方をしていたわけではないのに批判するというのは、こうなると残った理由は好き嫌いということ以外にはないわけで…。
これからも仕事上の付き合いもあるのにこういう突き上げには困ったものです。(--)

たかが入れ方、されど入れ方


私はこの作業をやるなかで単純に入れればよいという作業ではないという事を十分に自覚していた。もちろん自信もあるが論理自体もずれているのが問題だ。コンベアの脇に立って卵を入れるわけだがこれが入れる向きによって全く出来栄えも何度も異なるのだ。見た目をよくするためには白身が飛び散らないのが適切なのだが不思議とコンベアに向いてやるのと後ろ向きでやるのとでは雲泥の差が出る。
また男女間の体格差も意外とある。工場の機械は比較的女性が作業しやすい高さになっているのが一般的で私はやや体格がいい方だが、高さが異なるので卵のリリース手法が異なるのだ。掌に卵をのせて置く様にという説明は受けた。理想としてはその通りだと思う。
しかし、背が高いと低い位置に置こうとすると高すぎるし、実践してもう一度考えてみると傾斜が付く。傾斜が付いたところから卵を落としたら狙い通りの位置に置くことができない。低い位置に合わせておくにはある程度は5本の指で包み込んで落とすしか方法がない。またそれ以外にもコンベアの奥側に卵を置くか後ろ側に流れてしまったものに置くかでも角度が付くので一定の置き方は実行できない状態にあるのだ。
だが、この論を主張してそれなりに認められたら仕事をする立場を追われることになるので、ここは避けねばならない事情が存在する。

論理的でない人々の支配的空気


私が「違う」と説明するには相手は論理的ではないし、一言(ひとこと)でも反論しようものなら、こちらが子供的な不真面目を振りかざしている風に扱われるか、「私語を慎め!」的な空気で封殺されて釈明する余地は与えられない。

こちらは一言であえて「やってない!」と論理的でないがかつ一言で語気を強調する方法を取らざるを得なかった。
「気を付けます」と言えば済むかといえば単純でもない。それは私自身が構築した仕事方法の否定となり、論理的でない。“およそ主観的にそう見える”類の言に従うのは言ってみれば私の矜持(きょうじ)、プライドとか自尊心的な物を損ねる結果となる。
仕事に対しての自負心にダメージを受けると、苦手意識を植え付けられるだけでなく、仕事そのもののモチベーションを大きく損ねる。その結果にあるのは離職の他はない。

環境の悪さをものともしない敵対的嗜虐者


極論ではなくこの仕事は立地条件の悪さや慢性的な人手不足、少ない人員であらゆる作業をある程度分業しながら人ごとに一定の得意なポジションがメインの役割として与えられている。例えば職場のFさんはご飯を計量すのがメインの作業でほかの作業を人員の空きがあれば適宜配置する。
私としては一つ一つの作業にモラルハラスメントでかつ嗜虐を目的とした人々にいちいち“ケチ”が付けられるのは避けたいことでもある。
おそらく狙っての事だろうと思うが公開処刑のような事も多々あった。
職場は温度管理されているどちらかといえば寒い。寒さには厚着対策でしのげているが良い環境とは言えない。
商品のでき自体は悪くないし指摘する論点も「黄身が割れる」よりは「白身が飛び散る」ほうが優先されるので違う。
そもそもわざわざ指摘されるほど私は卵を無駄にしていないのだが・・・、そうなると個人の好き嫌いの問題になるのだがそういった論理矛盾を指摘する余地は前述のとおりあまりない。

便乗する愉快犯的な大阪おばちゃん


一旦はそれで終わったがその後、
普段であれば明朗快活に話をしている作業現場にいた別の大阪出身のおばさんと少し語を話しながらやっていたが、先ほどの「投げ入れる」的な話題を強引に便乗させて今度は「貴方のそういう態度があかんのよ」と言ってくる状態に。また論点が卵の置き方が悪いから「黄身が割れる」から「白身も飛び散る」と置き方に起因する問題点を追加して攻めてきた。私はこう思った「何という卑怯な畜生―(ピー)が!OMG!」

先日私と趣味の話を話しているのを見咎められたせいか攻撃性が増している。ただこの大阪おばさんの性質として面白おかしく話ができる引き出しを持っていて人当たりの良さからそれなりの人気があるのだが敵対する相手に対して愉快犯的な嗜虐心を持っている。倫理観が欠如しているので自分の都合の良い事の話題を“盛る”習性を持っているので、私のように攻撃する対象となればちょっとした失敗を論い極悪人に仕立て上げられてしまうことだろう。
今回がまさにそれだ。全体としての出来は普通か中の上ぐらいで問題ないレベルだったのだががそこを無視して攻撃に転じた。

危険な大阪おばちゃん


この大阪おばさんは職場のおばさんの意識を束ねることが可能である種のアジテーター(扇動者)としての役割を持つ。人の噂話や話題でメシが3杯おかわりできるタイプの人なので休憩時間に他のおばさん連中にある事ない事を触れ回り、ディスカウント行為をしているようだ。
こちらが何に対して心配し怒っているのか、どう思考して窮屈な中で言葉を選んでいるのか忖度せずに「あの子は態度がでかいからあかん」「プライドが高いから受け入れられへん」とか、おおよそ自分たちの責任は抜きにしてこちらが「大人になりきれない餓鬼」のようなイメージを刷り込ませていく。

反論するとこども?、「それは違う」を言わせないのがおとな?


少し横道にそれるが自分で餓鬼という単語を出してなんだが自認もある。しかし、物事はすべからく正しい理論とか真理によって正しく処理されなければならないという強い想いがある。私の人生は中立客観視できない人間からの迫害の連続である。そういった境遇にいるのは私だけではないが、私自身のやり方として言論でもって抗する方法を選んだ。
一見、合点がいく理由を用意して貴方の方法は間違っているというおよそ教条主義的で融通の利かないモラルハラスメントはどこでも横行しているのではないかと懸念する。特に食品会社においては「衛生的である為に」という金科玉条として安易に従業員の休憩時間までも縛ろうということがある。
私の職場は休憩時間ですら帽子を脱ぐことは許されない。
「ルールを守るのが大人である」という刷り込みが世間では一般化しているのだと思うが、「ルール=全てにおいて正しい」という誤解があるために、このルールというものを疑う時期がいくつかの組織や世間では来ているのではないだろうか。
日本人は倫理的意識が基本的にある人々だ。だからルールを策定する側も倫理が高い人であり間違うはずがないと安心しきっていると思う。その点を論じることを面倒だと考えるきらいもあるように感じられる。なにかしら納得できる理由があればそれで十分という事も多いのではないか。
しかし、個人の行動を大きく制約し自由を奪うというルールというものには異議を唱えなければ、豊かさが組織に収奪され続けてしまうだろう。

気になる商品の出来は…

こういった出来事があって、特に白身に関しては出来栄えを重視し、白身の飛び散りについては置き方でなく手に付着することが原因なので白身を落としてから黄身を置くことにした。白身の見た目に関しては普通~中の上から、最低でも中の上以上の出来栄えになった。置き方は高さは同じように低い位置を維持しつつ基本は変えずに行ったが黄身が割れることは、黄身が指で傷つけたり自覚できることを除いてはほぼなかった。
見た目は悪くないので結果としては良い仕事をできた。

当然ならこの陰湿悪女どもはその結果を褒めることはなかったし、吟味して入れ方の問題ではないという事はしなかった。
彼女らは攻撃性においてはディスカウント的嗜虐心で主張するが利益にならない物をわざわざ褒めたりはしないのだ。
エモーショナル(感情的という意味)な理由で動く人間と理によって動く人間の差は結果に出る。
自分のやり方に自信があると思う人はそのやり方で結果を出すことにより批判を覆してほしい。
そして、結果として誤ったと思った時には間違っていたと認める勇気もあるといい。
(ただ多くは嗜虐的な理由なので論理形成と結果が伴えば誤ることはほぼない。その対象が流動的か固定的かの判断もある)

仕事の難易度や働く人間の品位やタイプは異なるが、こういった卑劣な集団への抵抗予防を怠らないようにしてほしい。
大阪おばちゃんのように仲良くできそうと思っても、付き合いにくい出来事が過去にあったなら注意しておこう。
批判される出来事があったら愉快犯的にフワフワと便乗して復讐を遂げようとしてくる。まず人間的にドライかウェットな人間か見定めて対処するのも良いだろう。

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2016年7月31日 (日)

2016年 参議院選挙、都知事選・・・、落選候補の意義を考える

先日の参議院選挙、そして今日都知事選の当選が決まった。
数々の小選挙区・比例候補が多くの票を獲得しながら落選していった。都知事選も21人の候補者からたった一人しか選ぶことができない。
しかしながら、落選した候補者の票が無駄になった訳ではないだろう。

私は参議院選挙では表現規制の防波堤として個人的に山田太郎に投票をした。詳細な得票はいちいち調べないが29万票程度を獲得したとか。
我々は投票行為を行うときには大抵の結果は予想ができていて、過去の選挙の得票数と反対しかしてこなかった野党に辟易した有権者は与党を選ぶのは既定路線としてある。東北大震災や津波が起こった時の旧民主党にガッカリした部分もあるだろうし、パフォーマンスばかりの政治ショーを行ってきた野党と批判されることがあっても堅実な政策を行うことができる与党の差が出た。

増税の失敗から仕切り直しに時間がかかったが安倍さんの功績としては財務省の人事を掌握して、伊勢志摩サミットや海外から経済学者なども呼び増税路線の切り替えを成し遂げることができた。金融経済はよくわからない世界だが黒田日銀総裁を選択し、『黒田バズーカ』、経済対策としての『アベノミクス』というキャッチフレーズで景気回復を主導してきた。企業が業績を上げれば従業員の給与を上げるだろうとおよそ性善説に立ったトリクルダウンは失敗し、企業の内部留保は投稿した現在では確か360兆円に達したという事だったと思うが、すなわち企業は設備投資や賃金に回さなかったからそれだけ溜め込んでいるのだ。成長の見通しがなければ軽々に金を出せないというのは企業も個人も通じる所はあるが企業がそれでは困る。

消費税8%と今後の10%増と見通し不安からの消費意識の低迷を受けていたこともあり「それならば!」と言わんばかりに低所得者への1万5000円の支給というヘリコプターマネーという手法と最低賃金24円を上げるなど政策を打ち出してきた。
日々景気が変化し長い視野でみれば個々人の消費の落ち込みや人生設計を狂わせてきた事を鑑みれば8%増税後の対応はけして素早いとは言えなかっただろう。ただパフォーマンス政党と比較するならスピード感と金融経済対策は現在の与党の方が巧みな手法をとることができる。

舛添さんの件で感情的、エモーショナルな理由で議員を選択、失脚に追い込むという愚を見せたが意思を持って投票することである種の票田が印象付けられる結果となったのではないかと思う。
都知事選においてはすでに数回都知事選に立候補し、監督で詳しくはないが『スコッツボローガールズ』という映像作品や慰安婦問題(売春婦問題の方が正しい)においても英語でスピーチなどで説得し続けてきた谷山雄二郎。在日特権を許さない市民の会の桜井誠も演説と反日在日韓国人と韓国の政治的圧力や贔屓に辟易した層が相当数いることを考えれば思った以上の得票を得られるかもしれない。

よく「組織票」というものがある種の組織や団体が投票されると聞くが、認知されていない浮動票や無党派層の中にも票田となる組織票が存在しているという事ではないだろうか?
組織的な横の繋がりだったり、思想的な繋がりであったり何かしらの繋がりから投票されるものが組織票だと思われるが、新たに台頭してきた組織票はネットによりネットユーザー同士の横の繋がりとネットを活用する政治家や言論人という縦の繋がりも結びつけることが可能になっている。ネットを活用する政治家はそこから票田を獲得したり、ある種の政策というものを俎上に挙げる力を持っている場合がある。

それはおそらくお金もなければしっかりとした権力基盤の上に成り立っているものでもないが、ネットにおいて真理というか正しい事を議論し模索してきたという理知的な部分により醸成されてきた言論空間は相当なものだ。いろいろな情報や分野において有力な論や実証性のある主張が伝播し結合し化学反応を起こして現実の政治活動にまで広がっていく発展を見せている。

主だった政治権力と闘うにはまだ足りないというのが正直なところであるが、
「物言う票田」が台頭してきたという認識が健闘しつつも落選した候補者から受け取られるなら、一定の価値は見出すことができたのではないだろうか。

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2015年11月11日 (水)

怒り新党に疑問。シチューかけご飯について考える

「有吉マツコの怒り新党」にてシチューにご飯をかける事に対して、肯定的・否定的な意見がとりあげたサイトの各所で寄せられた。そのご11月中にドリアが出た会でまたシチューの話題がでる。まだちょっと思うところがあってまた焚き付けられた感じだが、一般人もまだモヤモヤ感が残っているのではないだろうか。
決着をつける必要はないし答えはないが、強硬に許せないという意見には目を丸くするばかりである。

ビーフシチューならスープっぽい仕上がりだしごはんと合わないというのはわかる気がするがクリームシチューやホワイトシチューを理解できないだけでなく許せないというのは分からない。

日本人はご飯と一緒に食べる食文化がたくさんある。

日本にはご飯に合う食べ物が沢山ある。それが許すか許さないといっていること自体が偏狭というほかないあ。食文化というのは豊かな下地や正当な系譜において確立するものばかりではない。
庶民向けにはおいしいご飯と何かと食べ合わせレベルのものも多いかもしれないが支持されている食べ方があったり、一部の職業(漁師や飲食店)に限られた漁師飯やまかない飯などにも独自のご飯が存在しているのではないだろうか。

豊かな食文化を許容する土壌にある日本人がそういったことを考えると許さないだけでなく人に非ずという感覚は異常極まりない。冗談や大げさで「許さん」と言っているとしても笑えない。
ある種のISISなどの宗教とか原理主義者と同じである。

汁物と食べる米食

シチューにご飯をかけないまでも、日本には汁物とご飯を食べる食文化がある。まず断っておくが料理として確立されていない正統派ではない、下品であるという言い分はおよそ個人的な感情が入っているものなので庶民の食文化という観点から排除しないこととする。

例えば「お粥」。味はあっさりした塩味で多少の菜っ葉か梅干しを具にするぐらいの淡白な食べ物である。

お鍋の汁が残った場合は「雑炊・おじや」(以後雑炊と表記)にする。これも鍋という観点からして淡泊な食べ物である。これにご飯を足すことで飯(めし)が水分を吸って粘度を増すので食感はシャバシャバていない。具とだし汁に卵を入れるとシメの食べ物にもかかわらずあっさりしているのに食べ応えがある食べ物に変化する。ご飯ものでガッツリ食べる系の人は雑炊こそがメインディッシュではなかろうか。
「お茶漬け」も汁物と食べる米食といえるが、これもあっさりしている方だろう。

品がないがご飯に味噌汁をかける「ねこまんま」(正式な名称は知らない)もある。ごはんに対して味噌汁のだしと具がよく合う。直接かけないまでも、ご飯を口に含ませて食べた後に汁で流し込む食べ方をする人も根本的にはねこまんま的な食べ方を表向きはマナーとして拒絶しても、潜在的には許容しているともいえる。違和感がないのはやはりごはんと味噌汁は食べ合わせがいい食べ物と言えるからだろう。
だしの味がおいしいもそうだがジャガイモ、玉ねぎ、ねぎ、油揚げ、豆腐、と豊富な具を口にほおばる多幸感は、具だくさんの雑炊やシチューかけごはんと通じるものがある。焼き肉とご飯を食べる多幸感もおなじようなものだろう。

そういった汁物による米食を考えてみると、お粥などは控えめすぎるが
味が淡泊で多少粘土のある洋風の雑炊・おじやという位置づけになるのではないだろうか。

ソースと食べる米食

ここでは、汁以上に粘度のあるソースにかけて食べる米食について考える。
代表的な食べ物として「カレー」がある。旨味と辛さのバランスがよく、粘りのあるルーがご飯によく絡みおいしさが引き出されている。どんな具を入れても外れることがなく、チーズを入れたり、カツカレーにしたり、自由。基本の味覚として甘さと辛さに頼りがちなので味の繊細さは豊かではない。具材のバリエーションは何にでも合うが、悪く言えば何もかもカレー味になるなので素材の旨味を活かすのは十分ではない。大味な食べ物ではあるが国民食として誰でも作りやすく食べやすく、具によって様々な多幸感を演出することができるのが強みだろう。
最近出てきたタイカレーなどは汁物の分類にしたかったが味はしっかり辛さのパンチも利いている。

これもよく似ているが「ハヤシライス」がある。一般的に甘味が強い感じだがドミグラスソースとかワインとか使ってきちんと作ると洋食っぽさが出てコクや深みも演出できる潜在力がある。
個人的に作ることはないがチーズとか乳製品を炒める「リゾット」という食べ物もある。

「ドリア」もご飯がよく合う食べ物である。表面のチーズがおいしい、良く熱を通したパリパリになった表面を食べるのはおいしさ以上の喜びがある。エビやミートソースを入れたりイタリアン風に仕立てるものもあれば、シチューのようなグラタンなどあるが、具だくさんの多幸感が素晴らしい。

今回、有吉マツコの番組では両社ともドリアに対しての愛着がない感じだった。考えてみるとドリアとシチューをご飯にかける行為は焼いたのと鍋で煮込んだものと違うが、内容はほとんど変わらない
あまったシチューを耐熱皿でご飯を入れて焼いたら「これドリアじゃね?」と思うことはよくある。

ドリアとシチュー(厳密にはクリームシチュー)の違いについては「シチュー グラタン 違い」で検索してみると、「調理法が違い」、「グラタンは焦げ目という意味なので焼けばグラタンです」というのもあれば、真面目に答えている方は「ベシャメルソースから作るときに白ワインを入れてアルコールを飛ばせばグラタンになります」という回答がみられた。
アルコールを飛ばすのはよくある手法だし、なるほど納得という気がする。お酒の旨味とかコクが添加されるのだろう。まぁでもホワイトシチュー自体はすぐにグラタンに早変わりできる点を見ると結局は味覚的にはほぼ大差がないのが実態のようだ。市販のグラタンもシチューもホワイトソースを謳っていることが多いのでソースの差もないだろう。

つまりクリームシチューをご飯にかける行為を否定することはドリアを否定する事とほぼ同義なのだ。

その他の米食

どんぶり物としての米食はもちろんのこと、おかずとして食べる米食など沢山あるが、炭水化物レベルで考えると、味の濃淡は問わないし形態の違いだけだと気づくはずだ。
炭水化物あっての食べ物。世界の食は炭水化物で回っているのではないか。
主食を炭水化物とするとそこにあらゆる食べ方や味付け、料理ができるのは当然の結果といえる。

そういえば社会科の時間にならったキャッサバ、タロイモとか芋で炭水化物だし。アラン島などは土壌が悪い中で石垣を築いて作っていたのがジャガイモである。

「日本のお米」は「西欧のパン」?

日本人であればご飯があるが、海外ではご飯の代わりにパンを食べていてそういった文化があるのではと漠然と思うことがあった。パンをシチューにつけて食べるような古いイメージが浮かび上がった。
マナーでもフランス式、イギリス式、など色々あるようで、パンくず落としてもいいとか、スープにつけるのはダメとか、ソースをつけるのは料理人に敬意を払う意味でOKとかいろいろ細かい。

日本のお米料理はどんぶり飯とかがつがつ食べるようなものも多いが、海外だとがっつかない引いた食べ方をしているのかもしれない。お米がない地域は日本の米食のようにパンを使った料理が豊富にあったりするのかもしれない。この辺の比較は想像の域を出ない。

結論:ごはん(もとい炭水化物)は何にでも合う。

基本的においしいと思うものをおいしく食べればいいのだ。伝統を汚されない限りは海外の人がラーメンの汁に麺以外のものをつけて食べてもいいし、醤油を何にかけてもいい。
誰かが言っていたが「食べるということは救われてないといけない。」

ことシチューをかけるかけない程度のことで正当性を主張することは何もない。
正統な系譜に従って築き上げられた日本料理などを汚しているインチキ日本料理を出しているとかなら許してはならないが、普段の有吉マツコなら広い間口でいろんな話題も無難にこなしているが、正直今回の有吉とマツコはコメントはレベルが低かった。

今回のシチューご飯については少しがっかりした出来事だった。

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2015年7月 5日 (日)

新幹線焼身自殺 甘える老人に食いつぶされる日本

新幹線で焼身自殺をした林崎春生容疑者がニュースやラジオ等でも取り上げられている。
焼身自殺をした背景には「どれほどの苦難があったのだろうか」と想いを寄せないわけではないが、一切の同情が出来ない。

まず彼自身は、月12万円の年金という非常に年金生活においては現役世代が羨むほどの年金を受給していたということ。
確かにお金があれば幸せとは限らないし、幸せのカタチは他にたくさんある。しかしそれも十分なお金により生活が成り立ってこそである。

趣味や楽しみがなかったかといえばそうでもなく、パチンコやアルコールなどに金を注ぎ込んでいたとも聞いている。
十分なお金をもらっておきながら己の不甲斐なさを行政に転嫁して(あるいは若者に対する恨み言もあるかも)「年金が少ない」だとか・・・
「甘えるのもいい加減にして欲しい!」

年金の額としては少ないということはなく、辛坊治郎というテレビ業界の稼ぎ頭的な人でさえ、厚生年金の月の満額は20万円丁度だとか。
現在の年金行政は若い人の年金を年金世代に横流しする賦課方式という方法が取られている。現役世代の納付が直接、高齢者の懐に入っている。

高齢者信仰という洗脳

いま年金を受給している世代が「俺達が働いてきた時にたくさん納付したんだから何が悪い」という発言がありそうなものだが。
私の母に対して私が年金の受給格差を説いたところで「今のお年寄りが頑張ってきたからそれだけもらえている」という実態に基づかない感情的な発言をしている始末だ。
そして子である私に対して、年金の高さや年金機構・社保庁の不祥事など現実的な問題を内科のようにスルーして「年金はみんなが支え合って成り立っている年金をまじめに払え」「日本の社会を支えてきたのだから」と言う。

違う
年金については
「少ない現役が支えているのだ、年金受給世代が若者を年金で支えてきた事実は存在しない。ただ食いつぶしているだけだ」。
社会を支えてきたというのはそうだろうが
「年金医療制度設計に失敗し先細りさせた責任はとらないのか?責任も取らずなぜ現役が過重な負担を強いられるのだ」

恐ろしいことに私の母はケアマネージャーという老人の介護計画や相談を受ける仕事に就いている人間だ。介護福祉士など介護の資格は沢山あると思うが、結構地位のある仕事ではないだろうか。
お年寄りが好きで介護をする人も多いのだろうが、この母の例を鑑みて、高度な介護職員の中ですら現役と高齢者への需給バランスにおいては思考停止状態に陥り、高齢者に対して献身的な奉仕者に成り下がってしまうのだ。

お年寄りに最も近く恐らく問題点を把握しているであろう仕事に就いている人間が中核を担っているのかと思うと、日本の医療を含めた高齢者行政は非常に暗いものだ。業界の内側から体質改善を望む声が出て欲しいが、恐らく現場の人間からしたら日々の業務を滞り無く行うことにしか頭がまわっていないのではないだろうか。

私自身ヘルパーの研修に行ったが、研修にもかかわらず非常に排他的で、生ぬるい「お年寄りの方とふれあい明るく楽しそう」といったお花畑発言でも言おうものなら、過不足なく敵意感情むき出しに「そんなものじゃありません」とピシャリと言われてしまう。
では「お年寄りの方は生きているのが辛そう、現場の人は高齢者と自分たちの将来を重ねると気持ちが持たない」なんていえばいいのか。
気の利いたことなんていえないし、業務に対しての“気づき”もその余裕もありはしない。現場の苦労は入ってみないと理解できないから軽々にも言えない。施設の一端を担うベテランにしては明らかに余裕がなさすぎだった・・・。

国民年金保険料開始直後、なんと格安の100円!

これを見て欲しい。日本年金機構の『国民年金保険料の変遷』についてのデータである。
国民年金の制度が始まった昭和36年4月~昭和41年12月の開始時期の月額保険料はナント驚きの100円である。しかも、物価も易い時代であり、高度成長時代、バブル景気など経験し、終身雇用など保証されていた時代を経験している。強かったであろう一国一城の主的なマイホーム信仰や子供を産めよ増やせよの団塊の世代も経済が豊かであった証拠である。
非正規雇用に抑えられ賃金は200万円以下に抑えられ、年金、健康保険、税金地獄。自動車、マイホーム、子供?、そんな時間も責任もお金のかかることに現役世代が気を払う余裕は寸分もない。これが貧困にあえぐ多数の現役世代の現状である。
このままいけば現役世代が年金をもらう頃には受給年齢は引き上げられ、今よりもっと受給額が減っているはずだ。

ただ食欲や性欲というものは厳然として存在しているので、昔とは違う形で欲望を満たす産業に対して金を払う構造ができ始めている。経済的な理由がかなり強いのは間違いないが価値観の変化が起こっている。ただこれも現役世代の懐が潤わなければ商売が成り立たない。
お金がなくても、SNSでイラストを見せたり、ワイワイガヤガヤ馴れ合うだけで楽しいという層が多すぎるのも問題で、対価に金銭を払うという段階を踏む必要がある。インターネット・ウェブ内に無数に広がる精神的感情的なよろこびを満たすサービス群も沢山の作り手の努力によって成り立っているのだ。

年金だけじゃない国民健康保険

高齢者の病院をサロン代わりにしたり、飲まない薬を大量にもらって医療費を高騰させ、健康保険の負担は増えるばかり、健康保険は良いサービスには違いないが医療費の高騰はなんとかしてほしいものだ。

不祥事組織 日本年金機構(社会保険庁)への不信

直接的な出費のみならず、年金を運用しているのが消えた年金問題やグリーンピアなど不正流用を起こした社会保険庁(現在の日本年金機構)が運用していることだ。最近では日本年金機構が大規模な個人情報流出が発生している。

焼身事件の社会的影響

何か事件が起こると、急激に規制を強め硬直がするのが我が国の方針で危険物の持ち込みに大幅な検査や警備等人手を割くことで費用が増大するおそれがある。安全対策には設備投資によって補う部分もあるだろうが、それが出来ない場合は人的な負担として業務が増える事があるだろう。

国民の税金は打ち出の小槌ではない。現在の苦しい経済状況は長い目で見て子孫繁栄の途を絶ち、大きな禍根を残すのは疑いようがない。
現役世代には大幅に税負担を軽くしないと家庭を成り立たせるぐらいの余裕は生まれない。
税金をいいカッコのために景気良く海外にばら撒くぐらいなら、デフレ対策のために役立てて欲しい。

日本政府や日本人はお金の使い方を間違っていないだろうか?

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